【壱・廻る風車】




 薄明るい、霧とも靄ともつかぬ白い何かが漂う空間。
 右も左も、始まりも終わりもその場所には存在しえぬようだ。目を凝らそうとも、果ては見えない。
 靄の中には、無数の風車が立てられていた。
 終わりの見えない世界で、風もないのに風車は廻っている。
 寂しげに。儚げに。
 それでも、己の存在を主張するように、からからと。


 その中に立ち、からからと音を立てる風車を見るともなく見ている女神がいた。

 風を司る女神、風車ノお七である。
 彼女の日課は、何処からともなくこの空間へと現れる風車を見つめることだった。

 無論、ただ見つめているだけではない。
 他の神には聞こえない、風車の語る言葉に耳を傾けているのである。
 色とりどりの風車は、風もないはずのこの空間でもからからと廻り続けていた。


 風車に宿るもの、それは行き場を見失った水子の霊だった。
 ある魂は生きる力が足りず力尽きてここへ来た。
 また別のある魂は口減らしの為に生まれることを許されなかった。
 そんな魂たちが、無念と哀しみを抱えてお七の元へと風車になって訪れるのである。

 お七は何を言うでもない。
 ただただ、黙って風車の廻る音を聞いているだけだ。
 風車は、水子の霊たちは、何をするでもない。
 何を望むでもない。

 彼らは皆一様に、語りたいのだ。
 言葉にならぬ言葉で。
 声にも満たない、声で。

 己が確かにここに居た、そのことを。
 生きることは叶わねど、それでも存在していたのだと。


 お七は、知っていた。
 この魂たちに、言葉をかける必要はないことを。
 彼らが望むのは、言葉を貰うことではないのだと。
 だからお七は、何も言わない。
 ただ黙って、彼らの言葉に耳を傾けるだけ。

 そうして、からからと廻り続ける風車は、いつしかその姿を消す。
 何処から訪れるのか分からないそれが、何処に去るのか。
 お七は、それを知らない。
 知ろうとも思わない。
 それが彼らの望むべくことではないと、知っているからだ。

 いつしか消える風車。
 けれど風車は、この空間から一つ残らず消え去ってしまうことはない。
 一つが消えるその傍から、新たに別の風車が現れるからだ。

 一つ消えたその矢先に、二つも三つも新たな音が現れる。
 下界が荒れると、その数も尋常ではない。
 からから、からから。
 乾いた音が、お七の周囲を満たす。

 お七は何を言うわけでもなく、ただ風車を見つめていた。
 その整った顔には、どんな表情も浮かび上がらない。




「ははうえさま」


 唐突に、背後からの呼び声。
 風車の音ではない、幼子の舌足らずな声。
 お七はその声に、ゆっくりと振り向いた。

 白い着物を身に着けた幼子が、そこに立っていた。
 年の頃は、3つか4つと言ったところ。
 お七を見つけたことが嬉しくてたまらない、と言った風に、その顔に笑みを浮かべている。
 お七は幼子に向かって、にこりと笑んでみせた。

 幼子は、お七の子供である。
 人間のように己の腹に宿した子、ではないから正確には違うのかもしれないけれど。
 それでも確かに、幼子はお七の子供だった。

 下界に住まう、野支家の血を引く子供だった。
 野支家の雅国と、お七とが交神の儀を通じて生まれた子供、それが今お七の目の前にいる幼子なのである。


 本当なら、抱き上げてあげればよいのだろう。
 優しく呼びかけてあげればよいのだろう。
 けれど、お七にはそれが出来なかった。

 水子たちの言葉を一身に受けたこの身で、この腕で幼子を抱き上げるのが怖かった。
 知らずのうちにこの身に宿った哀しみが、明るい笑顔の幼子にまで影を落としてしまいそうで。
 愛しく思うが故に、お七は子供を抱き上げる事ができなかった。

 ならばせめて名を呼ぶべきかと思うのだけれど。
 子には、名がなかった。
 野支の家へ下る子供は、下界に降りてから名を貰う。
 家族となるべき人間から、名を与えられそうして己の一族たる自覚を持つのだ。

