【陸・その手に】








「あっれ……何だチビ、お前野支の家の出か?」


 頭上から降ってきた声に、天国は見つめていた風車から視線を逸らし顔を上げた。
 そこにいたのは、一人の少年だった。年の頃は16、7といった所だろう。
 薄紅色、いや桃色と表現した方が近い、天国が今まで見た事もないような形の着物を身に纏っている。着物の表面には、碧の河のような模様が描かれていた。
 見たことのない、顔だった。
 切れ長の目が、天国を見据えている。

 その体は半透明で、彼の向こう側の景色が霞んで見えていた。
 どう贔屓目に見ても、それは生あるものの姿ではなかった。
 けれど、どうしてか。
 彼が魔性のようにも思えず、天国は唐突に現れた彼に驚くばかりだった。

 光るひとだ、そんなことを思いながら天国は言葉を返すことも出来ずに彼を見上げていた。
 ただ目を瞬かせているばかりの天国に、少年がその形良い眉を寄せた。


「あっれ…何、もしかして俺のこと聞いてねえの? 俺、芭唐ってんだけどさ」


 ばから。
 告げられた名前を、口の中で反芻してみる。
 記憶を手繰るが、その名を聞くのは初めてだった。
 天国は芭唐をまっすぐに見据えたまま、一言返した。


「聞いてない」


 天国の言葉は、何やら芭唐に衝撃を与えたらしい。
 芭唐は顔を顰め、右手で額を押さえた。


「あーあーもー、何だよ冷てえのなー。確かに俺はちょっとした情報集めるぐらいしかできねぇけどさー…もうちょっとこう、朱点に呪いをかけられた者同士としての付き合いっつーか何つーかさ……」


 ぶつぶつと呟く芭唐の言葉、その中にさりげなく織り交ぜられた一言に天国はきょとんと目を丸くした。
 朱点に呪いをかけられた。
 間違いでなければ、芭唐はそう言った。
 その言葉は、イツ花にも現当主である無槻にも父親である雅国にも、聞かされたことがある言葉だった。


「呪い?」

「んあ? ああ、見りゃ分かんだろ。俺、実体がねえの」

「兄ちゃん、幽霊なのか?」

「芭唐でいーって。正確には幽霊じゃねーけど……ま、この姿じゃそう言われても仕方ねーか」


 苦笑して、中空に漂っていた芭唐は、天国の前にふわりと降り立った。
 実体がないため、その動作には音もない。
 芭唐は天国の顔を覗き込むように、視線を同じ位置にするように、天国の前にしゃがみ込んだ。

 実体がない、それは分かる。
 透けた体には到底血が通っているようには見えないから。
 それでも、芭唐の動作に合わせてその髪も服の裾も、音もなく揺れている。


「手ぇ出してみな」

「手? こう?」


 言われるまま、天国は芭唐に向かって手を差し出した。右手には風車を持っている為、出したのは左手だ。
 素直な天国に、けれど芭唐は少し苦笑いをする。
 その身に呪いを受けながら、それでもいっそ眩しいほどの無垢さ。
 まっすぐな目は、澄んでいた。
 何故だろう、その目を正面から見据えるのに少しだけ躊躇うような気分になるのは。

 苦笑いしたまま、芭唐は天国が差し出した手のひらに向かって、自分の手を伸ばす。
 天国の手のひらに、芭唐の指先が触れる、そう思った瞬間。


「あ」


 意図せず、天国の唇から声が洩れ出た。
 芭唐の指は、天国の手に触れる事なくすうと通り過ぎたのだ。
 指が通り過ぎた、それすら感触としては何も感じられなかった。全くの無。

 宵闇に揺れる行き場のない鬼火のように。
 芭唐は、指をひらめかせた。
 天国はそれを目で追う。


「何かに触れる事も、風を感じる事も陽光の暖かさを感じることも、何もねーんだ。俺は」

「芭唐、寂しいのか?」

「虚しい、っつった方が近いかもな」


 虚。
 虚ろ。

 心の奥にぽかりと空いた、闇色のそれ。
 天国は未だ知ることのない、昏い感情。
 微苦笑している芭唐に、天国はきゅうと眉を寄せた。
 その手に触れられないこと、それがどうにも淋しく思えた。

 だって、芭唐はここに居るのに。
 ここに居て、言葉を交わして、その存在がハッキリと見えるのに。


「呪いが解けたら、触れるようになるのか?」

「んー、そうじゃねぇかな。断言はできねーけど。そうだと思ってるっつか、そう信じたいとこではあるよな」

「出来るよ。呪いが解けたら、絶対触れるようになる。芭唐の手に」


 だから。

 きゅ、と唇を噛んで、天国は左手を芭唐に向かって差し出した。
 向けられる手のひらに、芭唐は軽く目を見張る。
 小さい手だった。
 子供特有の丸みを帯びた、きっと触れたのなら暖かいだろう、手。

 損得も駆け引きもない。
 ただ差し伸べられた手。
 それを、掴みたいと。
 触れたい、と。
 瞬間的に思った。

 芭唐の心中など知る由もない天国は、手のひらをひらめかせたまま、にかっと笑う。
 子供らしい、ただまっすぐな目で。
 まっすぐな、それでも確かに何かを背負った、そんな目で。
 その目を見た芭唐は、ああコイツも野支の血を引く人間なのだ、と。それを改めて思い知らされる。
 軽くはない使命を背負い、それでも笑える優しさ。
 前を向ける強さ。

 野支の人間には、そんなものが常に宿る。
 強さと優しさ、その根本にあるのは生きる力と意思。
 呪いをかけられて尚、いやだからこそと言うべきか。


「だから、約束、しよ。呪いが解けたら、手ぇ繋いでな?」


 笑顔で手を伸ばす、子供。
 言い切る言葉の裏に根拠などない。
 それでも、自分の言葉を微塵も疑ってなどいない。
 それが、無知であるが故の強さと無垢さなのだと。そう判断してしまうのは簡単で、それこそが正しいことだとは思ったのだけれど。

 芭唐は何故だか笑って、伸ばされた手の上に自分の手を重ねていた。
 正確には実体がない芭唐は、重ねるフリをしただけだったのだけれど。
 天国はそれに、ひどく嬉しそうに笑った。


「そういやチビ、名前は?」

「チビじゃねーよっ。野支天国! 職業槍使い!」

「あまくに、ね。良い名前だな」


 芭唐の言葉に、天国は父上の名前を一文字頂いたんだ、とどこか誇らしげな様子で語った。
 野支家は、外界と交流を持たないその分、何より一族…家族の絆が深い。
 それは少しだけ、芭唐の目には眩しく写った。



 はぐれてしまった天国を、無涯が見つけて駆け寄ってくるのはそれから半時ほど経ってからのことだった。






 

 





         オマケイラスト【芭唐



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