「……分かってたから、さ」



 歩き出してから、しばらく経った頃。
 ぽつりと、天国が言った。

 御柳の半歩前を歩くその顔は、俯き加減で表情を窺い知ることは出来ない。
 夜の帳が降り始めている中では、それでなくても見えづらいのに。
 俯く天国の耳から顎にかけてのラインをぼんやりと眺めながら、どんな顔をして言っているのだろうかと、そんなことを考える。

 見えない、けれど。
 寂しそうな顔をしているのだろう、と。
 繋いだ手を握り締めながら、思った。
 絡めた指が、少し冷たい。
 それは寂しさの温度のようにも感じられる。


「天国?」

「解ってたことじゃん、最初から。こういう日がいつか来るって。必ず、こうなるって」


 終わらないものなんてない。
 永遠なんてありえない。
 それを知っていて、だからこそ始まった。
 そんな関係だった。

 終わりが見えていなければ、きっと始まることすらなかった。
 解っている。
 解っていた、その事実を。
 改めて告げられ、突き付けられた。

 今日、それを最初に天国に向けたのは自分だった筈なのに。
 投げ返されたそれに、愕然とする。
 痛みと哀しみを内包したそれは、驚くほど重かった。
 ……笑えないほどに。


「わかってた。だから、気にすんなよ」


 握った指先に少しだけ力を込めて。
 何でもないことのような口調で、天国は言う。
 大丈夫だからと。
 傷ついたりはしていないと。
 痛くないはずが、ないのに。

 解っていても、覚悟していても、痛いものは痛い。
 離したくないと、御柳ですら思うのだ。
 天国がそれを感じていない筈がない。
 離れ、失われていく熱を惜しがらない訳がない。

 それでも。


「俺、嬉しかったし。お前と、いれて。俺のワガママに、付き合ってもらえて」


 俯いていた顔を上げ、御柳へと顔を向けた天国は。
 哀しみも苦しみも身の内を渦巻いているだろうに、笑っていた。

 決別の痛み、その重さに驚いた。
 笑えないほどだと、思った。
 その矢先で見せられた、笑顔だった。

 満面の笑み、ではない。
 ぎこちなく、哀しげで苦しさをひた隠しにした表情だ。
 それでも、笑っていた。


「ラッキーだったよな俺、うん。好きなヤツと一緒の時間、もらえたんだし」


 およそ、別れの場面に相応しくない言葉と表情で。
 痛みに苛まれながら、身の内に吹き荒ぶ嵐のような感情を抱えながら、それでも笑えるだけの強さが天国にはあった。
 天国の、その強さはちゃんと知っていた。
 知っていると、そう思っていた。
 その筈だった。
 けれど今、目の前で見せられたのは御柳の想像を超えるほどの力だった。

 ……手を、離さなければと。

 そう御柳が決心した要因の一つが、その強さにもあるのだと、天国は知らない。
 告げるつもりも、まして気付かせるつもりもなかったけれど。

 どれだけ傷ついても、苦しんでも、たとえ泣いても。
 絶望の深淵を覗き込んで足が竦んでも、それでも、天国は笑うのだ。
 笑って、また前を見据える。


 御柳は自分が弱いとは決して思わない。
 けれど、天国が持つような類の強さを己が持ち得るようになれるとも、思っていなかった。
 自分の力量、限界を知り道を踏み誤ることがないように進む、それが万人に指示されずとも道の一つであることは知っていた。
 そしてまた、自分の限界すら超えていく強さを持つ人間が稀にいること、それも知っていた。
 天国の持つ力は、自分といるといつかダメになっていくのだ、ということも。
 本当はもう、ずっと前から気付いていたのだ。
 知っていて、切り出せなかった。

 自分にはない、その強さや優しさが、心地よくて。
 手放し難くて。
 そして何より、共に時間を過ごすうちに天国の存在が御柳の中で大きくなっていって。

 好きか、嫌いかと問われれば。
 天国へ向ける感情は、間違も迷いもなく好きというカテゴリに属する。
 眩しいほどの強さも、他者へ向けられる駆け引きなしの感情も。
 どれもが、御柳のお気に入りで。

 付き合うようになってから知ったこともある。
 高校男子にしては少し高めと言える体温を、子供っぽいと気にしているだとか。
 手を重ねるのが好きだとか。
 唇の端にされるキスが気に入っているだとか。

 一つ一つ、どれもが大切だった。
 それは、偽りのない感情だ。


 天国から笑顔や言葉を向けられるたび、いつも思っていた。
 いつも、いつも。
 天国が自分に向けてくれるのと同じ感情を返せればいいのに、と。
 同じだけの想いを、同じだけの強さで返せれば。

 向けられる瞳と、同じ色彩で見つめ返せればいいのに。
 それが出来れば、天国はきっと今以上に幸せそうに笑ってくれるだろう。
 そして、自分もまた。
 幸せな心地になれるだろう。

 幾度もそう思って。
 心が揺らぐその度に、根底にある唯一無二にまた気付かされることになった。
 どうしようと消し去れないものが在ることに、否というほど意識を揺さぶられた。
 天国がくれる、優しくて甘やかで、それでいて哀しくてどうしようもない恋情に心を傾けようとする、その度に。
 身の内を逆巻く消せない炎のような感情は、幾度も幾度も御柳の心に爪を立てた。遠慮呵責ない強さで。


