……逃げたかった。


 どこから、何から逃げたいのか。
 それもよく分からずに。


 ただ、現状から逃れたかった。


 つないだ手のぬくもりさえあれば、
 どこへでも行けると。


 理由も根拠もなく、
 そんなことを考えていた。










   
  ぬくもりだけ抱えて  前編










 どうしようもなかった。
 どうにもできなかった。


 叫びたかった。
 何を叫べばいいか、分からなかった。


 掴めたと思ったものが、
 指の先を掠めて、
 触れる事も叶わずに、
 消えていく。



 声も、出なかった。
 まして、涙なんて出るはずもなく。











 大きいとはお世辞にも言えない駅の、申し訳程度に備え付けられていたロッカーに荷物を押し込む。
 とりあえずは財布さえあれば何とかなる。
 ロッカーの、なんだか古ぼけた感じのする小さな鍵を財布の中に仕舞い、その財布をポケットに突っ込んだ。


「行こーぜ、わんこ」


 天国は立ち上がると自分の背後を振り返った。
 わんこ、と呼ばれたのは。
 他ならぬ、犬飼冥だ。
 なんだか色々あって、どうしようもなくて、天国は犬飼を連れてきてしまった。


 だってコイツが、俺の腕を掴んだから。
 どうしようもないって顔されて、
 それを突き放せる気が、
 どうにもしなかったから。


 だから俺はこのでっかい荷物を背負うことにしたのだと。
 図体ばっかでかくて、面白いとこもない無愛想な奴だけど、番犬くらいにはなるだろうから、と。
 天国は未だ混乱が完全には収まっていない己の心に、そう言い聞かせた。
 心のどこかは。
 一人でいたくなかったと、そう呟いていることに気付いていながら。
 それをそうと認めてしまうのは、天国の矜持が許さなかったのだ。





 一方の犬飼の手にも、荷物はない。
 天国のそれと一緒にロッカーに放り込んだのだ。
 財布一つだけの身軽な格好で。
 二人は、駅を出た。
 訂正。
 天国の片手には、ミネラルウォーターの入ったペットボトルが一つ、握られていた。


 朝練も学校もサボって、制服のまま。
 傍から見れば、まるで逃避行のような。
 いや、実際逃避行と呼んでも差し支えないのかもしれない。
 ほぼ着の身着のまま、衝動的にここまで来てしまったのだから。
 人気の少ない駅で、二人の姿は明らかに浮いてはいたけれど。
 それを見咎めて声をかけてくるような人物はいなかった。






 駅の外は、潮の香りがした。
 電車の窓からは見えなかったが、近くに海があるのだろう。


 海が見たいんだ。


 独り言のような口調で天国がそう言ったのは、電車を下りる直前のことだった。







「猿、お前、この場所知ってんのか?」


 犬飼が聞いたのは、駅を出て歩き始めて五分ほど経ってからのこと。
 それまで、二人の間に会話はなかった。
 いっそ異様に思えるほど。
 けれど、当の本人たちはそうは思っていないらしい。
 二人の顔には、穏やかな色が浮かんでいる。


 犬飼が思ったのは、天国の足取りに迷いがなかったからだ。
 駅を出る時も、出てからも、天国は知った場所を歩くかのように悠々とした足取りで歩いていた。
 犬飼の言葉に、半歩先を歩く天国が振り返る。


「うん。昔、来たことあるからさ。一回だけだけど」


 だから迷うかも、と言いながら天国はへらりと笑う。
 犬飼はそれに納得したようなしてないような、曖昧な頷きを返した。
 昔、と口にした時の天国の顔が。
 何とも言い難い表情になったからだ。
 昔を懐かしむような、苦しい事を思い出すような、曖昧な目で。


 それを見た犬飼は、何しに来たのかとは聞けなかった。
 触れられたくない過去、というのは誰にでもあるものだし。
 それに、なにより。
 言うだけいってまた前を向いて歩き出した天国の背中が、語っていたからだ。
 これ以上は聞くな、と。
 聞かれても答えないからな、と。


 何を言うでもないのに、けれどその背中は拒んでいた。
 己の過去、思い出したくないけれど思い出さずにいられないそれについては、多くを語りたくないのだと。


 向けられた背中、ワイシャツの白さが、目に痛かった。











 太陽の光が、眩しい。
 真夏のそれよりかは遥かにマシなのだろうが、それでもじりじりと肌を焼いていかれるような気がする。


「いーぬー」


「っ、何……っ」


 呼び声に顔を上げた瞬間、投げつけられたソレ。
 反射的にキャッチしてから見てみると、それは天国が片手にしていたペットボトルだった。


「ナーイスキャッチ★」


「何のつもりだよ?」


「お前、なんか死にそうな面してんだもん。いーから飲めって。お前倒れたら支える自信ねーぞ、俺」


 背負うだけの力は在るけど、この暑さで密着はしたくない。
 言い切る天国の表情は、けれど皮肉げなものではなく。
 俺はどんな顔してたんだろう、と思いつつ犬飼は投げられたミネラルウォーターを戴くことにする。
 喉を下りるその水は、冷え切ってはいなかったけれど。
 それでも素直に、美味しいと思えた。





「コーヒー牛乳じゃなくてわりーなー」


 ついでにこの熱さの所為でちょっとぬるいけど。
 言いながら苦笑し、天国はうー、と伸びをした。
 吸い込んだ空気に、潮の香りが一際強く混じった。
 もうすぐ。
 もうすぐで、海が、見える。
 天国は自分でも意識せず、拳を握っていた。



