【弍・天の国】






 天の国でのことは、あまりハッキリとは覚えていない。

 幼い頃のことだし仕方ないと言えば仕方ないのだろう。
 俺以外の皆も、そうだと言っていたから。



 ふわふわとした記憶。
 雲なのか霧なのか、それとももっと別の何かなのか。
 白いものが、視界を遮って。

 あちらこちらに置かれた風車が、からからと廻っていた。
 からから、からからと。
 その音が寂しげで、俺は少し心細くなる。

 赤や黄色の風車は、風もないのによく廻って。
 勢いよく、というほどでもないのだけれど、けれど止まることもなく。
 その、からから、という寂しげな音だけは、今でも何故か耳に残っている。

 白い靄の中を進んでいくうちに、俺は目当ての背中を見つけた。
 薄萌黄とも薄青磁とも言える淡い色の着物が、靄の中にぽつりと浮かび上がっていた。
 その時の俺はきっと、笑顔になっていたに違いないと思う。

 祭りの最中に親とはぐれた子供が、親を見つけたその時のように。
 安堵して、笑って、そうして親の腕に取り縋り安心して、また泣くように。



「ははうえさま」


 俺が呼んだ声に、俺の母親……であり天の神の一人でもあるそのひとはゆっくりと振り返り、にこりと笑んだ。
 風を司る神であるというその人が、儚げで線が細く、消えてしまいそうな印象を与える外見だった、と知ったのは俺が下界に降りて随分経ってからだった。
 顔立ちも背格好も、俺の記憶じゃ曖昧すぎてよく分からないから。

 覚えているのは、舌たらずな言葉で俺が呼ぶ声に、笑ってくれた。
 優しい言葉をかけるでも、抱き上げてあやすでもなく。

 ただ、笑ってくれた。

 それが、どうしようもなく嬉しかった。

 覚えているのは、それだけ。



 俺にとっての天の国の記憶、強いては母親のことについての記憶は、これしかない。
 物心ついた頃には下界の…つまり人間の住む世界に降りてくる俺たち一族は、大概そんなものらしい。

 だけれど俺たちは、それを寂しいと思う暇すらない。
 己の血の中に潜まされた呪いを解くために。
 親兄弟、ご先祖さまの無念を討ちはたす為、それはひいては己の子孫の為に、戦い続けること。
 それが、俺たち一族に課せられた使命だから。


 けど……だけど、少しだけ、思うんだ。
 自分のことを忘れられてしまう、覚えていてもらえない、それって本当はすごく哀しいことなんじゃないかって。
 俺たちはまだ、目の前に意識を向けるべきことがあるけど。
 天の国のひとたち…正確には神様たちは、辛くはないんだろうかって。
 ほんの時折だけど、そんなことを考える。

 永劫にも近い時の中、ゆっくりと忘れ去られて行く自分の存在を見続けるのは、どんな心地なのだろうと。
 想像することしかできないそれは、ひどく苦い事に思えた。
 苦く哀しい、そんなことに思えてならなかった。

 俺の勝手な想像だから、実際はどうなのかは知らないけど。
 もしかしたら、天の国でも楽しいこととか沢山会って、宴会とかもやってたりするのかもしれないけど。



 だから、これは、多分。
 俺の願いでもあるんだろう。

 忘れられたくない。

 顔もマトモに覚えていない母に、これから生まれてくる俺たちの血を引く子孫に。
 記憶の片隅でいい、覚えていてほしいと。
 そう、願っているのだろう。
 それが儚い願いだと、分かっていながら。


 母上さま。
 ちゃんと覚えていられなくて、ごめんなさい。
 だけど、貴方の笑顔は俺の心を暖かくしてくれるよ。今も。
 風車の音を聞くと、少し寂しい気持ちになると同時に、貴方のことを思い出すよ。

 これから、忙しくなるみたいだ。
 だから多分、思い出に耽ってることも出来なくなると思う。
 だけど、忘れるわけじゃないから。
 それだけは、分かってほしい。


 今は昔を見るよりも、先へ進むしかないから。


 他の誰でもない、俺の為に。






 

 





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