「そろそろ、だな」


 寂しげに呟かれた言葉が耳を穿ち、我に返った。
 二人の道が分かれる、別れるその場所が目前に迫ってきていた。
 離した指先は、もう2度と戻らない。
 覚悟していた。互いの為にはそれが一番なのだと充分すぎるほど分かっていた。だから今日、別れを告げたのだ。

 なのに。

 握った手を離す時が来たのだと、別れを目前にようやく実感が湧いてきたようだった。
 最後だというのに、碌な話もしていない。
 繋いだ手は体温を分け合うにまで至らなかったらしい。絡めた天国の指は、少し冷たいそのままだった。
 どうしようもなくて、それでも何をすればいいのか分からずに。
 足が、歩みを止めた。

 半歩前を歩く天国が、握っているままの手をくんと引かれて。
 そうされることで、立ち尽くす御柳に気付いたらしかった。
 立ち止まり御柳を振り仰いだ天国は、問いかける代わりに首を傾げる。
 いつもと変わらないその仕草に、どうにも言葉が出て来ない。
 まっすぐにその目を見返しているのが堪らなくなって、御柳はふっと視線を逃すように顔を俯かせた。


「……ごめんな、天国」


 視線を落とすと同時に唇から零れたのは、そんな言葉だった。
 どうしようもねえ。
 思わず頭を抱えたくなる。
 けれど、気の利いた言葉など出て来ようはずもない。


「謝るなよ。お前が最初に言ったんじゃん、共犯なんだってさ」


 天国は、小さく微笑ったようだった。
 握った手に、もう片方の手が重ねられる。
 触れた指先も、手のひらも。ハードな部活で酷使された手は、肉刺だらけで決して柔らかくはない。
 それでも天国は御柳の手が好きだと何度も言ったし、逆もまた。
 御柳も、天国の手が好きだった。

 女のように柔らかくも細やかでもないけれど。
 ただ、暖かかった。
 この先、この手に触れることはないのだろうと思う。
 触れるのは、自分ではない誰かだ。
 それを考えると惜しくも寂しくもあるのは、事実で。
 引きとめたいと思う自分がいる反面、次にこの手を握る誰かは、目一杯天国を愛することが出来る存在であればいいのに、とも願う。

 別れを惜しみながら、それでも胸の内は穏やかだ。
 天国へ向かう感情は、いつでも相反する。
 捨て去れないただ一つがいつでも胸の奥にあったのも事実だけれど。
 それでいて天国を想う気持ちがあったこと、それもまた事実だった。
 誰に理解されることも支持されることがなくても、それでも。御柳は、天国が大切だった。


「共犯、な。言うじゃねーか天国」

「最初に言ったのはみゃあだろ。だーから、お前だけが悪いわけじゃねーってこと。な?」


 悪い、というならば。きっとどちらもが、だ。
 だけれど、この関係に善悪がつけられないことなど、当事者である二人こそがよく分かっていた。

 曖昧な関係。
 それは、終わりが分かっていたからこそ始まった、刹那的な恋愛だったから。
 終わりが見えていなかったら、始まることもきっとなかっただろうから。



 する、と握っていた手が解かれた。
 言葉よりもずっと雄弁な、別れの合図。


「ありがとな、御柳」


 そうして呼ばれた名は、トモダチの響きで。
 御柳が俯かせていた顔を上げれば、天国はやはり笑っていた。
 哀しさも寂しさも拭いきれない、それでもきっと前を向くのだろう強さで。

 傷ついて、傷つけた。
 いっそ責めて詰られればこんな気持ちにはならなかったのかと、勝手な事を考える。
 赦される優しさと残酷さのその分だけ、失くすのをためらい心が震える。

 手を振って、遠くなるその背に、今ならまだ追いつける。
 腕を掴んで、肩を抱いて、そうすれば。



「……ばいばい、天国」



 けれど、御柳は一言呟くに留めた。
 孤独も切なさも全て押し込めて、たった一言だけ。
 告げた言葉は、恋人への別れ。
 もう呼ぶことのない名前を、これで最後だと口にした。

 見つめていた背中から目を逸らし、御柳も歩き出す。
 天国が向かったのとは、別の道へと。

 名前を呼ぶ声も、嬉しそうな笑顔も。
 全部、好きだった。
 それが、天国と同じ想いから来るものではなくても、御柳は天国が好きだった。


「え、オイ、マジかよ」


 驚いて思わず言ったのは、頬を伝う涙に気付いたからだ。
 意図せず不意に零れたそれに、珍しくも慌てる。
 泣く、なんて一体どれくらいぶりのことだろう。
 足を止めて涙を拭いながら、自分とは違う岐路を行った天国も今ごろ泣いているのだろうかと、そんなことを思った。
 分かたれた道じゃ、確認もできない。

 一瞬、振り返りかけて。
 御柳は、首を軽く振ってそれをやめる。

 ぬくもりに縋るのは、もう終わったから。
 腕に抱いた暖かさに安堵しながら、心の奥深くが疼くのは、本当はどちらもが苦しくて。




 愛せなかったけれど、好きだった。




 指先を濡らす涙が、想いの名残りのようで。
 どうしようもなさに、御柳は息を吐いた。





END











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2004年秋に名古屋で行われたオンリー直後に、猿受け熱が上がりまくってガーっと書いた話だったりします。
夜バスを待っている最中に手帳にがりがりと……(笑)

T.M.Rさんの「last resort」をご存知の方は是非とも聞きなおしてみてください。
あの歌がなければこの話はございませんでした。
芭唐さんの想い人はどなたでも。


2004/5/10 UPDATE