現実は時として。




 ひどく残酷無比に、その顔を晒すことがある。











    
声の彼方、慟哭の涯











 気付いた時、御柳は十二支にいた。





 朝練の為に訪れた部室、そこで朱牡丹に呼ばれた。
 久芒に天国のクラスはどこかと問われた。
 朱牡丹のPCを覗いた。
 屑桐に、名前を呼ばれた。
 それに顔を上げて答えた、いつものように。


 覚えている記憶は、そこまでだ。
 その後のことは、ふっつり途切れている。
 先輩たちの言葉に何をどう返したのかも、自分がどうしたのかも。
 なんとなく覚えているような気もするが、全てが遥か彼方での出来事のようだ。
 霞みがかっているようで、遠い。
 思い出せない。
 気付いたら、ここにいた。


 十二支、ここへ来るのは始めてじゃない。
 天国に渋い顔をされながら、それでも幾度か訪れた事がある。
 グラウンドには、誰もいなかった。
 この時間は体育がないのか、それとも体育館を使用してでもいるのだろうか。
 がらんとしたグラウンドは、ひどく広く見える。
 そしてその広さが、御柳の心の内に渦巻いている虚しさを煽った。


「……で、何で俺はここにいんだよ」


 苦々しげに呟いて、御柳は額を押さえた。
 記憶がなくなる、なんて。
 自分で自分のしたことを覚えていない、なんて。
 今まで、一度も経験した事がなかった。
 苦笑しながら、何とはなしに敷地内へ足を踏み入れる。
 幸いにも、誰に見咎められることもなかった。




 歩くに任せて辿り着いたのは、部室前だ。
 華武のそれより、いくばくか古めかしいそれ。


 この、ドアの前で。
 天国が出てくるのを、何度待っただろう。


 ぼんやりと思い返しながら、開く気配のないドアを見つめる。
 御柳にも部活があったから、多分その回数は数えるほどだ。
 片手では足りないだろうけど、おそらくは両の指で収まってしまう。
 そしてその回数は、これから先増える事はない。


「……天国」


 思わず零れた、声。
 意識してではなく、ただ自然に。
 無意識のうちに、唇が象っていた、その名を。
 けれど、呼んだ名前の、声の端が掠れる。
 それが訳もなく悔しくて、苦しくて。
 御柳はぎり、と唇を噛んだ。





 その時。
 背後でじゃり、と音がした。
 土を踏むその音に、御柳は振り向く。


「お前、なんで……」


「……よぉ」


 御柳が立っていることに驚いたのだろう、軽く瞠目している相手に、ごく軽く片手を上げて挨拶をする。
 普段と変わらない、そんな表情を張り付けて。
 そんな御柳を見て、相手は返す言葉に迷ったように黙りこくった。
 その様子が何故かやけに可笑しくて、思わずくっと笑う。


「なんつー間抜け面してんだよ、犬飼よぉ。ってかお前、重役出勤たー、随分偉くなったもんだな?」


 小馬鹿にするような口調で言ってやれば、犬飼の眉間に皺が刻まれる。
 けれどそこに浮かんだのは、怒りではなく。
 困惑、そう呼ぶのが一番相応しいような表情だった。


「まぁどうでもいーや。それよりお前さ、天国知んねー?」


 笑いながら。
 少なくとも、笑っているに見えるだろう表情を浮かべながら。
 告げるのは、口にしている己を嘲笑いたくなるような文句。


 消えない。
 身を灼くような、心の内を渦巻く衝動が。
 それが、一体何なのかは御柳には分からない。
 ただ、正体不明のそれに対してひどく意識が向けられる。
 呼ばれるように。



 うるさい。


 俺が、聞きたいのは。




「御柳、お前」


「連絡取れなくてさ。この俺にわざわざ足を運ばせるなんて、アイツぐらいだっつの。なあ?」


 知らない、のか。


 微かに動いた犬飼の唇が、そんな言葉を形どった。
 いちいち分かってしまう自分が嫌で、目を背ける。


「なあ、知ってんの。知んねーの。どっち?」


「猿、野は……」


 畳みかけるように問いを繰り返す。
 犬飼が逡巡しているのが伝わってくる。
 どう言えばいいのか。
 何を言えばいいのか。
 迷って、躊躇って、それ以上の言葉を紡げずにいるのが。


 御柳は、しばらくそんな空気を味わっていた。
 けれど不意に、どうでもよくなる。
 いや、最初からどうでもよかったのだ。
 言葉は、戯れにしか過ぎない。
 何がどうあれ、事実は変わらないのだから。


