くーすー、くーすー。
降り注ぐあたたかな陽射し。
抜けるような青い青い空。
世界で一番気まぐれかつ困難な航路とされる海も、今日はその牙を剥くことなく穏やかで。
まさしく、昼寝日和。
「? おいウソップ、ルフィはどうしたよ」
昼食までは、まだ間のある時間。
愛用のエプロンを洗って、日当たりの良い場所を探すべく船内を見渡して、ふと。いつもの船首に、いつもの後ろ姿がないことに気付いた。
甲板でゾロ相手にチェスをしているウソップに、サンジはそう問い掛ける。
「ああ、アイツ昨夜見張りだっただろ? だからどっかで寝てると思うぜ」
盤面から目を離そうともせずに、ウソップは答える。
「ふーん……」
それに対する、いつもなら甲板で大の字になって爆睡しているはずのゾロもどこかしら真剣な面持ちで。
「何だ? 賭けでもしてんのか?」
「負けた方が今月洗濯当番なんだって」
答えたのは横で勝負の行方を見守っていたチョッパー。
ありがちと言えばありがちな状況に、サンジは軽く肩を竦める。
「お前はどっちに賭けてんだ?」
「ん〜、おれはチェスのルール分かんないから。見てるだけ」
「ほーぅ」
覗き込んだ盤面から見て、実力は五分五分と言った所か。
そういえばこの二人は結構暇な時に駒を並べているのを何度か見た覚えがある。
あまりチェスに興味のないサンジはほとんどの場合観戦だけだったが。(同じようにルールを知らないルフィも。まぁ教えた所で面倒になって途中で放り出すであろうことは火を見るより明らかだが)
「賭けてんだったら、こんな平穏無事な勝負じゃあつまんねぇだろうによ」
言いながらサンジはにやりと笑い。
ひょいと手を伸ばすとウソップのナイトと、ゾロのビショップをそれぞれ動かした。
「ああ〜!!」
「何しやがんだ、テメェ!」
唐突な第三者の介入にウソップがぎゃあと叫び、ゾロが怒りもあらわに立ち上がる。
だがサンジは飄々とした態度を崩さずに。
「賭けてるってんなら、これくらい波乱があった方が面白いじゃねぇか」
サンジはひらひらと手を振りながら笑う。
ま、どーせ他人事だしな。
「うおおお、おれの綿密かつ壮大な計画がぁぁ〜」
「クソっ…他人事だと思いやがってっ」
ご名答。ま、せーぜー頑張んな。
頭を抱えて唸る二人を尻目に、サンジは盤面に背を向けた。
が、船首方向に向かいながらふと振り返る。
「勝った方には今日のデザートオマケしてやるよ」
投げた言葉は、勝負の真っ最中の二人の耳に届いていたのかどうか。
おそらく届いてはいまい。
二人の真剣な雰囲気に押されてか、見ているだけのチョッパーも何故か真剣な表情になっている。
その様子が可笑しくて、サンジは一人笑みを零した。
くーすー、くーすー。
お気に入りの船首からは、少し離れて。
日の光はあたたかいし、陣取った木の下は気持ちいい風が吹くし。
鼻腔をくすぐる蜜柑の香りとか。
子守唄みたいな波の音とか。
こーいうのが幸せって言うんだろうな、なんてらしくないことを考えてみたりもして。
……ああ、いい気分だなぁ。
「……ガキみてーなツラ」
洗濯したエプロンを干して、何とはなしにルフィの姿を探してみたら。
探し人は蜜柑の木の下でくーすーとあどけない顔で寝入っていた。
おそらく顔の上にでも乗せていたのだろう、トレードマークの麦わら帽子はルフィの顔の横に転がっている。
見張りで一晩中起きていて、朝食も食べてお腹いっぱいになって。睡魔が襲ってくるに任せて瞼を閉じたのだろう。
サンジは眠るルフィを起こさないように注意しながら(まぁルフィは一度寝入ってしまえば滅多なことでは目を覚まさないのだけれども)、その横にすとんと座り込んだ。
あたたかい陽光と、吹き抜ける風が気持ち良い。
こりゃルフィじゃなくても眠気を誘われるな。
内心で呟きながら、サンジはふとルフィの顔を見やった。
一見すると固そうに見える黒髪が、実は柔らかい猫ッ毛だとか。
