【玖・滅びた都】 「俺な、これでも皇子なんだよ。昔、ここには都があった。勿論、小っちぇモンだったけどな。ホラ、ここに来る途中で集落みてーなの通っただろ? あれはその名残でさ」 言いながら芭唐が右手をひらめかせる。 指先は天国たちの佇む、そのずっと背後を示していた。 歩んできた道程、その途中を。 芭唐の目には、今こうしていてもその都が見えているかのようだった。 遠い日を懐かしむような、昔日に想いを馳せるような目は天国でも朱点閣の内部でもない、ずっとずっと遠くを見据えていた。 芭唐の言う通り、確かに朱点閣に訪れるその途中でいくつかの建物が立ち並ぶ場所を通った。 無数の鬼たちが徘徊し、手入れする者もなく廃墟と化した街並ではあったけれど。 雪に深く覆われた山の中に、何故建造物があるのかと訝った覚えがある。 言われてみれば、あれは都と呼べるような造りだった。 「あの規模だ、たかが知れてるだろ? けど、そこに住む奴らにとっちゃ生きる場所だったんだ。それもまあ、あそこに火を放たれるまでの短い間だったんだけどよ」 伸ばしていた腕を下ろし、芭唐は肩を竦めた。 伏し目がちの表情はよく見えないけれど、その声に含まれた切なげな音に天国は思わず眉を寄せた。 そこここから立ち上る火の手。 火の粉が爆ぜる音、逃げ惑う人々の足音。 男の怒号、女の悲鳴、子供の泣く声。 紅く染まった、街並…… 見たわけでも、知っているわけでもない筈なのに。 何故かその光景が、脳裏に浮かび上がる。 気持ち悪い。 震えそうになるのを耐えると、代わりにこめかみを一筋汗が伝い落ちた。 幸いだったのは、誰にもそれを気付かれなかったことだった。 いや、一人。 身体の上を滑った視線は、話し続ける芭唐のものだった。 僅かに細められた目に、自分に一体何をしたのかと声をあげそうになる。 そうしなかったのは、口を開けば吐いてしまいそうなほどに気分が悪かったからだ。 そんなことある筈ないのに、街が、人が燃える匂いが鼻をつくような気がする。 固く目を閉じてこの場にしゃがみ込んでしまいたい。 けれど、それも出来ずに。 天国はただ、立ち尽くすしかなかった。 「皆殺しさ。男も、女も、子供も。ひでーもんだったぜ。俺の父親は女に化けた奴に背中からバッサリだ。母親は、俺と姉貴を助ける為に奴らに自分から身を差し出した……」 思い出せる。 あの日、あの時のことは、今でも何一つ欠けることなく。 立ち上る炎と煙、染め上げられた紅い街と空。 忘れることなど出来ない記憶は、いつでも意識を苛み怒りと恨みを身の内に渦巻かせた。 こうして口にするだけでも、怒りは消えることのない炎のように感情を昂ぶらせる。 子供だった自分には、何も出来なかった。 燃える街も、殺された父親も、身を差し出した母親も、ただ見ていることしか出来なかった。 けれど、だからこそ。 見ていることしか出来なかったその分、記憶にはハッキリと残っている。 「けどよ、根拠もなく都なんぞを造るワケもないだろ? 父が帝を名乗り、俺が皇子と称された理由……それは、俺の母親が女神だったから、だ。笑えるっしょ? 神が人間に恋をして、地上に降りてガキまで作って。その挙句身の破滅を招いたってんだからよ」 言いながら、けれど笑いが零れた。苦い言葉を口にしている、その筈なのに何故か笑えた。 喉の奥を震わせ、思わず笑う。 何が可笑しいのかは自分でもよく分からなかった。 空気の震えに、天国が微かに肩を震わせるのが見えた。 芭唐は天国に、特に何かしたわけではなかった。 天国は感受性が強い。 その所為で芭唐の記憶に引きずられてしまったのだろう。 青い顔で立ち尽くし、それでも俯くことはしない。 瞳は泣き出しそうに潤んでいたが、伏せられることはなかった。 いっそ痛々しいまでの強さとひたむきさに、また笑いが零れる。 