風見鶏 −夕暮れ時−(犬飼編) 「あれがさ」 ぽつりと呟いた天国が、すっと中空に向かって腕を伸ばした。 夕暮れの中で、たったそれだけの仕草がひどく眩しく感じられて。犬飼は僅かに目を細めた。 伸ばされた腕、その指先がまっすぐに伸びている。 迷い道の中、道標となるものをその指の先に見つけたかのように。 「何か好きなんだよな、俺」 目を細めて、微笑しながら天国は言葉を続ける。 犬飼は天国が指し示す先を、ゆるゆると目で辿った。 そこに、在ったのは。 風を受けてきしきしと音を立て回る、風見鶏だった。 ◆ 犬飼が天国に、世間一般で言うところの告白、というものをしたのは昨年の丁度今頃の事だった。 その時もやはり、今のような夕暮れ時で。 辺りの景色も、横を歩く天国も、そしておそらく犬飼自身も。優しい、そしてどこか淋しげな茜色に染め上げられていた。 二人きりで帰路につく事になった経緯は、よく覚えていない。 覚えていないということは、そう大した理由ではなかったのだろう。 ありふれた日常、その中に埋もれて忘れてしまえるような珍しくも目新しくもない理由が重なり合い。 いつも通りが折り重なって作られたのは、二人きりというそれまでになかった、忘れる事の出来ない時間だった。 告白のきっかけも、本当に些細な事だった。 むしろ冷静になって考えれば、何故それがきっかけになってしまったのだろうかと首を傾げるような出来事だった。 それまで、喚くように喋り続けていた天国が、何故だかふっと黙り込んだのだ。 喋り疲れたのか、話す事がなくなったのか、それともただ単に一息つきたかっただけだったのか。 理由は今でも分からないが、ともかく天国が口を噤んだ。 そうして、溜め息を吐くように肩を上下させ息を吐いた。それから、くしゃりと無造作に前髪をかき上げた。 その仕草の一つ一つを、犬飼はただ見ていた。 元々口数の多くない犬飼が黙り込んでいても、天国は不審に思わなかったのだろう。 そしてまさか自分が凝視されているとは、微塵も思っていないのだろう。 唐突に訪れた沈黙のエアポケットの中、けれど天国はそれを途惑う風でも嫌う風でもなくただ自然に立っていた。 犬飼が天国のことを好きなのだと自覚したのは、夏の終わり頃だった。 3年生…牛尾や蛇神が部活を去った、そのすぐ後くらいに。 自覚したきっかけが何だったのか、今でもよく分からない。 まるで降って湧いた天啓の如く、俺はアイツが好きなのか、と。本当に突然に、それを自覚したのだ。 自覚したその途端に、それまでの自分の一見不可解にも思える行動にさえ全て説明がついた。 好き、という一つの感情で。それを自覚した、たったそれだけのことで。 思わずちょっかいを出してしまうのも、ふとした拍子でその姿を目で追っているのも、全て。 好きだから。 その一言で全てが片付いてしまうなんて、いっそ滑稽だと思わず苦笑したことを何故かハッキリ覚えていた。 気持ちを自覚して迎えた、秋。 少しずつ空気が冷たくなる日々を過ごしながら、このままゆっくりと時は巡って行くのだろうと思っていたその矢先に。 何故、不意に二人になったのか。 沈黙が訪れたのか。 衝動的に口を割って出た言葉に、意図も狙いも、何もなかった。 あるはずもない。自覚したばかりの想いを抱え込むだけで精一杯だったのだから。 だから、その時は。 ただ、想いがこぼれた。 溢れるそれに気付かなかった。 だから押さえる事もできなかった。 そんな風だったのだろうと、今となってはそう思う。 犬飼自身、衝動に駆られたあの時の出来事は思い返すと赤面してしまうのだ。 「犬?」 天国が不思議そうな顔で、ことりと首を傾げた。 犬飼の視界、そのすぐ目の前で。 目の前。 驚いた犬飼は、そこでようやく自分の左腕が天国の右腕を掴んでいることに気付く。 我に返ったその瞬間に驚いて声の一つもあげなかったのは、普段から使用頻度の低い声帯が反応してくれなかっただけのことだ。 そうでなければ、きっと驚きの声が洩れ出ていたに違いない。 「……猿」 意識せずに、声が出た。 自分が言葉を発したのだと気付くまでに、時間を要した。 天国が何事なのかと、目を瞬く。 向けられる視線に、その目の中に自分がいるのが、どうしようもなく嬉しかった。 「俺は、お前が好きだ」 告げた言葉は、何の飾り気もなかった。 唐突な言葉に、天国が瞠目する。 強い光を湛える目に驚きの色が広がるのを、ハッキリと感じた。 掴んでいる腕が震えたのが、掌に伝わってくる。 何を言おうとしたのか、天国の唇が微かに動いた。 けれど、結局言葉は発せられないまま、口を噤んでしまう。 その、きゅ、と引き結ばれた真一文字の唇に。 触れたい。 瞬間的にそう思ってしまった自分に気付く。 驚き、何より天国に申し訳ない気がして思わず視線を下に逃がした。 どく、どく、どく、と。 鼓動がいつもより早まっているのに気付く。 告白、だなんて。 生まれて初めてのことだった。 まして、言うつもりなどなかったのだ。 覚悟も何もしていなかった突然の出来事は、最早事故に遭ったのと同じようなもので。 