風見鶏 −黄昏時−(天国編)









 強い風に晒されて、それでも立ち尽くす。
 そこには、何にも揺り動かされない確固たる意思が見えるような気がして。


「あれがさ」


 指差した先には、風見鶏。
 あまりお目に掛かることのないそれは、天国と犬飼がいつも通る帰り道、そこの民家の屋根に取り付けられていた。
 天国が指し示したのに気付いたように、くるりと回る。
 きしり、と響いた音が返事のように思えて、天国は思わず微笑っていた。


「何か好きなんだよな、俺」


 犬飼がゆっくりと顔を上げ、風見鶏を見やった。
 きしきしと音を立てながら回る、それを。



 天国が犬飼と、所謂交際……お付き合いというものを始めて、丁度1年が経過しようとしていた。
 告白をされたのは、昨年の今頃。
 その時もやはり、今と同じような夕闇の最中で。
 そうしてやはり今と同じように。

 風見鶏が、回っていた。








 ◆



 何となく気付いていた、と。
 そう言ったなら、負け惜しみだと思われるかもしれない。
 けれど、天国は確かにそれとなく気付いていたのだ。
 向けられる、犬飼の視線、その強い目の中に宿る何かに。
 天国の胸の内まで問答無用で揺さぶるような、激情と呼んでも差し支えない感情に。


「俺は、お前が好きだ」


 言葉にされて。
 目の前に、見える形で突き付けられて、ようやく。
 その時になって初めて、天国は気付いた。

 自分の中で燻る感情、犬飼の強い想いに揺さぶられていたものの正体に。
 それが、恋と呼ぶものだということに。
 恋、というのは少し違うかもしれない。
 思い描いていた恋というもの、それは甘やかで幸せなものだった。だから、胸の内で渦巻くそれを恋と言い切ることは出来なかった。
 気付かされたそれは、苦さも熱さも全て孕んで、まるで飲み込むように天国の中を満たしたから。

 感情の波に浚われる、ということを。
 天国は、身を以ってして感じていた。
 どうしようもなく強く、熱く、そして……愛しい。

 避けられるはずもない、それに。
 身を委ね、衝動に駆られるまま。
 口を開こうとして、天国は何より自分自身に驚き瞠目した。

 今、俺は何を言おうとした?

 自問する。
 感情に任せるまま、ただ無防備に頷こうとしていた。
 俺も、そう呟いて笑おうとしていた。

 喜びも途惑いも驚きも、全ての感情を呑み込み抑えるその為に、天国は唇を引き結ぶ。
 真一文字に結ばれた唇、その奥で天国は奥歯を噛み締めていた。
 そうでもしなければ、震えそうだったのだ。


 犬飼が視線を逸らしてくれたのは、正直ありがたかった。
 あのまま、あの金色で見据えられていたら。
 どうなっていたか、分からない。
 何もかもを投げ出してでもこの腕に縋りたい、この瞳に写っていたい、と。
 そんなことを考えても、不思議じゃなかった。

 犬飼は、決して口数が多い方じゃない。
 けれどそれを補って余りあるほどに、その目は力を持っていた。
 琥珀色の瞳が、言葉を語るよりもずっと雄弁に感情を湛えていることを、天国は今更ながらに理解していた。
 そんなこと、知っている筈だったのに。

 俺は、何を知っていたというんだ?
 犬飼の目が、あんな色をすることを、あんな強さでまっすぐに向けられることを、今初めて知ったのに?
 知らない。あんな目、知らなかった。
 知りたいと思ったことも、ないのに。……本当に?

 突然気付かされた感情が強過ぎて、思考を混乱させる。
 天国を襲い、攫った感情はそれほどの力を持っていた。
 どくん、どくん、どくん。
 全力疾走した後のように、心臓が早鐘を打っている。

 何かが満たされていくその端から、何かがとめどなく零れていく。
 そんな奇妙な感覚が指先を震わせた。
 怖い。
 思ったのは、それだった。
 何かは分からないけれど、それでも確かに何かが変わっていく。それが分かる。だから、それが怖い。

 疾走する鼓動が、痛いほどだ。
 それでも天国は、犬飼から視線を逸らせなかった。
 掴まれたままの腕がやけに熱い気がする。
 犬飼も同じように、走る鼓動を感じているんだろうか。