「ホンモノの神の子である俺がそう易々と殺されるわけもねーっしょ? 何の因果か、力は有り余るほどあったからな、俺」 笑いながら、芭唐は己の掌を見やった。 そこには、薄く光を放つ碧玉。 天国たち、野支一族の額に在る呪いの証と同じ色の。 芭唐はぐっと手を握り締めると、くくっと肩を震わせた。 身の内、奥底から湧き上がってくる力の奔流が心地良い。 「けどなあ、タダで起きないのが人間ってやつなんだよな。俺を殺せないと分かったアイツらは、俺に呪いをかけやがった! そんで俺、あの忌々しい鬼ん中に入ってたってわけ……ひでー話っしょ?」 窮屈だったよなあ、と首を回す。 何せ力は出しきれない、容れ物として選ばれた鬼の意思も完全に消えたわけではないせいで全てを自分の思うように出来ない、とくれば。 苛立ちが募るのも当然だった。 けれどそれも今日までだ。 解放された今、笑い出したいほどの力が迸るのが感じられる。 「だからさ……」 静かな声で言った芭唐の周囲が、揺らめく。 視覚で捉えることが出来るほどの、強い力の奔流。 「だから、同じように仕返してやったぐらいじゃ、全然足りねーってことなんだよ! ガキだった俺は、そんでもあの時思ったんだ。アイツらと…アイツらの家族、その末裔まで残さず呪ってやるってな!」 芭唐が声を荒げた。 その声は、いっそ悲痛とも言えるほどだった。 少なくとも天国には、そう聞こえた。 天国たちを見下ろす芭唐の目は、冷たく、そして強い光を宿していた。 赤く光る目は、言い知れぬ怒りを湛えている。 今まで出会うこともなかった、強烈な怒りと怨みだ。 その想いが体を、心を突き刺すように感じられた。 芭唐の意志に呼応するかのように、朱点閣の中に不意に強い風が巻き起こった。 気を抜くと吹き飛ばされてしまいそうなそれに、足先に力を込めて耐える。 風が、ごおごおと唸った 芭唐は尚も言葉を続ける。 「許さねーよ? アイツらも、京の人間も、誰一人。ま、お前らには感謝してっけど。あん中に居たんじゃあ、俺は力の半分も出せなかったわけだしなあ?」 吹き荒れる風の中、何かが崩れるような音がする。 がらがら、という音。その発信源は。 無数の、まさに数えきれないと形容するのが相応しいほどの数の骨だった。 おそらくは朱点を討とうと大江山に足を踏み入れ、志半ばにして散った者たちの。 恐怖と無念、そして怨みを抱いたまま事切れた者たちが、まるでその怨念を天国たちへ向けるかのように風に煽られ向かってくる。 雅国はそれを薙ぎ、美央はかわし、無涯は斬った。 だが、天国は。 芭唐を見上げたまま、動かなかった。動けなかったのだ。 頭のどこかでは避けなければと分かっているのに。 それでも、手も足も動かない。 意思が四肢に伝わらない。 呆然と立ち尽くす天国は、それでも芭唐の冷たい色をした目が自分に向けられていることに気付く。 怒りに燃える赤い瞳が、何の感情も湛える事なく自分を見ている。 かろうじて動かすことが出来た顔を、天国は躊躇う事なく芭唐に向けた。 視線が、絡む。 「天国っ!」 鋭い声で名を呼ばれた。 瞬時には、それが誰の声だか、何故自分が呼ばれているのか判断できない。 芭唐と目が合った、その一瞬は。 時間も、空気も、全てが止まったような気がした。 言葉も感情も、全て。 凍てついたように止まってしまった。 刹那の時であっただろうその瞬間は、少なくとも天国にとっては永劫にも近いほどに長く感じられた。 呼び声に顔を向けるより早く、強い力で腕を引かれた。 体が傾き、その拍子に握り締めていた槍が手の中からすり抜ける。 落ちた槍が床にぶつかり、からん、と乾いた音を立てた。耳鳴りがするほどの勢いで風が吹き荒れているその中で、何故かその音はハッキリと天国の耳を穿った。 肩を掴む強い腕に、無涯が引き寄せてかばってくれたのだと知る。 そうなって初めて、四肢に力が戻った。 