 息を吐いて、御柳は犬飼の顔に目を向ける。
 その、端整な顔には苦渋と困惑が入り混じっていた。
 言葉を探しているのだろう、その目はどこか遠くを見ているようだった。
 そこに、御柳は言葉を投げてやる。
 無造作に。
 世間話のついで、といった風に。


「……知ってんよ」


「何……」


「アイツは、天国は帰ってこねーの。それぐらい、知ってる」


 俺、お前と違って情報早いし。
 御柳の言葉に、犬飼が空を彷徨わせていた目を向けてくる。
 それに唇を歪めて、けれど御柳は視線を落とした。
 それ以上、見ていられなかった。


 口数の少ない犬飼の目は、それだけ雄弁に物事を語るから。
 まっすぐなそれに、今は耐えられない。
 そう思った。
 見つめ続けていると、余計なことまで暴かれそうで。
 落とした視線の先、つま先の傍に転がっていた石を転がす。




「アイツがそーゆーのに乗れねーの、俺がよく知ってっし」


 だから、天国は帰ってこない。
 呟くように言った言葉は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
 実際、音にすることで、覚悟は決めていた。


 現実は、どうあっても変わらない。そんなの、分かってる。


 だから、言った。
 敢えて、言葉にした。
 残酷無比な現実を、叩きつけるように。
 覚悟を決めて言った、そのはずの言葉だったのに。


 それでもその言葉は、御柳の心を傷つけるのに充分過ぎるくらいの鋭さを持っていて。
 痛い、と。
 切り裂かれる痛みに、それでもどこか他人事のようにただ痛い、とだけ思った。





 天国は、帰ってこない。
 それは、分かり過ぎるほど分かっていた。


 あのイカレたプログラムの只中で、天国が何を思い何を考えるのか、それは分からない。
 御柳は、確かに天国の近くにいたのだけれど、天国自身ではないから。
 だけれど、それが。
 天国の思ったことが、分からないことが。


 ひどく、もどかしい、ことに。


 思えてならなかった。




 犬飼は言葉を忘れてしまったかのように立ち尽くしている。
 御柳にとっても、また。
 そこに立っているのが犬飼であってもなくても。
 そこに、誰かがいてもいなくても。
 どちらにしろ、同じことに思えた。


 帰ってこない。
 それは、分かった。


 だけど、それなら。


 帰ってこない、と言うのなら。




「天国は、どこにいるんだよ……?」


「御柳? お前、何言って」


「帰ってこないのは分かった。悔しいけど、認めてやる。けど、それじゃあ」


 捲し立てるように言う御柳に、犬飼が思わず、と言った風に僅かに後退する。
 犬飼の言葉を遮り、まるでその言葉すら聞こえていないかのように喋り続ける御柳のその声は。
 どこか乾いた、ひび割れた。……壊れた、音だった。


 その音は、御柳にもちゃんと聞こえていた。
 鼓膜を揺らす己の声に、御柳は苦笑する。
 こんな声、天国が聞いたら。
 きっと、ひどく驚くのだろうと思う。
 驚いて、それでも心配そうに顔を覗き込んで。
 ぬくもりを分け与えるように、そっと抱き寄せたりするのだろう。
 凝りもせず天国の事を思う自分に、失笑した。



 自分の感情を自分で制御できなくなる、なんて不様なことに。自分だけはなったりなぞしないと、なんの根拠もなく思っていた。
 それなのに、今はどうだ。
 自分の感情を持て余して、振り回され、挙句記憶さえ飛んで。
 もう笑うしかない。
 なのに笑えない。
 笑えているかどうか、分からない。


 知っている、分かっているはずだった。
 天国へ向ける、想いの深さと強さは。
 けれど、改めて思い知らされたのは、自分が考えていたよりもっとずっと強大な、いっそ暴力的なまでに天国へ向かう想いで。


 なのに。


 向かう先に、相手がいない。


 帰ってこないのは分かった。


 理解した。



 けれど、理解するのと納得するのは違う。
 頭では分かっても、感情が、心がそれを赦さない。
 狂おしいほどに求めるのに、焦がれるのに。
 たった一つの言葉で、割り切れる訳がない。




