ぬくもりだけ抱えて 後編 腕と、あと肩とに。 かくん、と衝撃が走ったのは。 あと数秒で海に辿り着けるんじゃないかと、そう思った矢先だった。 腕を掴まれたらしい、ということに気付いたのは。 体が傾き出してから、だった。 海と、空とが、傾いて。 視界から、消える。 ぐるり、と。 世界が反転した。 「…………み、だ」 掠れた声で、言ったのは。 無意識でだった。 世界が反転するその瞬間、海に向かって手を伸ばしたのも。 無意識、だった。 二人して転がったのは、砂浜の上だった。 砂埃を巻き上げながら転がって、けれど何が起きたのか把握しきれずにしばらく転がったままでいる。 天国は仰向け、犬飼はうつ伏せで。 かろうじて手を付いた犬飼の方が、正気を取り戻すのは早かった。 正気を取り戻してからようやく、自分が天国の腕を掴んだままでいる事に気付く。 砂の上に投げ出されたその腕は、幾度か目にしてきた奇跡を起こしたのが嘘のようだった。 一概に細い、とは言えない。あれだけの力があるのに相応しく、骨はしっかりしている。 けれど、それだけだ。 この腕に、奇跡が眠っている。 そう言われただけではきっと、信じることはできない。 そんな、腕だった。 そこまで考えて、犬飼は天国の腕を離した。 体を起こして、服やら手やらの砂を払う。 派手に転んだな、と思いながらすぐ隣りで転がっている天国を見やった。 天国は寝転んだまま、けれど妙な体勢だった。 首を逸らしているのだ。 喉が陽光に照らされて、どこか痛々しいような。 けれど天国はそんなことには構わず、頭上を見ていた。 そこには、海。 「オイ猿、先ず起きろ」 「……っつかお前の所為で転んだんだと思うんだけどさ」 「……悪かった」 「うわ、謝った。珍し過ぎて雨が心配だな、こりゃ」 「いいから起きろ」 言いながら、犬飼は天国の腕を掴んでその上体を引き起こす。 天国もそれに逆らおうとはせずに、大人しく起き上がった。 座り込む体勢になった天国は、ゆっくり首を巡らせて背後を見やる。 その視線は、遠く水平線を捉えた。 海と空との、境界線。 けれどそこは酷く曖昧だ。 混ざり合って、そのまま溶けていってもおかしくないような。 海を見据える天国の目。 そこにはどこか、狂気にも似た色が宿っている。 しかしそれを見ても、犬飼は動じることはなかった。 天国のその目が、己の目に似ていると。 そう気付いた時には、さすがに少し表情を歪めたけれど。 「猿、何する気だお前」 「見て分かんねえ?」 暫く黙ったまま海を眺めていた天国が唐突に行動しだしたかと思えば、靴を脱ぎ捨てた。 靴下も放り出し、ズボンの裾を上げている。 そこから導き出される答えは大概予想がついてはいたものの、問いかけずにいられなかった。 天国は犬飼の問いに、つまんないこと聞くなよ、とでも言いたげな表情で返す。 「お前……」 「だーいじょうぶだって。流石に泳いだりはしねーし」 「そういう問題じゃねぇだろ、とりあえず……」 なんだか頭痛がしてきた気がして、こめかみを押さえながら犬飼は唸るように言葉を紡ぐ。 それを見た天国はあはは、と楽しげに笑い声を上げた。 何がおかしいのか分からずに天国を見ていると、天国は笑いながら手をぱたぱた振った。 「悪い悪い、たださー、お前って苦悩してんのも絵になるなー、と思ってさ〜」 「褒めてんのか貶してんのかどっちだよ」 「ご想像にお任せしまぁす★」 てへ、と明美ポーズのつもりらしく、舌を出しながら天国はそう言って。 天国のその様子に、何を言っても無駄だと悟った犬飼は溜め息を吐いた。 湿り気の混じった風が髪を揺らし、犬飼は前髪をかき上げた。 最近切ってなかったな。 そろそろ切らねぇと。 そういやアイツ。 さっき、今日初めて笑いやがった。 思い当たって、ただそれだけのことなのに何故かひどく安堵感を覚える。 珍しくもない、天国の笑顔。 けれどそれが、今は何にも変えがたく大切なことであるかのように思えた。 普段は見せない狂気にも似た色を目の当たりにした、そのせいかもしれない。 そうこうしているうちに、天国は準備完了、とばかりに立ち上がった。 相変わらず、海を見据える目はまっすぐと遠くを見るようで。 けれど先程よりも少し柔らかくなったような。 「いい天気で良かったな、今日」 呟くように言った天国は、ふっと目を細めて笑う。 