【捌・割れた鏡】







 朱点にとどめを刺したのは、無涯の太刀だった。


 朱点。
 一族の始まりとなる始祖に呪いをかけた、その鬼。
 都を襲い来る数々の鬼たち、その頭目。呪いをかけ、病を撒き散らし、人々の心に不安を巣食わせる、その原因の中心にいるモノ。
 その所業を話に聞くばかりで、実際姿を目にするのは初めてだった。
 都の大部分が、きっと姿を見ることも叶わないのだろうけれど。

 鬼、まさにそう形容するのが相応しい姿だった。
 身の丈は成人男子のゆうに2倍はある。体の幅もそれに応じて広く、一見すると小山がそこにいるかのようだ。
 その頭からは、角が生えている。眉間の上に一本と、それぞれの耳の上に一本ずつ。三本のうち、右耳の上にある角と眉間の上にある角は、途中で折られたかのように欠けていた。
 朱点、その名の示す通り肌の色が赤い。

 無涯の太刀でがくりと膝をついた朱点は、けれど何故か不気味に笑い出した。
 牙の生えた口が、さもおかしそうに弧を描く。
 血を吐くような、切れ切れの笑い声。
 死に逝く声音ながら、いやだからこそなのか、それは天国に鳥肌を立たせた。
 槍の柄を握る手に力を込めて、震えないように唇を噛む。


「けけ……っ、バカどもが、テメェの手で鏡を割っちまいやがった……」


 それが、朱点の最期の言葉だった。
 言葉の意味を問う間もなく、唇の端から血を流しながら朱点は倒れた。
 痛いほどの静寂が支配している朱点閣の中に、どさりと朱点がくずれ落ちたその音だけが大きく木霊する。
 誰も彼も、口を開かなかった。
 嘲笑いながらの朱点の言葉、それに意味がないとは思えなかったのだ。
 雅国も、美央も、無涯も、そして天国も。
 その言葉の示すところを、測り兼ねていた。


「鏡……?」


 やがて、ぽつりと。
 誰にともなく声に出して呟いたのは、美央だった。
 鈴の音のような凛とした声、天国の好きなその音が、途惑いに震えていた。

 朱点を討つことは、一族の悲願。
 それを果たしたはずなのに、誰も動けなかった。
 遺された言葉、そこに含まれたただならぬ雰囲気が否応なしに4人を包み込んでいた。


「! 父上、朱点が!」


 事切れたはずの朱点が、びくびくと痙攣するかのように身を震わせ始めている。
 天国の悲鳴にも近い声に、皆がそれぞれに武器を構え直した。

 何が、残っている――?

 声に出さずとも、きっとそれぞれが同じ事を考えたに違いない。
 朱点を討つ、それで終わりだと思っていた。
 だが朱点の言葉、それに含まれているのはそれだけでは終わらない何か、だ。
 思えば、戦闘に入るその時も朱点は何やらおかしなことを口走っていたようだった。
 何かに気付いたような顔で、そしておかしそうに笑っていた。そう、倒れ伏すその時と殆ど同じように。
 謎かけのような言葉、それの意味するところが一体何だというのか。
 それを理解できるのは、この場にはいなかった。
 唯一知りえたのは、事切れた筈の朱点本人だけだ。

 びく、びくり、と不気味に揺れていた朱点が、不意にその面を上げた。
 だが、上げられた顔、その目に生気はない。
 どこを見据えているでもないその目は、ただ虚ろに暗く、底がない。
 足を踏み入れたら最後、引き摺り込まれて戻ってこられなくなりそうな。

 思い当たったそれに、ぞわりと寒気が走る。
 足を踏み入れた迷宮、そこに佇むのは俺たちじゃないのか、と。
 現世に帰ることの出来ない、そんな淵に立たされているのではないのか、と。
 死臭が鼻をつく。
 何とはなしに吸い込んだ空気が、予想外にひゅっと音を立てて喉を通り過ぎた。