目を伏せていると顕著に分かるが、実は睫毛が長い方だったりするとか。
よく笑う、よく喋る、よく食べるその唇が、存外小さめだったりとか。
今更ながらルフィを観察して、サンジはどこかくすぐったいような心地を覚えた。
自分の知らなかったことを一つ一つ知って行くのは、嬉しい。それが好きな相手ならば、尚の事。
……あ〜クソ、ハマってんなぁ、オイ。
見ているだけで嬉しい、なんて。
側に居られるだけで幸せな気がする、なんて。
そんなの、たわ言だと思っていた。
サンジにとっては恋愛というのはイコール触れることで、それは即ち快楽を得ること。そうして快楽を得るということは心も身体も満たされること。
……だったのだ、確かに。
この気持ちを知る前までは。
「責任とれよ、お前がおれを狂わせたんだからな」
呟きながら、口許が緩むのを自覚する。
こんな思いは、きっとこの先他の誰にも抱けない。
ただ一度の、魂が揺さぶられるほどの感情。それを、知ってしまったからには。
次は、ない。
それを分かっているから、必死なのだ。
恋愛経験は豊富と言えるだろうに、今度ばかりは前例のないことばかりで。
不様だろうと不恰好だろうと、そんなこと気にしていられない。狂おしいほど、心が求めているから。
ただ分かるのは、この感情はきっと失くせない。
……ただ、それだけ。
「う、ん……?」
「ルフィ?」
「サンジ……」
完全に眠りから覚めていないのだろう声と、表情で。
ごしごしと目元を擦りながら、ルフィは眠そうな目を薄く開いてサンジを見上げた。
「悪い、起こしちまったか?」
「いや、違う……」
眠そうな声音で答えるそばから、ルフィはふああと欠伸をする。サンジはそんなルフィの髪をそっと梳きながら、笑いかけた。
「まだ寝てていいぞ?」
「うん……」
「ルフィ?」
頷きはしたがもそもそと起き上がるルフィに、サンジは怪訝そうな表情になる。
だがルフィはそんなサンジに構うことなく。
緩慢とした動作で這うようにサンジの隣まで来たかと思うと。
「……」
サンジの足を枕代わりにして、ころんと寝転がったのだ。
唐突なことに反応できなかったサンジが黙ったままでいると程なくして、くーすーくーすーと先ほどと同じく規則正しい寝息が聞こえてくる。
……やられた。
がしがしと頭をかきながら、サンジは天を仰いだ。
まさかこう来るとは。
愛しい重みと、心の芯から暖まるようなぬくもりと。
それがただもう幸せで。
自覚はしているつもりだったけれど、あまりにも陥落しまくっている自分につい苦く笑う。
ふと視線を下ろすと、ルフィの手はサンジの上着をぎゅっと握り締めていて。
寝顔同様幼げな仕草に、サンジの表情は柔らかく緩む。
サンジがその手に自分の手を重ねると、夢の世界にいるルフィが嬉しそうに笑みを浮かべた。
「何の夢見てんだか」
口調ばかりは呆れたようで、けれどその表情は相変わらず優しげなままサンジは呟く。
何だか体の力が一気に抜けて、サンジは背後の木に背中を預けた。
一気に濃くなる緑の香りが、ひどく優しく思える。
この心地は、他の誰に対しても抱けない。譲れない。
儚げで、ひどく強くて、優しくて、何よりも凶暴な、こんな唯一無二の思いは。
きっと、ずっと、これから先どれだけの歳月が流れようと他の誰にも抱けはしない。
愛しい、と思うその感情がこれほどまでに複雑怪奇で難解なものだとは、思いもしなかった。
けれど、それを知ることができた自分をとてつもなく幸福だとも同時に思う。
「あったけー…」
言いながら、サンジは小さく欠伸をする。
ルフィに触発されて、睡魔が訪れたようだった。
眠気が訪れるのに任せて目を閉じながら、こんなゆったり過ごせる日もたまにはいいもんだな、とサンジは思っていた。
降り注ぐ暖かな陽射し。
子守唄のような穏やかな波音。
吹き抜ける心地良い風。
揺れる緑のざわめきと、蜜柑の香り。
束の間でも、訪れた時間は確かに……幸せ。
◆Fin◆