【漆・白百合、落つ】








 無槻が不帰の客となったのは、祭りが終えて間もなくしてのことだった。
 秋も深まり、山々の木々がその色を変え始めたその矢先。
 色を変えた木の葉が落ちるようにして、無槻は倒れた。


 床に伏すその姿は儚げで、天国はただ泣いた。
 野支の血を引く者、その宿命は飽きる程聞かされ、理解しているはずだった。
 それでも、涙は止まらなかった。

 自分よりも無槻と長く過ごした雅国や美央、そして何より母親を失った無涯の哀しみは自分のそれとは比にならないだろう。
 そう分かっていても、涙を止めることが出来なかった。

 ひとが死ぬのは、いやだ。
 淋しい。哀しい。

 胸の中にぽっかり穴が空いて、そこから色々なものが零れていくような気分になる。
 大切なものや暖かなものが、ぽろぽろ、ぽろぽろと。


「天国」

「……っ、がい、にい……」

「冷えるぞ。来い」


 呼ばれた。
 声に振り向けば、無涯が縁側に座り込んでいた。

 天国が途方に暮れるように立ち尽していたのは、庭だった。
 無槻に名を貰った、野支の家族として最初に呼ばれた、場所。

 あの時と同じだ、天国は漠然と思う。
 そうだ、あの時も無槻に手招かれた。
 涼やかな、意思の強さがその声にまでありありと現れている凛とした声音で呼ばれ、思ったのだ。
 この家に来て良かった、生まれて良かった、と。

 天国は無涯に歩み寄りながら頬を伝う涙を拭った。
 けれど涙は瞳の端から次々に零れ落ちる。
 目元を擦ろうとした天国の手は、けれど無涯に止められた。


「目を擦るな。……いいから」

「っ、だって、俺っ」

「泣くことは悪いことじゃない。母も言っていた」

「でも、無涯兄……」

「気が済むまで泣け。泣いてくれ、俺の……分まで」

「ぅ、っく、うえぇ……」


 声を上げて泣き出した天国を、無涯はひょいと抱き上げた。
 父親が子供をそうするかのように、天国を膝の上に乗せる。
 しがみついてくる腕は子供のそれのように、暖かくて必死だった。
 あやすように、その背をゆっくり撫でてやる。


 野支の血を引く人間は、成長が早い。
 短命の呪いのせいか、それとも神と交わった特別な血の所為なのか、どちらかは分からないけれど。
 彼らは新緑がその葉を競うように生い茂らせて行くかの如く、すくすくと成長していく。
 多少の個人差はあれど、彼らは八ヶ月ほどでほとんど成人するのと変らない体躯に育つ。
 そこまで成長してからは、その後の流れは緩やかだ。
 見た目はほぼ変わることのないまま、短い生が尽きるまでを駆り立てられるように過ごす。

 戦いに追われ、日々に追われ、ただ走り抜けていく。
 彼らが地上に降り立ち、その天寿を全うするまでの時間は約2年。
 それよりも短くなることはままあれど、それより長く生きる者はほんのごく僅か。


 天国も、その血を受けている。
 二ヶ月ばかり前、この屋敷にやってきた時は言葉もまだ覚束ない幼子だったというのに。
 今の天国は、見た目からすると十かそこらに見えた。
 柔らかく丸っこかった手指も、段々と細くなっている。
 これから背が伸び、手足が伸び、子供から少年へ、少年から青年へと成長していくのだ。
 そう、瞬きをするほどの短さで。

 宿業とは言え、酷なことだと思う。
 辛いばかりではない、それは分かっていても、そう思わずにいられなかった。
 早回しのような日々に、心が疲弊していくのはどうしようもない。


 天国は、まだ知らない。
 戦場の空気、そこに漂う血の匂い。そして呑み込まれそうな狂気と紙一重で戦う、その心地を。
 戦地に赴いたことのない子供は、それを知らない。経験していない。

 だからこそ、これほどまでに済んだ目で泣けるのだろうと。どこか冷静に無涯は考えていた。
 家族が、母親が死んだのだ。
 そのことが哀しくないのかと問われれば、勿論哀しい。肉親の、近しい者の死は、野支の血を引く者でなくとも心を痛めて然るべきことだ。
 それを解していながら、無涯は泣かなかった。
 泣けなかった。
 なぜなら。