ぱちぱちと瞬きをして。それから一瞬、目を伏せる。 何かを考えるように。何かに耐えるように。 そうしている間にも視線を感じる。突き刺さるほどのそれには、一体どんな感情が込められているのか。 様々な感情が交じり合ったそれを判断することは、天国には出来なかった。 ゆっくりと目を開け、向けられ続ける視線に応えるように玉座を見上げた。 臆することなく向ける目に、芭唐が笑うように目を細めた。 「ば、から」 何にかは分からないけれど、とにかくもう耐え切れなかった。 耐えられない、そんな気になって天国は芭唐の名を呼んだ。 呼んだ、というよりも呟いたと表現した方が余程正しいような、小さな声だった。 風が吹き荒れていなくとも、その声が聞こえるとは思えないような、微かな音だったのだけれど。 それでも、その声は届いた。 少なくとも、天国にはそう感じられた。 視線の先で玉座の床をたん、と蹴って宙に舞った芭唐の唇にはハッキリと笑みが刻まれていたから。 飛び降りた芭唐は、天国たちの目の前にある床に吸い込まれるように消えた。 そこには何時の間にか、印が浮かび上がっていた。 禍禍しくも見える紅で描かれた印、その真ん中に芭唐は音もなく身を投じたのだ。 芭唐を飲み込んだ床は、まるで水であるかのように一つ二つ、波紋を広げる。 「ああそうそう、言い忘れてたけど」 まるで世間話でもするかのような言い様。 そんな声と共に芭唐が顔を覗かせたのは、やはり床の中からで。 印の中央から、ひょいと首から上だけを覗かせていた。 一度に色々な事が起こり過ぎて言葉を失っている天国たちに、芭唐はにやりと笑いかけた。 そうして、こう言い放った。 「また会おうぜ、兄弟」 投げられた言葉の意味は、分からなかった。 多分、その場にいた誰一人として分かり得なかった。 分かったのは、朱点を討ち果たすことが戦いの終わりではなかった、ということだ。 いや、むしろ芭唐こそが真の朱点とでも言うべきなのか。 どうして、そう言いたいのに言葉は声にならなかった。 塞がれてしまったかのような喉をどうこうすることは、天国には出来なくて。 芭唐はそれ以上の言葉を紡ぐ事はせずに、また頭を沈めた。 代わりに現れた手が、からかうようにひらひらと振られる。 じゃあまたな、とでも言いたげに。 揺らめくその手のひらには、一族にかけられた呪いの証と同じ色をした碧玉が在った。 振られていた手も、すぐに床の中に消え。 石造りの筈の床がまたもとぷん、と波打った。 それを最後に芭唐は本当に去って行ったらしい。 床はもう震えることはなく、荒れ狂っていた風もぴたりと収まった。 芭唐の手のひらを見て、天国はふと思い出していた。 初めて会ったその日に芭唐と約束をしていたことを。 朱点を討ち、芭唐が実体を取り戻したその暁には手を繋ごう、と。 果たされなかったその約束が、ただ遠くに思えた。 「なんで……?」 芭唐に問い質したかった言葉が、今更零れた。 足から力が抜けて、かくんとその場に膝を着く。 言葉が零れると同時に、涙も堰を切った。 はらはらと頬を伝うそれが、どうにも冷たくて哀しい。 「天国、大丈夫だ」 天国と視線を合わせるように、無涯がしゃがみ込んでくれた。 震える肩に置かれた手は、暖かい。 生きている者の暖かさ、そして優しさが伝わってくる。 涙が止まらないまま、天国は無涯の手を掴んだ。 ぎゅう、とその手を握って、ただ泣いた。 それしか出来なかった。 涙が冷たいのは、吹き荒れる冬の寒さの所為だろうか。 否であると分かっている質問を敢えてする。 何も考えたくなかった。 一族のこれから、皆の失意、芭唐が持つ憎しみ。 どれもが重く、哀しく思えて。 天国はただ、泣き続けた。 無涯も雅国も美央も、誰一人として天国が泣くことを止めようとはしなかった。 底冷えする朱点閣の中に、天国のひそやかな泣き声が響いていた。 |