 だから、今の子には名がない。
 その為、お七は子供に呼びかけることもできなかった。


 いとおしいと思う気持ちには、偽りはないというのに。


 それでも子供は、お七を見上げてにこにこと笑っている。
 嬉しそうに。
 幸せそうに。

 幼子の存在は、お七の心を暖かくした。
 何をしてくれるわけでもないのに、からから、という乾いた音に包まれたこの空間を、お七の心をふわりと包み込んだ。





 お七は、一度鬼となり下界に下っていたことがある。
 風車が増え続け、それがどうにもやり切れなくなってしまった時だった。
 何とはなしに赴いた下界で、彼女は朱点の囁きに負けたのだ。
 乾いた音に包まれるのはもう厭なのだろうと、その問いに。
 否を唱える事が、出来なかった。

 己でも知らぬうちに、水子たちの哀しみを聞き続けることが辛くなっていた。
 無念と哀しみが心の奥底に沈殿し、それを朱点に見抜かれた。
 幾年も彼らの音を聞き続けたお七の心には、いつしか彼らと同様の想いが渦巻いていたのである。

 そしてお七は、鬼になった。
 朱の首輪を嵌められ、都を荒らす鬼の1つになった。


 そのお七の朱の首輪を砕いたのが、野支一族の者だった。
 お七が交神した雅国が討伐隊の中にいたのを、お七はハッキリ覚えている。
 朱の首輪から解放されたお七は、二度と戻る事はないと思っていた天界へと戻ってきたのだった。

 正直なところ、戻って何になるのか、と思った。
 己が鬼になった原因は朱点にあるのではない。
 それを、お七は分かっていたからだ。

 お七が鬼になった原因、それは他でもないお七の心の弱さだ。
 哀しき水子の囁き、それを聞き続けることに耐えられないと。
 そう思ってしまった心を、その迷いを朱点に見抜かれたのだ。
 ふらりと地上に足を向けたのも、本当は心のどこかで分かっていたのだろうと思う。
 地上へ下れば、今なら。
 天の国へ戻らずに、済むと。
 あの哀しい音を聞き続けずに済む、と。


 お七はまたいつ鬼になるともしれない、そんな自分が恐ろしかった。
 それでも逃げることもできず、風車の廻る音を聞き続けていたある日のこと。
 お七は、交神の儀を執り行うことを聞かされた。
 是も非もなく、ただ流れに任せようと思っていたお七に。

 現れた雅国は、顔を見るなりこう告げたのだ。


『貴方の哀しそうな顔に惚れました。俺と、少し話をしませんか?』


 と。
 正直、驚いた。そして、呆れた。
 雅国のまっすぐな物言い、物怖じしない態度。
 自分が神であろうとなかろうと、この男には大して問題はないのではないか。
 そんなことを思わされた。

 雅国は、不思議な男だった。
 少なくともお七の目にはそう映った。
 その身に、確かに朱点の呪いを受けているというのに。
 人として生まれておきながら、人として当たり前に生きることを許されず。
 神の身からすればほんの僅かな期間、人として以って当然のはずの辛苦も楽しみも知らず。
 日々を戦いに費やし、常人のそれよりも遥かに早くその身を散らしてゆく。
 それを知りながら、雅国はお七が知る誰よりもまっすぐだった。

 子供のような顔で笑う男だと、そう思った。
 初めこそ途惑いどう対処していいものか分からずにいたお七だが、雅国との会話を為すうちに自然と彼が傍らに在るのが気にならなくなってきた。
 それどころか、風車の乾いた音ばかりを相手にしてきたお七にとって、雅国の声は他の何にも変え難いほど心地良いものへと変わっていったのである。