「天国」

「がい、にぃ…?」

「母は、幸せだったぞ。俺は、そう思う」

「しあ、わせ?」


 どこか諭すような無涯の物言いに、涙で濡れた目はそのままに天国はきょとんと首を傾げた。
 涙の溜まるその目が、赤くなっている。
 目の周りも赤くなっていて、後で冷やさなければな、と無涯は思った。
 泣き過ぎたせいだろう、天国はどこかぼんやりとしていて。無涯は微笑し、その頬をそっとなぞった。


「ああ。戦場ではなく、畳の上で、家族に見守られながら黄泉への旅路を辿ることが出来ようとは、きっとあの人自身が一番予想だにしていなかったことだろうからな」


 無涯は、思い出していた。
 生前、無槻が苦笑しながら言っていたことを。
 他の奴には内緒だよ、アンタはあたしの息子だから特別に言うんだ、と前置きをして。

 少し淋しそうな目をしながら言った無槻の顔は、当主としてのそれではなかった。
 一人の、当たり前の人間としての、弱音を吐くその姿だった。
 それが見られたのは、息子として少し誇らしかった。自分にそれを告げても大丈夫だと、そう認められたようで。
 己の母親ながら、それ以上に一人の人間として、無涯は無槻のことを尊敬していた。その強く凛々しい人から、僅かながらも頼られるのは嬉しいことだった。

 無槻は、言った。
 鬼とは言え無数の命を狩る自分たちは、まともな死に場所など求めることは出来ないだろう。
 他の誰が許そうとも、きっと自身が一番それを許すことは出来ないだろう、と。
 討伐へ向かう、その度に。
 振り切ることの出来ない死の予感と息吹に、向かい合ってきた。
 今度こそ死ぬかもしれない、いつもいつもその思いに身を苛まれながら、ただ進むしかなかった。

 それしか、なかったからだ。
 是非を問う暇などある筈もなく、ただ前を向き歩き続けた。
 それに疑問を抱く隙もないままに。
 生まれ出でたその瞬間に、向かう先は決まっていたのだから。

 脇目も振らず前へと歩み続けたその先に。その果てに。
 訪れた最期は、きっと無槻自身が一番驚くほど静かで穏やかなものだった。
 苦しむ様子も殆ど見せず、無槻は苦笑いさえ浮かべていた。
 悪いね、まだ沢山のことを残してあるけど、と。

 でも大丈夫だね、アンタたちなら。
 後は頼むよ、じゃあお先に。

 その言葉に、表情に、無念はなかった。後悔もなかった。
 それが何より、無涯にとっては救われた証のような気がしたのだ。


「泣けるだけ泣いておけ。明日からは、きっとその暇もなくなる」


 言って、無涯は天国の頭を撫でた。
 無涯を見上げたまま黙っている天国に、少し困ったように笑ってみせて。


「母ならきっと、そう言っただろうと思ってな」

「…っん、うん、無槻姐さんなら、言った。絶対…っそう、言ったっ」


 泣きながら頷き、頷きながら泣いて。
 天国はまた、はらはらと涙を零し始めた。
 しゃくりあげながら、天国は無涯の肩に顔を押し付ける。
 落とされた涙が無涯の着物にじわりと染みた。暖かい。

 震える肩を、背中を、撫で、抱き締めながら。
 そのぬくもりと、透明な涙と心に触れながら。
 無涯も少し、涙を流した。
 喪失の哀しみは、どれだけ言い聞かせようともやはり、痛いものだから。
 今だけなら泣いても、きっと母は許してくれるだろうから。


 無槻は、白百合が好きだった。
 イツ花もよく、無槻が白百合のような美人だと褒めていた。
 秋も深まった今、百合の花は咲いていない。
 手向けにその花を捧げることができないのが、ただ無性に残念だった。










「美央」


 別室。
 第11代当主となった雅国は、いつになく真剣な声音で言った。
 向き合う美央の顔にも、緊張が見て取れる。


「10月と11月で、天国を鍛える。俺たちの力も、勿論蓄える」

「はい」

「で。……12月、朱点閣に向かう。全て、終わらせるんだ。俺たちで」

「……はい」


 頷いた美央の手は、少し震えていた。
 けれど、その目に宿るのは並々ならぬ決意。
 終わらせる。
 その言葉への、賛同。

 終わらせる。
 全てを。

 この呪いを、断ち切るその為に。
 紡がれた血と、何より未来の為に。





 冬が、迫って来ていた。








 

 





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