少しだけ、けれど明確に関係が変わってから。

 逢う時間が少し増えて。
 電話する回数が少し増えて。
 互いを呼ぶ名が変わって。

 ……時々、触れ合うようになった。
 密やかに、優しく。
 それはこの秘めやかな関係と同じように、静かなものだった。
 そっと息を吹き掛けたそれだけでも、脆く崩れて消えてしまいそうな。

 穏やかに流れる時間は、ハッキリと心地良かった。
 繋いだ指先をいつか離す日が訪れるのだと、そんな冷たい事実がいつでもその根底にはあったのだけれど。
 それでも、相手を呼ぶ名は暖かく、触れる指は優しかった。
 終わりの予感に身を晒しながら、それでも。
 互いに向け合う想いに偽りはなかった。
 たとえば、もし世界中から間違っていると詰られ、否定されたとしても。好きだと、大切だと思う気持ちは嘘じゃないと。
 そう、言いきれるほどに。

 どうしても捨て去る事の出来ない、閉じた想い。
 舌先に苦く、触れようと伸ばした指を傷つけるそれよりも、与え合うぬくもりはずっとずっと手放しがたかった。
 溺れるように、甘えるように、ぬくもりに縋った。
 多分、二人ともが。
 それは、御柳自身でさえ天国に向ける想いが恋愛感情なのではないかと、ふとした時に思わず考えてしまうような強さで。

 ……だから、決めた。

 いや、それは最初から決まっていた。
 傷つくことも、傷つけることも。
 そのどちらも覚悟して、それが痛いと承知していて、手を取った。
 ……二人とも。


「あっれ、みゃあ早ぇのな! あ、お前まさか部活サボってきたな?」

「違ぇよ。今日は監督いねーから早かっただけだっつの」

「ホントかよー? 何つーか、とってつけたような理由」

「誠実で有名な俺がんな嘘言うわけないっしょー?」

「みゃあが誠実ってーなら、世界人口のほとんどは誠実になるだろうなー……」

「え、何。それ笑うとこ、怒るとこ?」


 どっちでもいいでーす、などと言って笑いながら、天国が近づいてくる。
 付き合う、ということになってもそう劇的な変化があったわけではない。
 軽口なんて以前から叩き合っていたし、それがまた楽しい。
 天国との応酬は肩の力が抜けるようで、御柳にとっては単純に気に入っているものだった。

 待ち合わせ場所は、二人の家の丁度中間辺りに位置する公園だった。
 ごく普通の佇まいの公園は、明るいうちこそ子供連れの母親や学校の終わった小学生などが多く見られるけれど、夕方ともなれば一気に閑散としてしまう。
 部活が終わってからの待ち合わせがどうしても多くなる二人は、この公園は賑わっている姿を殆ど見た事がなかった。
 今日もまた、いつものように公園内に散らばる人影はまばらなものだった。


「そういうお前は終わってからソッコー飛び出してきたんだな?」


 にや、と笑いながら告げてやる。
 天国が何事かを口にする前に手を伸ばして髪の先に触れれば、案の定ひやりと冷たさが伝わってきた。
 初秋とは言え、吹く風はそれなりに冷たくなっている。
 十二支からここまで来る間に、半乾きだった髪がすっかり冷えてしまったらしかった。
 指摘された言葉に、天国は落ち着かなげに視線をうろうろとさまよわせた。


「しょーがねえじゃん。だって、会いたかったし、さ」


 怒られた子供のように眉をひそめて。
 けれど、それでも天国はふっと笑ってみせた。

 何気なく言われたそれは、嬉しい言葉だった。
 けれど、だからこそ。御柳の胸をきり、と打った。
 今から告げようとしている言葉に。
 告げなければいけない、その言葉に。
 天国はどんな表情をするのだろう。
 どんな気持ちになるだろう。

 今しがた見たばかりの笑顔が、曇ってしまうのだろうか。
 自他共に涙腺が弱いと認める天国のことだから、泣いてしまうかもしれない。


 会いたかった、その言葉はひどく甘い。
 甘くて優しくて、あたたかい。
 どんなものなのかなんて分からないけれど、多分こういうのを幸せと呼ぶのかもしれない、そう思えるほどに。

 知らない、フリをしてしまえ。
 別れの言葉など、なかったことにして笑っていればいい。
 そんなこと考えなかったのだと、誤魔化してしまえばいい。
 そうすれば、ぬくもりを失わずに済む。

 暖かいものを失くす、それを惜しがる弱い心がそう囁くのを感じた。
 ひどく心奪われる、その誘いに。
 頷いてしまう、そのわけにはいかなかった。


「天国」


 呼べば、天国は微笑う。
 付き合うようになって、苗字から名前へと変わった、呼び名。
 舌先で転がすようにしてその名を口にすれば、天国はいつも微笑った。
 嬉しそうに、だけれど少しだけ憂いのあるような表情で。

 今も、また。
 いつもそうするように微笑って、けれど御柳の様子に何かを感じたのか、ことんと首を傾げた。
 身長差のせいでどうしても少し下から送られてくる視線は、自然と上目遣いに近くなる。
 その視線が、御柳はお気に入りだった。