そのまま海に向かって歩き出したのに、犬飼は何とも言えない焦燥感に駆られた。 裸足の足が、砂を踏みしめ音を立てる。 「ッ、猿!」 「ぅわ、何だよ?」 衝動のまま天国の腕を掴むと。 天国は驚いた顔で犬飼を見つめる。 犬飼が座ったままなので、いつもとは逆に天国が見下ろす体勢になった。 掴んだのはいいが、ほぼ無意識下での行動だったため犬飼自身も固まっていて。 暫くそのまま見詰め合う。 「……犬?」 「なんでも、ねえ」 気まずげな顔をして目を逸らし、犬飼は天国の手を離す。 一瞬だが見せた、眉を寄せて心底困り切ったような顔が。 迷子の子供みたいで、天国は犬飼に悟られないように微苦笑した。 言いたいことがあるのに、それを言い表わす言葉が見つからなくて途方に暮れているみたいな。 言えずに、仕方なく諦めてしまったみたいな。 そんな顔、すんなよな。 放っておけなく、なるじゃんか。 連れていきたくなる。 中途半端に触れてくんなよ。 離したくなくなる。 なぁ、お前……分かってねえだろ。 そういう仕草が、人の心にどういう気持ちをもたらすか。 なんか、ずるい。 「ちょ、何してやがるっ」 「お前も巻き添え」 不意に天国がしゃがみ込んだ、と思ったら。 がし、と足を掴まれ無理矢理靴を脱がされた。 次いで、靴下も。 「ふざけんな」 「ふざけてねーよ」 返された言葉は存外に強い口調で、思わず抵抗も忘れる。 前髪の間から寄越された、強い視線に絡め取られた。そんな、感じで。 その間に天国は犬飼の靴も靴下も取り払ってしまった。 視界の端、己のそれらがぽい、と放られる。 「考えてみればさぁ」 「…………」 「俺、お前をここまで連れてきたんだし? 最後まで巻き込むのが礼儀じゃん?」 「……とりあえず、そんな礼儀は知らん」 「俺様ルール」 「やっぱ、猿だな」 言ってやると、天国は軽く肩を竦める。 その手が自分のズボンの裾を上げて行くのを、犬飼は何も言わずに見ていたが。 「仕方ねーから、付き合ってやる」 溜め息混じりに告げて、もう片方の裾を自分で上げた。 自分のそれよりも武骨な作りの指が動くのを、天国は一瞬呆然と眺めて。 けれどすぐに、ふっと笑った。 自身では意識していなかったけれど、幼子が宝物を見つけた時のような無垢な色の、どこか無防備な笑顔。 普段の、例えば学校やら部活やらでは、決して犬飼に向けられる事などなかったであろうその表情に。 犬飼は僅かに瞠目し、けれど悪い気はしなかった。 先に立ち上がった天国が、手を差し伸べてくる。 犬飼は、その手を素直に握った。 自分のそれより小さな手のひらは、想像していた通り暖かかった。 立ち上がって、けれどその手を離しがたく。 ぎゅ、と力をこめれば、握り返された。 知らない街、 海の傍、 聞こえるのは波音だけ。 迷子になったような、置いて行かれたような状況下で、手のひらに触れたぬくもりだけがそこに在る。 握られた手を握り返したのは、なんだかどうしようもなかったからだ。 きっと、犬飼が握ってこなくとも、離せはしなかった。 そうしなければ、訳もなく泣いてしまいそうな。 情けないけれど、そんな気がした。 波音は、耳に優しい。 だからか、なんだか泣きたくなる。 全て赦されていくような、そんな音だ。 何を赦されたいのか、それすらも分からないけれど。 「わんこ、行こうぜ」 水に、触れたい。 波打ち際に立って、足の下の砂が流れて行く感覚を味わおう。 なんだかもう、それだけでいいから。 触れた手のひらが、あたたかい。 今はもう、それだけでいい。 ◆END◆ ←BACK |
100題・課題34「手を繋ぐ」をお送り致しました。 課題78「鬼ごっこ」の続きになっております。 うっかり長いです。 前回が犬視点だったのに対し、今回は比較的猿視点で。 ちょっ…とは関係進展したかな〜、な感じなので、 前回「犬+猿」だったのを「犬猿」にしてみました。 あんま変わらんっちうツッコミお待ちしております。 完結編を書いて、この煮え切らないシリーズ(笑)は終わります。 ええ、はい。 すいませんまだ続きます…… 次回で完結! UPDATE/2003.6.3 |
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