 どうしてだろう。
 頭の奥が鐘を打ち鳴らしているような気がする。
 警鐘は確かに聞こえているのに、その意味を理解することが出来ない。
 だから、動けない。


「天国」

「……うん」


 声をかけてきたのは無涯だった。
 隣りに並び、そっと小声で。
 とん、と肩が触れて、その感触に状況は緊迫しているというのに思わず安堵の息が洩れた。
 ふっと息をするのと同時に、固くなっていた手足に感覚が戻ってくる。
 槍を握る手のひらに、じわりと汗が浮かぶ。

 4人が固唾を飲んで見守る中、朱点がむくりと身を起こす。
 だがその動きは、生気の感じられない瞳同様に奇妙なものだった。
 まるで何かに操られているかのように、不自然なのだ。
 ここが舞台であったなら、朱点を操る細い糸が見えたかもしれない。
 そんな風に思えるほど、その動きはがくがくと不自然だった。


「傀儡、か?」


 雅国が訝しげに呟いた、その時。
 朱点の顎が、がくんと落ちた。
 その喉の奥から、ぬうと白い物が現れる。
 それは何者かの手指、であった。
 細くて長い、形の整った指。緊張する天国の手のひらよりか、幾許か大きいように見えた。
 手は、朱点の顎をぐいと押し上げる。
 それに押され、朱点の顔が天頂を仰ぐように上向いた。

 口の中から腕が突き出た。
 ニの腕、頭、肩、背中。
 昆虫が古い殻を脱ぎ捨て成長するかのように、朱点の中から出でたのは。


「芭唐……?」


 意図せず、天国の口から呟きが零れた。
 朱点の中から現れ、今4人に背を向けて立っているのは、その後ろ姿は紛れもなく芭唐のものだった。
 しかしその体は、いつも見ていたように向こう側の景色が透けてしまうものではなかった。
 吹きつける風に髪の先を揺らし、おそらくは今この場所、朱点閣の空気の冷たさもその肌には感じられているに違いない。

 そう、芭唐は実体を伴っていた。
 取り戻した、そう言うのが正しいのだろうか。
 けれど言い切ることが出来ない。
 呪いが解けたんだな、と笑って言うことが出来ない。
 朱点閣の中を風が巻く。耳元で唸る風音は、どこか不吉な音だった。


「よぉ。久し振り、か? や、そーでもねえんかな。ま、どっちでもいーか。やーっと会えたってのには、代わりねーんだし」


 ゆっくりと振り向いた芭唐は、くつくつと喉の奥から込み上げて来るような笑い方をしながら、そう言った。
 切れ長の目を三日月形に細めて、薄く空いた唇の隙間からは、八重歯が覗いている。
 楽しげに笑う芭唐に、けれど天国は言葉が出てこなかった。
 喉の奥を何かに塞がれたかのよう。
 声が出て来ない、何を言えばいいのか分からない。

 朱点の中から芭唐が現れた、そのことには勿論驚いた。
 けれど、今の天国を取り巻く感情は単に驚きだけではなく。
 今の芭唐には声をかけられない、かけてはいけないと思わせるような強い何か、がある。
 一体何なのかは分からない、けれど気圧されるようなそれに。背中の辺りがぞわりと、厭な感触を訴えた。
 本能、とでも言うべきか。


「まずはやっぱ、ありがとさんってとこだよな。コイツん中から俺を出してくれたんだからよ」


 コイツ、と言いながら芭唐は足元に伏している朱点を足先で蹴飛ばした。
 芭唐の言葉に答えは返らない。
 天国は勿論、無涯も、美央も、雅国も、沈黙していた。
 けれど芭唐はそれを気にした様子もなく、話を続ける。
 答えなど期待していないのだろうか。
 うっすらと笑んでいる芭唐だが、その目が冷たい炎のような色を宿していることに天国は気付いた。

 冷たい。
 哀しい。
 遠い。

 手を伸ばしたその指先が、ちりちりと焼かれるような。
 今の芭唐には、きっとどんな言葉も届かない。
 何故だかそれが、混乱している頭でハッキリと分かった。







 

 

 

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