 限りある逢瀬だとは、始めから分かっていた。
 それでなくとも神と人は、身を置く時間の流れが違い過ぎる。
 失うことが、怖いと思った。

 言葉を紡ぐことがあまり得意ではないお七が、拙くもそれを雅国に伝えた時。
 雅国は、言った。


『俺も、怖いです。いつか忘れられていくことが。貴方にも、俺の子孫にも、きっといつか、忘れられていく。それはきっとどうしようもない』


 それは、雅国がお七の元を訪れて始めて洩らした弱音だった。
 寂しげな、置いて行かれた子供のような顔で。

 その時初めて、お七は野支の一族が立つ場所を見た気がした。
 どれだけの強い力を持とうとも、加護を与えられようとも。
 彼らの中には、どうしようと拭いきれない哀しみが渦巻いている。
 人としての観点から見れば、彼らの生きる年月はあまりに不自然だ。

 人が生きて、積み重ねて行く経験。
 そういうものが、彼らにはない。
 2年に満たない年月の中で、彼らは人の一生を生きなければならない。
 口に出した事はなくとも、普段は意識せずにいるとしても。
 消すことの出来ないその事実が彼らを確実に蝕んでいるのであろうことは、お七にも理解できた。

 それでも笑う雅国の強さが、羨ましく思えた。
 愛しく、思えた。

 その時、お七には自覚がなかったのだが。
 自覚のないまま、その口元に笑みを刻んでいたらしい。
 それを目にした雅国が、ひどく驚いて指摘したのだから、それは間違いない。


『お七様、笑った方がいいですよ! 凄く凄く、可愛い!!』


 神相手に、どれほど不遜な態度を取れば気が済むのだろうこの男は。
 そう感じつつ、お七は呆れと同時に気恥ずかしさも覚えていた。
 可愛い、だなんて。
 まだこの身が存在していた頃、人として下界で暮らしていた遥か昔の幼き日に両親に言われたぐらいだった。
 それすらも、あまりにも昔のこと過ぎてお七の記憶には残っていないと言った方が正しい。

 途惑うお七を余所に、その笑顔が見られたことが嬉しくてたまらないらしい。
 雅国は、自分こそが何よりも嬉しそうに笑っていた。
 お七が好ましいと思った、子供のような顔で。
 実際、彼の生きた年月から考えれば子供なのだから、それも仕方ないことなのかもしれない。

 けれど、雅国の性格を思えば。
 きっと彼は他の人間と同じような寿命を貰ったのだとしても、変わらず子供のような顔で笑っていたに違いないと。
 お七は、そんなことを思った。


『忘れないわ。貴方のこと。私は、覚えてる。忘れない』


 告げた言葉に、雅国は真っ赤になって。
 それが可笑しくてお七が笑えば、やがて雅国も一緒になって笑って。
 ありがとうございます、と照れた顔で言った雅国の顔を、お七は忘れることはないだろうと、思った。





「お前は、父上にそっくりね」


 自分を見上げてくる幼子に、お七は告げた。
 子供は、きょとんと首を傾げる。

 正確に言えば、子供は二人の容姿をどちらも受け継いでいた。
 肌の色はお七を、目の色は雅国を、髪の色は二人を足したような色だったから。
 けれどお七は、子供が雅国に似ていると言って譲らなかった。
 そう思う最大の要因は、子供の表情が雅国のそれとそっくりだったからだ。

 そしてその事実は、お七にとっては嬉しいことだった。
 きっとこの子は、強く生きる。
 父と同じように、強く優しい、そんな生き方をしてくれる。
 それが、約束されたような気がして。

 子供は、強く生きるだろう。
 そうして自分よりも早く死ぬだろう。

 分かっていた筈の事実はお七の心を重くする。
 それでも、お七は子供に向かって笑いかけた。
 雅国が好きだと、その方がいいと言ってくれた笑顔で。
 この子の記憶に残る自分が、笑顔であればいいと願って。




 忘れないわ。
 言ったでしょう、覚えていると。

 貴方が私の笑顔を好きだと告げてくれたから、私はこの子に笑えるの。
 貴方がいなくても。
 この子がいなくなっても。

 私は、笑うことを忘れない。

 廻る風車のように貴方たちが紡ぐ輪廻を、ずっと見守っているわ。
 だから、生きて。

 最期まで、生きて。
 貴方らしく。
 私の好きな、笑顔のままで。


 私は、貴方を、忘れないわ。







 

 

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