 きしり。



 どうすればいいのか考えて、迷って、分からなくて。
 掴まれている腕を振り切って逃げ出してしまおうか、などと考え始めたところで、一つの音が耳を穿った。
 何の音かは分からないままに、ただ驚いて体が震えた。

 天国の震えに気付いたのだろう。
 どこか足元辺りを見ていた犬飼が意を決したように顔を上げた。
 掴まれた腕、掴んでいる指先に力が込められて、犬飼が緊張しているのだと悟る。
 そういえばよく見れば、犬飼の耳が赤くなっている。
 同様に、頬も。

 珍しいものをみた、と認識する間もなく金色に見据えられた。
 マウンドに向かう時ですら揺れていることなど一度もなかった瞳が、今天国の目の前で強過ぎる感情に翻弄されて揺らいでいた。
 その瞳に自分が写されることへの高揚感。
 そして、もう一つ。

 けれど天国は、輪郭の見えかけたもう一つから目を逸らすように、殊更ゆっくりと瞬きをした。
 ざわりと胸の内を逆撫でするようなそれに目を凝らすのを、本能が避けた。
 そう表現するのが一番近いかもしれない。


「それなら……付き合ってみるか?」


 何でもない風に言い切りたかったのに、声の端が震えてしまう。
 けれど、目は、逸らさない。
 心が攫われて、感情が揺さぶられて、それでも残った矜持が天国に告げていた。
 前を向け、と。

 数瞬遅れて、ようやく天国の言葉の意味を理解したらしい犬飼が、何やら慌てだした。
 その双眸に浮かぶのは、困惑と混乱。
 金色の目を白黒させているのが、何故かやけにおかしく思えた。
 おかしかったから、天国はそれを堪えることもなく声を立てて笑った。

 一度笑い出すと、自分でも何がそんなにおかしいのかよく分からないのに、ただ笑いが零れた。
 どう反応すればいいのか分からずにいるらしい犬飼を見て、天国はまた腹を抱えて笑う。
 笑いながら、天国はまたきしりという音を聞いた。

 さり気なく首を傾け、音源を探す。
 偶然かもしれないけれど、背中を押してくれた音。それが何の音だったのか、無性に確かめたかった。
 ほどなくして見つけた、音の正体。
 そこに、在ったのは。



 風を受けて回る、風見鶏だった。



 ◆







 風見鶏は、今日もいつもと同じように風を受けていた。
 それが設えてあるのは、ごく普通の民家の屋根の上だった。
 少しばかりレトロな造りの、それでもどこか洒落た雰囲気を漂わせる建物だ。
 いつも通っている道なのに、風見鶏があることに気付いたのはあの日の出来事があったからだ。
 あの日、ここで立ち止まらなければ。
 今でも風見鶏があることを知らないままだったかもしれない。


 黄昏時。
 どこもかしこも、沈む夕陽の照らす紅に染まっている。
 見上げた風見鶏も、それを見上げている犬飼の横顔も。
 整った顔は、女のコが騒ぐのも無理はないと思った。
 イケメン嫌いを自負している天国でさえ、どうにも綺麗な顔だなぁと思わせられることが多々あるのだから。
 端整、というのはこういう顔立ちのことを言うのだろうと思う。

 頭上を仰ぐ犬飼は、やっぱり綺麗で。
 天国はその横顔に目を向けながら、小さく笑った。
 微笑ったのは、少しだけ淋しいと感じた自分に対してだ。


 中空を見据える犬飼は、どこか近寄り難いような雰囲気だった。
 名の通り、孤高な犬のような。
 野性の獣が何かを考え込んでいるような、如何とも表現できないような、言い知れぬ空気を纏っていた。
 そこに在るのは、何人をも立ち入ることの許されない聖域のような、何かだ。それが一体何なのか、それは天国には分からない。見えない。
 それで、いい。
 それにすら惹かれたのだと、いっそ綺麗事のように言ってみようか。