どうすればいいのか、分からなかった。 困り果てた犬飼が固まっていると、天国が僅かに身じろいだ。 足先辺りにさ迷わせていた視線を、緊張しつつも上げる。 途端、まっすぐな目にぶつかった。 天国は、目を逸らすことなく犬飼を見据えていた。 そのまっすぐさは、向けられる者がたじろぐほどで。 それが、好きだと。 ぶしつけなほどの強さ、抗い難い引力にどうしようもなく惹かれたのだと。 そんなことを考えながら、犬飼は天国の視線を受け止め、見つめ返した。 その瞳を縁どる睫毛が意外と長いことを知ったのは、いつのことだったか。 長い睫毛がゆっくりと上下し、天国が瞬きをしたのだと知る。 身長差のせいで、天国は犬飼を見上げざるをえない。 自然と上目遣いになるのだが、それを今ほど意識したことはなかった。 意識した途端、自分でも可笑しいと思うぐらいに鼓動が早くなる。 何かを考えるような目で犬飼を見ていた天国が、口を開いた。 ◆ 鼓膜を揺らした音に、犬飼はふと我に返った。 隣りにいる天国から、音は発せられている。 見やれば、天国が口笛を吹いていた。 唇を少し尖らせて、淋しいようにも聞こえる音で旋律が紡がれる。 天国が追う音は、以前犬飼が好きだと言ったことがある曲だった。 「猿、それ……」 「ん? お前、好きって言ってたろ?」 「ああ」 犬飼の言葉を天国は覚えていてくれたらしい。 頷いた犬飼を見て天国は目を細めると、もう一度唇をすぼませて続きを吹き始める。 ゆっくりめの曲調も相俟ってか、風に浚われそうな音だった。 それでも、優しい旋律だった。 「お前知ってる?」 「何をだ」 音が途切れたと思ったら、唐突に問われる。 天国の切り替えが早いのはいつものことだが、未だについていけないことも多々あった。 今もまさしくそれで、おまけに主語の抜けている問いに思わず眉間に皺が寄る。 けれど犬飼のそんな表情など見慣れている天国は、動じる様子など微塵も見せずに。 それどころか、へらりと笑ってみせることまでした。 「女のコはさ、人前で口笛吹いちゃダメなんだってよ」 「……んだ、そりゃ」 「吹いてる時の唇の形がさ、キスを強請ってるように見えるんだって。だから人前…特に男の前じゃいけないらしいぜ?」 「誰が言い出すんだか、そーゆーの」 「漫画で読んだ」 けろりとした様子で言い放つ天国に、ああコイツはこういう奴だった、と今更ながらに思う。 思わず苦笑した犬飼を余所に、天国は何故か地面に視線を落とした。俯くように。 どうかしたのかと犬飼が様子を伺おうとした、その時。 天国がぽつりと、呟いた。 聞こえなかったのならそれでいい、とでも言い出しそうな小さな小さな声で。 「お前の前でなら口笛吹きたいっつーコは、どんだけいるだろうな」 先ほどの口笛とはまた違う意味で、風に浚われそうな声。 そこに滲むのは自嘲と、僅かながらも確かな妬心だ。 表沙汰には出来ない、この関係。 向き合う想いは確かなものなのに、周囲に隠し通さなければならない恋心。 それが悔しいのは、辛いのは自分だけではないのだと。 天国もまた自分と同様に歯痒い想いを抱えているのだと、それを知った。 背負わせてしまった事を申し訳ないと思うのと同時に。 嬉しいと思ってしまう不埒な心を、どうしても抑えられない。 色恋に関しては鈍いというか疎いというか、とかく表に出さない天国が珍しく見せた、感情の片鱗は。 どうしようもないほど、犬飼を嬉しくさせた。 抱き締めたいとそう思うのを、必死で抑え込まなければならないほどに。 「猿、さっきの続き、吹け」 「はぁ? 何お前、いきなり」 「さっきの、途中だったろ。聞きてーんだよ。好きな奴が好きな歌を、ってのは存外いーもんだな」 代わりに今度お前の好きな歌、唄ってやるから。 そんなことを言いながら、促す。 実際のところ、流行というものに疎い犬飼が天国が気に入る歌を唄えるとも思えないのだけれど。 天国は犬飼の言葉に腑に落ちないような、途惑うような顔を見せてはいたものの。 やがて観念したかのように目を伏せ、息を吐いた。 溜め息のようなそれは、けれど渋々ながらも天国が了承した合図だった。 先程と同様に唇を尖らせ、天国が音を紡ぎ始める。 見ていれば、なるほど口笛を吹く時の唇の形はキスを強請っているように見えないこともない。 犬飼は、奏でられる音を聞きながら少し笑った。 相変わらず、犬飼が好きだと告げたその歌はどこか淋しいような響きを持っていた。 風に流され、散って行く音。 それでも。 愛しい音。 愛しい人。 包む夕闇、茜空。 唇の端に笑みを刻んだままで、犬飼はそっと身を屈める。 その実かなり聡い天国に見破られるかもと思ったのだけれど、旋律を追うのに夢中になっていて気付かなかったらしい。 好都合、とは胸の内だけで呟いて。 犬飼は天国の肩に手を置くと、そっと唇を重ねた。 秋空に流れる旋律が、途切れた。 END |
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