【伍・光るひと】







 家族とはぐれてしまったのは、その音に気を取られたからだった。




 からから、からから。



 母親の元にいる時、幾度も聞いた音。
 重なり合う、少しだけ哀しい響きにも似たそれ。


「母上さま……」


 集まった人々の醸し出す活気、それの中に紛れる事なくその音が天国の耳を穿ったのは。
 母を思い起こさせるその音を聞き逃すことがなかったのは。
 仕方ないことだったのだろう。

 音を辿ると、程なく風車が売られている屋台に行き着いた。
 無数の風車が並び、風を受けてくるくると廻っている。
 それは否応なく、天国におぼろげな天界の記憶を呼び起こさせた。

 あの場所での風車は、こんな風に整然としてはいなかった。
 白い空間に、ぽつりぽつりと道標のように、或いは旅人を惑わす鬼火のようにあちこちに立っていた。
 少しだけ寂しげなその光景が、けれど天国は幼心に好きだった。


 何故なら、歩いて行ったその先には。



「ぼうや、どの色がいいんだい?」


 不意に声をかけられ、天国はびくりと身を震わせた。
 風車に吸い寄せられていた視線を無理矢理引き剥がし、声の方へと顔を向ける。
 そこには、小柄な老婆が立っていた。

 その面にも、藤色の着物から出る手にも、生きてきた年月を物語るような皺が幾重にも刻まれている。
 それは、野支の人間がどうあっても手に入れられないものだ。

 重ねた年月の中で、得るもの。
 長きを重ねた上でしか、得られない深い何か。
 生きる上で大切なことは、それだけではない。

 それは重々承知しているけれど、それでも心は無情にも揺さぶられることがある。
 自分は、それを知ることはできないのだと。
 思い知らされるそれに、身の内が食い荒らされるように軋む。

 天国はぼんやりと老婆を見ていたが、やがて問われた言葉の意味に気付く。
 あまりにもジッと見ていたから、見兼ねて声をかけてくれたのだろう。


「あ、あの、俺……お金、持ってないから、買えません」


 ごめんなさい、と頭を下げて。
 謝りながら、ようやく自分が家族とはぐれてしまった事に気付いた。
 音に誘われるまま、ふらふらとここへ来てしまったのだ。
 どこへ向かったのかなど見ているわけもなく。

 ああ、どうしよう。

 下げた頭をゆるゆると上げながら、天国は途方に暮れていた。
 今生の別れではないと分かっているから、泣きたいような気にはならないけれど。
 今頃、天国がいないことに気付いて家族が心配をしているのではないかと、そう思うとどうにも申し訳なかった。
 父にも、美央にも、無涯にも。


「風車に、何か思い入れがあるのかい?」

「母上さまの、音だから」


 呆然としている天国に、老婆が再び話しかけてくる。
 天国はその問いに、こくりと頷いた。
 頷いて、ぽつりと答えた。

 その答えは、意味の分かるものとは決して言えないものだった。
 それを頭のどこかでちゃんと理解していながら、けれど順序立てて説明する気には何故だかならなかった。
 生まれる前のことを思い出せ、と言われているかのような漠然とした記憶。
 言葉や理性ではなく、感覚が覚えている、何か。
 それが、天国にとっては風車の音だった。

 思い入れがあるか、と問われれば勿論そうだろう。
 顔も碌に覚えていない母親の面影の中、唯一ハッキリと残るのはこの音だったから。


「そうかい…ちょっとお待ち」


 言うと、老婆は屋台の奥に引っ込んでしまう。
 天国はそれを見送り、またぼんやりと目の前に並ぶ風車を見上げた。
 赤や青や黄色が、くるくると廻る。

 母上さま、と天国が口の中でもう一度呟いたとき、老婆が奥から戻ってきた。
 その片手に、風車を1つ手にして。


「コイツはね、持ち手の先が折れちまって売り物にならないのさ。ただ捨てるのも忍びないから、ぼうやが持っていってくれないかい?」

「え……?」

「さ、お持ち」


 きょとんとしている天国の手に、老婆は風車を握らせる。
 赤い色のそれは、風を受けてくるくると廻っていた。
 呆然としたまま受け取ってしまったそれに目をやれば、確かに持ち手の先が不自然な形になっているのが分かった。
 それでも、風車としては充分だ。

 天国は、数瞬おいてからようやく我に返る。
 それと同時に、胸の奥からむくむくと嬉しさが沸き上がってきた。
 天国は老婆に向き直ると、ぺこりと頭を下げる。


「あの、ありがとうございました!」

「気を付けてお行きよ」

「はい!」


 見知らぬ誰かの優しい心に出会え、それに触れられた事が嬉しかった。
 母の面影に立ち合えた事が、嬉しかった。
 踵を返した天国は、家族を探す為に人込みの中を歩き出した。









「見つからないなぁ……」


 祭りの喧騒の中での人探しは、困難極まりなかった。
 特に背の高い大人たちの間に埋もれてしまう天国では、その苦労は並大抵のことではない。
 さんざん歩き回った挙句、動き回らずにいた方が家族にも見付け易いのではないかということに気付いたのはつい先刻の事だ。


 人波から逃れた天国は、祭りの明かりから少し離れた川辺りを訪れていた。
 川原には天国の膝丈ほどの高さに草が生い茂っている。

 祭りの喧騒と光りからほんの少し離れただけだと言うのに、川原の静けさと暗闇は一際際立っているように思えた。
 すぐ近くに人の気配と光りとが溢れているせいで、余計に闇が深く濃く見えてしまうのだろう。

 それでも、何故だか天国の内側には根拠もなく大丈夫、という思いが渦巻いていた。
 どこから浮かんでくる感情なのか、どうしてそんなことが思えるのか。それは天国自身にもよく分からないものではあったのだけれど。

 しっかりと握り締めた風車が、くるくると廻るのを見るその度に。
 大丈夫、大丈夫と心の奥の奥からそんな思いが湧き上がってきていた。
 面影も朧な母親が、まるですぐ傍で励ましてくれているかのようだった。
 天国がぼんやりと風車を見ていた、その時だった。



「あっれ……何だチビ、お前野支の家の出か?」



 頭上から、声が降ってきた。


 驚いた、それが一番最初の感情で。
 その次にこれは誰なんだろう、とか。
 どうして野支の人間だと言い当てられたのだろう、とか。
 次いでそんなことを考えた。
 だけれど、不思議と怖いとは思わなかった。
 微塵たりとも。

 声をかけてきた人物が、到底人とは言いがたい、半透明の体でふわふわと宙に浮いている、それを間近で確認しながらも。

 怖い、とだけは思わなかったのだ。
 それが天国の物怖じしない性格のせいなのか、もっと別の理由があるのかは、誰にも分からないことだったのだけれども。



 天国が思ったのは、その半透明に揺れる、少しだけ発光しているような姿がどこか綺麗だと。
 祭りの提灯のそれより、優しげな光りだと。

 そんな、とりとめもないことだった。





 

 





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