「なんだよみゃあ。何かお前、ボーっとしてねえ?」

「んなことねえよ」

「いーや、んなことあるね! この俺の洞察力を甘く見んなよっ?」

「洞察力ねえ」

「みゃあのことに関しちゃ、かなり正確だと思うぜ? ……自分で言うのも何だけどさ」


 ぴ、と伸ばした人差し指を御柳の鼻先に突き付けて。
 語調はふざけ半分だったが、その目には御柳を気遣う色が浮かんでいた。
 破天荒なようでいて、それでもやっぱり、優しい。

 御柳は一瞬、目を伏せた。
 向けられる視線から逃れるように。
 御柳の様子に、天国がどうかしたのかと目を瞬く。
 向けられる目は、ただまっすぐに御柳を見ていた。
 逸らされることなく自分を見据える目。そんな目が在ること、そんな存在が自分の傍らに居ることが幸せじゃないのかと問われれば、多分否だ。
 他の誰でもなく自分だけを見てくれる、自分の存在が認められる、その事実のどれだけ心地良いことか。
 それでも。

 少し、息を吸って。
 ほんの少し、きり、と奥歯を噛み締めて。
 御柳は、目の前にある天国の手を掴んだ。
 絡めるように、弱くも強くない力で。


「……猿野」


 それは、久し振りに口にする音だった。
 付き合い始めてから、御柳はずっと天国を名前で呼んでいたから。
 呼ばれた天国が、瞠目する。

 言わなければ。
 決心が鈍らない、そのうちに。
 そんな風に気が急く事自体、既に決意が揺れている証拠なのだろうけれど。


「もう、逢えない」


 掴んでいる指先が、震えた。
 熱いものに触れたかのように、びくりと。
 それでも、その指が振り払われるようなことはなくて。

 天国は一瞬何か言いたげに口を開いた。
 けれど音が発せられないまま、その唇は引き結ばれ。
 平常よりも大きく見開かれていた瞳が、ゆっくりと伏せられた。
 瞬き、というには長い時間。

 間を置いて瞼を上げた天国の目には。驚きと途惑いと哀しみ、そしてそれを見せまいとする色とが見てとれた。
 複雑な感情に翻弄され、揺れるような。
 天国の涙腺の弱さは、付き合う前から知っていた。
 感情の起伏が激しく、そしてどんな感情にも真正面から全力投球で挑む天国は、よく笑い、怒り、泣いた。
 けれど、今天国の目に涙は浮かんでいない。
 耐えているであろうその様が、泣かれるよりずっと痛かった。


「……そっか」


 こくり、と一つ頷き。
 天国は、御柳に掴まれている指をすっと引いた。
 指先に触れていたぬくもりが離れ、失われていく。
 黙り込んでいる御柳を、天国は下から覗き込むようにして見た。

 間近で見ることにも慣れた、明るい茶色の虹彩。
 泣き出しそうに揺れるそれに、どうしようもなく胸の内が軋んだ。


「分かった。ともかく帰ろうぜ。暗くなってるし」


 多分無意識なのだろう、つい先ほど御柳が触れた髪の先を指先で弄りながら、天国はそう言った。
 何気ない仕草。けれどそこに溢れる御柳へ向かう想い。
 すぐに返事のできなかった御柳に、天国はぎこちないながらも笑いかけた。
 笑っているのに、ひどく哀しげに見える顔で。
 強すぎる感情に苛まれ揺れる瞳に、御柳の心も揺さぶられるようだった。

 その腕を掴んで、引き寄せて。
 ぬくもりを腕の中に閉じ込めて、嘘だと告げれば。
 冗談だから、ごめん、とでも笑いながら口にすれば。
 きっと、いつものように笑うのだろう。
 御柳の好きな顔で。
 同じ時間を過ごすうちにどうにも大切になってしまった、笑顔を見せてくれるのだろう。


「……なあ」

「何?」

「分かれ道までは、名前で呼んでくんね?」


 俯き気味に、天国が言う。
 消え入りそうな声に、御柳は返事の代わりに天国の手を握った。
 厳しい練習で肉刺だらけの、決して柔らかいとは言えない手のひらと指先。
 それでも、暖かくて手放し難い、その手。

 御柳の無言の返事を受け取った天国は、しばらく黙ったまま身じろぎもせずに立っていたが。
 やがて、躊躇いがちに握った指先に力が込められた。
 天国からの、返答。

 分かった、から。
 ありがとう。

 おずおずと、そんな声が聞こえたような気がした。


 それでも、先に立って歩き出したのは天国だった。
 御柳は天国に手を引かれるような格好で、半歩後ろを歩き出す。

 黄昏時、夕陽は沈んでしまった。
 暗くなる空。名残りのように、西の空だけが紅く染まっている。
 赤から藍のグラデーションの空はやけに寒々しく、寂しい色だった。

 歩き始めた二人の横を、自転車が通り過ぎる。
 制服を着ている所からして、同じ年頃だろう恋人たちの笑い声が辺りにやけに響いて。
 その音が、いつまでも木霊するかのように耳に残った。

 楽しげな、幸せそうな声が。
 遠ざかるばかりのそれが、どうしようもなく切なかった。















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