 淋しい。
 それでいいと言い聞かせたのに、やっぱり淋しい。
 声をかけることが出来ないのが。その瞳に自分が写っていないのが。
 瞬間的にそんなことを考えてしまった自分に、思わず苦笑した。
 こんなことを考えてしまうなんて、どうかしてる。
 自嘲気味に考え、けれどこの想いに気付いたその時から、もうずっとどうかしているのだとも思う。
 恋という感情が病のようだと言を残したのは、一体どんな偉人だったか。


 犬飼の目を自分に向けたくて、けれど語る言葉はなく。
 とめどない思考に辟易しながら天国がとった手段は、音を奏でることだった。
 唇をすぼませて追う旋律は、以前に一度だけ犬飼が好きだと零したことのある曲だ。

 流行に疎い犬飼が、珍しく気に入ったのだと呟いた曲。
 それを、天国が忘れるはずもない。
 人通りの少ない、黄昏時の帰り道。
 天国が吹いた口笛は、予想していたよりもずっと大きな音で響いた。


「猿、それ……」

「ん? お前、好きって言ってたろ?」


 驚きをその目に滲ませながら、犬飼が天国を見やる。
 いつ見ても、その金色は綺麗だと思った。
 それでも何気なさを装ってみせれば、天国の言葉に犬飼は優しげに目元を緩ませた。
 恐らく本人は無意識なのだろう、思わず泣きそうになるほど柔らかな表情。


「ああ」


 頷いた犬飼に、天国は笑い返した。
 歌の続きを吹き始めると、犬飼は笑みはしなかったもののどこか嬉しそうにしていた。
 天国とは違い、感情の起伏が殆ど見受けられない犬飼のちょっとした変化を感じられるようになったのは偏に経験に依るものだろう。
 一緒に居る時間が長くなり、何となく分かるようになった。
 もしかしたら本能なのかもしれない。

 機嫌の良さそうな犬飼の様子を見るうちに、ふとキスがしたいと思った。
 何故唐突にそんなことを考えてしまったのかは分からないけれど。
 甘えるように、悪戯を仕掛けるように、キスがしたいと。


「お前知ってる?」

「何をだ」


 旋律を絶ち切り、問う。
 何を知っているか、主語を抜かしたのは勿論わざとだ。
 思惑通り問い返してきた犬飼に、天国はへらりと笑う。


「女のコはさ、人前で口笛吹いちゃダメなんだってよ」

「……んだ、そりゃ」

「吹いてる時の唇の形がさ、キスを強請ってるように見えるんだって。だから人前…特に男の前じゃいけないらしいぜ?」


 言葉ではなく、仕草で。

 キスをして、ねえ。
 お願い。

 可愛らしい笑みと、砂糖菓子のような仕草で。
 女のコは、キスを強請る。
 優しくて柔らかい、彼女たちは。
 きっと微笑み一つで、氷をも溶かしてしまうから。


「誰が言い出すんだか、そーゆーの」

「漫画で読んだ」


 迷走し出す思考を余所に、反射的に唇はちゃんと犬飼の言葉に答えを返していた。
 投げられたボールは、投げ返す。
 もし自分が投げた立場で返ってこなかったら、淋しいから。
 自分に向けられた声に答えるのは、天国にしてみれば条件反射のようなものだ。
 だから、口では普通に答えながらも天国の思考は別の所に飛んでいた。

 キスが。
 掠めるように唇が触れ合うだけの、戯れのようなキスが、欲しかった。
 欲しいと、思った。
 だから仕掛けた話題。

 けれど。

 考えたって仕方ないことだとは分かっていながら、それでも思考は沈んでしまう。もしも、と。
 けれど、もし、犬飼の隣りにいるのが自分じゃないのなら。
 自分ではなく、可愛らしい女のコなら。
 こんなまわりくどいことをせずとも、良かったのではないか、と。
 犬飼の隣りにいるのは、自分なのに。
 充分過ぎるほどそれは分かっていて、手放し難いと思っているのに。

 どれだけそう思っても、一度気付いてしまったものから目を逸らすことはできなかった。
 それが、酷いものであればあるほど。
 何故だろうか、人はそこへ目を、意識を向けてしまう。
 目を灼き、意識を苛む毒だと分かっていながらも。