 車の往来も、人の姿もない。
 ゴーストタウンにでも紛れてしまったようだと。
 天国は、額にうっすら浮かんできた汗を手の甲で拭いながらなんとなく思った。
 一人で来なくて良かったかもしれない。
 自分一人でここへ来ていたら、帰れなくなっていたような気がする。
 握り締めていた手のひらに、汗が浮かび始めている。
 天国はそれに気付いて、ようやく握っていた手のひらを解放した。
 微かな風が手のひらに触れるのが、何故だか切なく感じられた。


 犬飼は、天国の背中を見ながらただ歩いていた。
 天国が何故海に固執するのか、その理由は分からない。
 気にならないわけではなかったが、聞こうとする気も起こらなかった。
 右手に持ったペットボトルの中、揺れた中身がぴしゃりと水音を立てた。
 その音に、天国が肩を動かした。
 ふと、天国が足を止めた。
 犬飼は天国の横に並び、その顔を覗き込む。
 その目は、まっすぐ前を見据えていた。


 犬飼は天国の目線を追ってみる。


 そこには。




「海だ……」


 道路の向こうにそれが見えた時、天国は思わず立ち止まっていた。
 光を受けて、水面がきらきら輝いている。
 それともあれは、波頭が白い色を散らしているだけなのだろうか。
 天国には、どちらでも良かった。
 後ろを歩いていた犬飼が隣りに並んだのが分かった。
 その顔が、怪訝そうな表情に彩られているのも。
 けれど、天国はそれに何か言ってやる事も反応してやる事も出来なかった。
 そうするだけの、余裕がなかった。


「っ、オイ、猿?!」


 犬飼が焦ったように天国を呼んだのは、一も二もなく天国が走り出したからだ。
 ローファーは、走りにくい。
 そういえば朝も、走りにくくて閉口したような気がする。
 それでも、それに構ってなどいられなかった。


「海だ、犬!」


 走りながら、天国は首だけを後ろに向けてそう叫ぶように言っていた。
 犬飼は何が起こったのか分からないような顔をしていたが、それも一瞬のことで。
 すぐに、走り出した。
 走る前に僅かに肩を竦めたのは、突拍子もない天国の行動に呆れてか、それともそれに付き合ってしまう自分に対してか。
 どちらにしろ、犬飼は天国の背を追うことを選んだ。


 誰かの背中を追うのは、好きじゃねーんだ。
 それがあのバカ猿ってんなら、尚更。


 あんな奴に前を走られているなんて、悔しいから。
 犬飼の目にも、天国が目指す海が見えていた。
 けれど、天国が何故こんなにもがむしゃらに海を目指すのか、その理由までは犬飼には分からない。




 分からないままでいい、と。
 走りながら、犬飼は思った。
 今朝方、同じように天国の背中を追いながら同じことを考えたことを。
 犬飼はまるで遠い過去のことのように、頭の片隅で思い出していた。


 分からないままでいい。


 ……一体、何をだ。





 答えの出ない問い。
 いつかは、この先でその答えが出る日もくるのかもしれないけれど。
 それは、今じゃない。
 今じゃなくて、いい。


 今は、とりあえず。


 生意気にも自分の前を走るバカ猿に、追いつくことが先だから。










 自分の後ろから足音が聞こえてくるのがこんなに心地いいことだと思ったのは、生まれて初めてだった。
 追いかけられるなんて、大概良い事じゃないのが多いのに。
 追いかけられることに対してこんな気分なのは、小学生の頃以来だった。


 沢松と二人で、その頃評判のよくなかった体育教師に一泡吹かせたのだ。
 念入りな計画を立てて、逃走経路や落ち合う場所もしっかり決めて。
 大人と子供の足の差を埋めたのは、地の利だ。
 逃げ切って、二人して腹を抱えて笑った。
 達成感と満足感とに、とてもとてもいい気分だった。



 思い出しながら、天国はふっと微笑する。
 けれど今は、思い出に浸っている場合じゃない。
 天国の目線は、まっすぐに目の前に在る海だけに向けられていたものの。
 その意識は、自分の後ろから聞こえてくる足音を聴覚していた。
 自然と口元が綻ぶのは、何故だろう。


 ああ、こんな気分なのは。
 追われる足音にこんな穏やかな気分でいられるのは。
 多分、きっと。




 追って来るのが、アイツだからかな。




 そんなこと、逆立ちしたって告げる気はなかったのだけれど。
 天国は素直に、そう思っていた。
 さっきよりも、足音が近くなっている。
 追いつかれるかもしれない。


「くっそ、歩幅デカイのな……」


 身長差からのコンパスの差は仕方がないことだろう。
 分かってはいても、悔しいものは悔しい。
 顔を上げた先、海が。


 目の前に、迫ってきていた。






 天国の走る速度が、がくんと落ちて。
 何かあったのかと目をやると、海が目前に迫ってきていた。
 潮の香りが、一段と強くなる。
 そこまできてやっと、ここは海辺の街なのだと理解したような気がした。
 海の傍に住んでいるわけではない自分たちには、馴染みの薄い香りだ。
 空気が少しばかり湿っているように感じられるのも、海が近いその所為か。


 手を伸ばせば届くくらいの場所で、天国の腕が揺れている。
 放っておけば、そのまま海へ走って行きそうで。
 犬飼は衝動的に、その腕を掴んでいた。




「ッ、わ、あっ?!」








 まさか腕を掴まれるとは思っていなかったのか、天国が驚いたような声をあげる。
 そのまま、バランスが。







 崩れた。













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(UPDATE/2003.6.3)

 

 

 

 

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