「天国は、どこにいくんだよ……」




 言った瞬間。
 御柳の、それまで笑うか無表情かのどちらかしか浮かべていなかった顔が、くしゃりと歪んだ。
 苦いものを飲んだ時のように。
 実際、その言葉はひどく苦かった。
 喉に引っ掛かったままの感情は、自分でもどうにもできないから厄介だ。
 飲み下しきれない。


 まるで泣き出す寸前のような御柳のその表情に驚いたのは、目の前でそれを見た犬飼だった。
 御柳は、滅多な事では己の感情を露にしない。
 それが怒りだとか苦しみだとか、マイナスなものであるなら尚更だ。
 その、御柳が。
 ポーカーフェイスを保ち切れないほどの、感情の波に晒されている。


 強過ぎると言っても過言ではない、その感情の向かう先は。
 御柳に、これほどまでの想いを抱かせたのは、天国に他ならない。


 かける言葉が、見当たらなかった。
 それは、犬飼が普段から無口だからという、それだけではなく。
 目の当たりにした、狂気にも似た強い想いに口を閉ざす事しか出来なかったからだ。
 今の御柳に相対していたのが犬飼ではなく他の誰かだったとしても、きっと同じように沈黙する事しか出来なかったに違いない。


 それほどまでに、御柳の見せた感情、おそらく垣間見たのはその断片にしか過ぎないのであろう想いは、激しいものだった。
 想いを向けられる、天国も。
 もう確かめる術はないけれど、きっと御柳と同じような強さで、そしてその強さに負けないほどの暖かさで、御柳を想っていたのだろう。
 一歩間違えれば、狂気にもなり得る感情。
 それでも、誰かが誰かに何かしらの感情を抱くというのはそういうことなのだろうと思う。


 御柳が、一見すると壊れてしまいそうなのも。
 犬飼にはそれを否定できなかった。
 それだけの想いを、否定することはできなかった。


 御柳が天国に向ける想いと。
 天国が御柳に向ける想い。
 唐突に、不本意な形で奪われた二つ。
 今更ながらに、天国がいないのだということを思い知らされたようだった。


 プログラムに巻き込まれた者たちは、その死体はおろか、遺留品すら返してもらえないのだと言う。
 届けられるのは、無機質な通知のみ。
 プログラムに参加した人間は、文字通り「消えて」しまうのだ。
 遺された家族の中には、その死を受け止めきれない者も少なくないと聞いた。
 残酷な物言いだが、いっそ死体があれば。
 動かしようのない事実を、着きつけられれば、そんなことはないだろうに。



 帰ってこいよ、バカ猿。


 お前、どうするんだよ。
 コイツを残して、こんだけの想いを残して、どこにいこうってんだ?
 答えろよ……なあ、俺にじゃなくていい。
 コイツに、答えてやれよ。






 御柳は、置いて行かれた子供のようだった。
 実際、心境としては似たようなものだった。


 置いて、いかれた。


 どこいくんだよ、天国。


 いくなよ。


 頼むから。



 いくな。




 いくな。




 行くな。逝くな。往くな。





 声の限りに叫んだなら、この喉が潰れるほど呼んだなら、届くのだろうか。
 ふと、そんなことを思う。
 それぐらいでいいなら、喜んでそうするのに。


 泣きたい心地なのは、自分でも分かっている。
 それなのに、何故だか涙は零れなかった。
 こんなにも、胸は痛むのに。


 そう思って、ふと。
 ここ何年か、もう随分長いこと泣いていないことを思い出した。
 泣き方を忘れてしまったのだろうか。
 痛む心は、確かに在るというのに。
 それでも涙が滲む様子すらない。


 なんだか拍子抜けして、何となく空を見上げた。
 どこまでも続いているように見える、高く青く、深い蒼に染め上げられた空。
 その澄んだ色を見ながら、皮肉だな、と思わずにいられない。
 哀しみと虚しさで満ちた世界を包むその色が、何故こんなにも優しく美しい色なのだろうか、と。



 消えない、耳鳴り。


 それに混じって、声がする。


 耳鳴りが邪魔で、よく聞き取れない。


 懐かしい声。



 耳朶を甘く噛むような、それは。








「御柳?!」



 唐突に踵を返して走り出した御柳に、犬飼が驚きの声をあげた。
 けれどそれに構わず、答えを返すことも振り返ることもせず、御柳は地を蹴った。
 もっと早く、走れればいいのに。
 そんなことを考えながら。









 声が、届かないのなら。








 ……届く場所まで、行けばいいだけだ。









 

 

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      UPDATE/2004.2.5



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