「お前の前でなら口笛吹きたいっつーコは、どんだけいるだろうな」


 そんなコなら、きっとこんなことをせずとも。
 キスして、の一言で済んでしまうだろうに。

 呟いた声は、消え入りそうだった。
 そのことがまた、天国の胸をちくりと痛くさせる。
 無意識に俯いてしまっていたらしく、天国の視界に写るのは犬飼の靴だった。


 キスしたい。


 たったこれだけのことが告げられないのが、ひどく哀しかった。


「猿」


 呼ばれるのに、顔を上げた。
 下を向いたままではいつ涙が堰を切るか分からなかったから、それはありがたかった。
 何だかんだで、犬飼はタイミングがいい。それはなんだか相性のよさをさり気なく示しているようで、少し嬉しかった。
 顔を上げ、見やった犬飼は。何故だろうか少し、嬉しそうに見えた。
 元が表立って感情を表さない分、分かりにくいけれど。


「さっきの続き、吹け」

「はぁ? 何お前、いきなり」


 唐突な要求に思わず目を丸くする。
 まさかこんなことを言ってくるとは微塵も想像していなかったから、今の自分は大層驚いた顔をしているだろうなぁ、と頭の隅でどこか呑気にそんなことを考えた。
 そのお陰で、胸の内を苛む痛みが少しだけ遠のいてくれたのだけれど。


「さっきの、途中だったろ。聞きてーんだよ。好きな奴が好きな歌を、ってのは存外いーもんだな」


 言って、犬飼は僅かに口の端を上げた。滅多に見せることのない、笑顔。
 犬飼を追っかけている女のコたちが目にしようものなら卒倒してしまうんじゃないか、と思うような。

 人の気も知らねーで、お気楽な奴。
 口には出さずに、それでも胸の内でしっかり毒づいた。
 答えを返さない天国をどう思ったのか、犬飼は代わりに今度お前の好きな歌、唄ってやるから、などと言っている。
 見当違いもいい所だ。
 けれど、的外れなそれに毒気を抜かれたのもまた事実。


 目聡さなんて、欠片もない。
 デリカシーも気遣いも、おまけに愛想だってない。
 可愛くて柔らかくて優しい女のコじゃなくて、どうしてコイツを選んだんだろ、俺。どうして、コイツだったんだろう。
 そんなことを考えるのは、何も今が初めてじゃない。

 けれど。
 それは多分きっと、犬飼も同じなのだろうと思う。
 むしろ、人との関わりが得意ではない分天国よりも強く深く悩んだこともあるかもしれない。

 天国は犬飼に気付かれないように苦笑し、それから目を伏せた。
 一呼吸置いてから、再び音を追い始める。
 犬飼が好きだと言った歌は、ゆったりとしたテンポで、少しだけ淋しげな雰囲気を持っていた。
 歌うのではなくただ旋律を追うことで、それが余計に浮き彫りにされるようだった。

 黄昏時の空気も相俟って、理由も分からないのに淋しいような気分になる。
 暮れていく空は、どうしてか人の心に空白を造るのが得意なのだろう。
 淋しくなんて、ないのに。
 瞳を伏せたまま音を紡ぐのに夢中に鳴っていると、肩に手を置かれた。
 なんなんだ一体、と瞼を上げかけたところで、音が途切れる。
 正確には、途切れさせられた。

 重ねられた、唇で。



 何が起こったのか把握するまで、時間を要した。
 掠めるように触れただけの唇は、すぐに離れて行ったのだけれど。
 瞬きも言葉も、いっそ息をすることさえ忘れて。天国はただ呆然と犬飼を見上げていた。

 対する犬飼は硬直されてしまうとは思っていなかったのだろう。天国の反応に、どこか困ったように苦笑を洩らした。
 金色の双眸が音もなく細められる。
 そこに自分が写っているのが、ただ不思議なことに思えた。


「……黙るなよ、猿」

「黙らせるようなことしたんだろが」

「しょーがねえだろ。したくなった」


 したくなった。
 キスを。


 相も変わらず、愛想のない物言い。
 それでも放たれた言葉は天国の胸を充分過ぎる強さで打った。
 有無を言わせない強さで。
 それでも。
 口から零れた言葉、は。


「天下の公道でするかお前。フツーじゃねえな」


 自分も、キスがしたかったのだと。
 思いながらもそれをそのまま告げてしまうのはあまりに恥ずかしかった。
 だから、笑いながら言ったのは想いの真逆。
 照れ隠しどころか隠し過ぎてきっと相手には伝わらないだろう。
 犬飼は気付いてもいない。天国がキスを強請った、そのことに。
 最初に仕掛けたのは天国だった、その事実に。

 素直になれない天国の言葉に、意外にも犬飼の唇は弧を描いた。
 その笑顔がいつもよりカッコ良く見えてしまったのは、悔しいから気のせいだということにしておくけれど。
 それより何より、犬飼がその後にキッパリ告げた言葉は天国の意識を揺さぶった。


「今更だろ。お前を好きになってから、そんなもん捨ててんだ」


 普通、なんて。常識なんて、そんなものとうの昔に捨てていると。
 言い切った声音には、欠片も迷いは見当たらなかった。
 瞬間。
 天国は、鎮まったはずの胸の内がざわつくのを感じていた。
 笑いたいのか泣きたいのか、それすら自分では分からない。
 ただ、感情が溢れた。心が、強く揺さぶられた。
 天国の意思、理性など簡単に引き千切るほどの強さと勢いで。


 あの時と、一緒だ。
 吹きつける風が耳元で音を立てる。それを聞きながら、天国は思い返していた。
 あの時。
 犬飼に告白されて、それに答えた、その一瞬前。
 天国が咄嗟に目を背けた、昏い想い。
 それを感じた時と、一緒だった。

 違うのは、今はそれから目を逸らさずにいること。
 あの時に見えかけたそれから目を逸らすことは、できなかった。
 逸らす前に、もう全貌が見えてしまっていたから。

 天国は犬飼の言葉に答えず、どこか曖昧に笑う。
 そうして、また風見鶏を見上げた。
 あの時目を逸らしたものに、今なら対峙できる。まっすぐに。



「犬、知ってるか?」

「……だから、何をかなのかちゃんと言え」

「こういう夕方をさ、黄昏って言ったりするじゃん。それの、意味っつーか由来っつーか」


 返事はなかった。
 犬飼はきっと何を言いたいんだ、とでも思っているのだろう。
 確認せずともその表情が分かる気がして、天国は何だか可笑しくなった。
 分かる。その表情も、途惑いと苛立ちが入り混じったような感情も。
 だから、天国は敢えて犬飼に目を向けなかった。
 視線は、風見鶏に向けたまま。
 見上げたその先で、風見鶏は回り続けていた。風を受け、くるりくるりと向きを変える。
 天国は犬飼の返事を待たず、言葉を続けた。
 待っていたところで、きっと答えは返ってこなかっただろうけれど。


「暗くなるとさ、視界が利き難くなるだろ。道の向こうから来る人の顔も判別できなくなる。それに"誰そ、彼は"ってさ。それが謂れ」


 薄暗がりの中。
 顔の見えない、けれどそこに誰かが居ることだけは分かる相手に問う。あなたは誰ですか、と。


 あの時、本当は。
 思ったのだ、微かにだけれど確かに。
 お前がそれを言いたいのは、本当に俺なのか、と。
 宵闇に紛れる中で、違う誰かをお前の目は見ているんじゃないか、と。

 それを口に出さなかったのは、犬飼の為じゃない。
 自分の為だ。
 気付くのが嫌だった。口にするのが痛かった。
 だから、見ないフリをしたのだ。

 指摘すれば、犬飼が去ってしまいそうで。
 やっと名前を見つけたばかりの感情の、その行き場がなくなってしまいそうで。
 だから、黙った。知らないフリで目を逸らした。

 どうして。
 誰かに向ける想いは、綺麗なばかりじゃいられないんだろう。
 好きなのに。
 大事なのに。
 そこにエゴが混ざってしまうのは、誰かを想うことそれ自体がエゴだからなのだろうか。


「っ、犬、何……?」


 虚を感じていた心を、不意に引き戻された。
 天国は驚き、目を瞬く。
 犬飼の手が、天国の手を握っていた。

 大きな掌。
 数え切れないほどの投球によって使い込まれた指は、固い。
 それでも、その手は暖かかった。
 体温という意味で言えば、天国の方が高いのだけれど。
 それでも天国にとって、犬飼の手は他の誰よりも暖かいものだった。

 驚いて犬飼を見やれば、照れた顔で横を向いている。
 その頬が紅潮しているのを見て、つられたように天国の頬も熱くなった。


「な、なんだよいきなりっ」

「顔、見えなくても。こーやってれば、誰か間違うなんてありえねーだろ」



 きしり。



 風見鶏の回るその音が、耳を穿った。
 迷いも不安も、喜びも愛しさも、全て受け容れて行けと。
 それでも想うのなら、ただその手を離さずにいればいいと。
 気付かせてくれたのは、悟らせてくれたのは。

 誰あろう、目の前に居る犬飼だった。
 天国の恋人だった。



「……ずっと、手繋いだまま帰んのか?」

「ずっとだ」

「誰かに見られたら? 噂でも立てられたらどーすんだよ。エーススラッガーとエースピッチャーが」


 微笑いながら、少し意地悪く訊いてみる。
 犬飼はどうするだろう。
 反論するか、手を離すのか。それとも。


「いっ、ちょ、力強いって」


 先に声を発したのは問いを投げかけた天国の方だった。
 犬飼の答え。それは、握る手に力を込める、だった。
 ぎゅう、と。少し痛いほどの力で。
 握った指先は何よりも雄弁に語っているようだった。
 離さないから、と。

 瞬間、思わず泣きそうになった。
 どんな言葉よりも一番欲しかった答えを貰った、そんな気になって。
 感情の昂ぶりにそのまま涙腺が揺さぶられる。
 それを抑える為に、天国は犬飼の手を握り返した。
 多分、少し痛いぐらいの力で。


「噂なんか、立ち向かってやりゃいー。あれみたいに」


 あれ、と犬飼が見上げる先には風見鶏。
 その言葉に返事をするように、見上げた二人の視線の先で、くるりと回った。響く、少し軋んだような音。
 楽観的な、それでも犬飼らしい言葉だった。

 迷ってもいい。不安に苛まれてもいい。
 繋ぐ指は、きっといつでも暖かい。



「よっしゃ! んじゃ、帰るか!」


 笑って言って、天国は繋いだ手を引いた。
 この掌を信じよう、そう思う。
 世間的に歓迎されない恋愛なのは、百も承知だ。始まったその時から。
 行く先に立ちはだかる高い壁が、きっとあることも。
 それを目の前にした時にどうなるのかは、分からない。
 その壁は、今二人の目の前に在るものでは無いから。

 ただ、触れる掌は嘘をつかないこと。
 それが分かっていたから、天国にはもうそれだけで良かった。充分過ぎるほどだと思えた。


 永遠なんて分からないけど。
 俺は、お前を信じるよ。




 手を繋いだまま歩み去る二人の背後で、風見鶏は立ち尽くしていた。





END



 

 

 

 

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うっかり長い話にぃぃっ。
PCモニタぶっ壊れネット強制落ち期間中に、
せこせこA5ルーズリーフに下書きしてた犬猿でした。
オンリー後に犬猿フィーバーしまして勢いに乗り(笑)

後から書く話の方が長くなるのはいつものことなのですが。
天国さん編、ワンコ編の倍でございます。
吃驚です。
愛の差かしら(洒落になりません)


元ネタはJ(S)Wの「風見鶏」という歌からです。
ジュンスカは青春な名曲多し♪
……しかしどんどんどんどん違う方向へ行ってしまわれました。
もうちょっと明るい話を想定していたんですが…
フルで告白する話は初だったりします(回想ですが)
出来上がってるのとか未満とか別れた後とかばっかだった今まで…

作中天国さんが言ってる「女のコは人前で〜」という漫画は実際あります。
ちょっと好きなフレーズなのでいつかネタに使ってみたいな、と。
ネタの豊富な天国さんなので少女漫画くらいは読むでしょう。

どうでもいいですがこの後書き夜中に書いてるんで、
正気取り戻した昼間に見たら消したくなりそうな気がします(笑)



UPDATE/2004.12.5(sun)





 

 

 

 

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