9.「僕たちはこれからだから」 新八が万事屋を欠勤していると知ったのは、ただの偶然だ。 市中見廻りをサボろうと歩を進めている途中、通りかかった万事屋の前で。 あの店の大家がその事を言いながら万事屋の奥へ消えて行くのを見かけたのだ。 そう、偶々。 偶然以外の何者でもなく。 恒道館道場。 仰々しくも見える表札が掲げられている屋敷。 廃刀令が布かれて久しい昨今、道場運営を未だ続けられているのは余程名の知れているごく一部でしかない。 この道場もまた、廃刀令の煽りを受けて、門下生は一人もいなかった。 にも関わらず、恒道館は未だその看板を下ろすことをしていない。 道場、という場所そのものは嫌いではなかった。 凛とした、背筋をぴしりと張り詰めさせるような空気は。 己がその中で培われてきたから、いっそ懐かしささえ覚える。 だが、沖田が知っている道場と決定的に違う事。それはこの道場には人がいないことだ。 佇まいはそのままに、この場所から人の姿だけが消えてしまったような。 人のいない道場を、それでも守るのは。どんな、気分なのだろうか。 この道場と屋敷を訪れるのは、初めてのことではなかった。 局長である近藤絡みで、何度か足を運んだ事がある。 二人で住むには広過ぎるであろう屋敷は、それでもきちんと手入れされていた。 「今日はまだゴリラの回収を頼んだ覚えはありませんけど。何か御用でしょうか?」 かけられたのは、涼やかな女性の声だった。 振り向けば、スーパーのビニール袋を片手に笑顔で立つ姿。 近藤の想い人、かつ新八の姉。 妙という名の彼女は、確か自分と同じ年なのだと聞き及んでいた。 「こんな時間に出歩いてんのは、珍しいんじゃないですかィ?」 「弟が寝込んでいるものですから。栄養のつくものを買いに行って来たんです」 「……へえ、そりゃまた」 ご苦労なことで。 小耳に挟んだ、新八が熱を出しているという情報は真実だったらしい。 新八が嘘をついてまで欠勤するような性格だとは思わなかったが、昨日は色々とショックを受けただろうから。 万に一つの可能性として、サボリという事もあるのではないかと思っていたりしたのだ。 けれど妙の様子を見るに、新八が寝込んでいるのは偽りではないようだった。 極貧ではないものの、姉弟二人きりの経済状況は逼迫しているのは間違いではなく。仮病などというものを許す程、彼女は甘くないだろうから。 まあ、そもそも熱を出した原因が昨日の出来事に端を発しているのは間違いないのだろうが。 「随分深く寝入ってましたから、夕方くらいまでは起きないんじゃないかしら」 「俺にんなこといわれてもなァ」 「まさか、私に用があるわけでもないでしょう?」 にっこり、と。 笑顔ながら有無を言わせぬ雰囲気で言われる。 別に通りかかっただけだ、と返すことは造作もなかった。 けれど不意に面倒になる。 女の笑顔ってなァ曲者だなァ。 そんな事を考えながら、返事をする気力も失せてふいと踵を返した。 「あら、お帰りですか?」 「……寝てんだろ」 「見舞って頂けるなら、リンゴとハーゲンダッツでお願いしますね。ああ、メロンでも構いませんけど」 ハーゲンダッツが好きなのは、アイツじゃねーだろ。 近藤が大量にアイスを買い込んでいたのを知っていた沖田は、内心でそうツッ込んで。 結局それも口には出さないまま、その場を後にした。 数時間後、沖田は志村家の玄関にいた。 見舞い品と称したビニール袋の中には、林檎とハーゲンダッツ。 妙が口にしたそのままの品は、見舞いの品というよりかは賄賂に近い。 渡されたそれを受け取りながら、妙はこれから仕事なのだと言った。 「あのコが自分から言わない限り、私は聞きません」 だから、昨日何があったのかも知らない。 聞き出そうとも思わない。 そう、言葉にされない意思が聞こえたような気がした。 存外放任主義なことに、多少驚く。 もっと過保護なのかと勝手に想像していたのだ。 けれど案外、姉というのはこういうものなのかもしれないとも思う。 弟妹を可愛がりながら、その実踏み込まれたくない部分は避けてくれたり。 迷う最中、背を押してくれたり。 脳裏を過ぎったのは、己の肉親の姿で。 だがその横顔は、妙が続けた言葉に遮られるかのようにふっと消えた。 「私はあのコを信じてますから、あのコが選んだ道ならそれも丸ごと信じるだけです。けど」 「……けど?」 「仇なすものなら、許すつもりはありませんから」 そのおつもりで、と。 声の調子は変わらないのに、ぴんと空気が張り詰めた。 斬り合いとはまた違う、それでも確かな緊張感。 笑顔を消した妙が、まっすぐに沖田を見つめている。 その視線を逸らすことなく受けながら、やはりこの姉弟は似ているのだなあと呑気に考えていた。 何を隠す事もはぐらかす事も逸らす事もない、目は。 確かに二人の血が繋がっていることを証明するかのように、同じ強い色を湛えていた。 暫しの沈黙。 その後、折れたのは妙の方だった。 「廊下の突き当たりが、あのコの部屋です」 「りょーかい。あァ、一つ言っておきまさァ」 「何か?」 「俺ァ別に、アイツに敵意があるわけじゃねーですぜ」 これは、事実だ。 それよりもっとずっと複雑でややこしい感情が、胸の内で嵐の様に渦巻いているのだけれど。 そこまで言うつもりはなかった。 沖田の言葉に、妙はいつものように食えない笑顔になり。 「ええ、知ってます。敵意があるなら、私が先に斬ってましたから」 敵意がないからこそ、言ったのだと。 声の調子に嘘は見られない。 沖田は無表情のままだったが、内心で舌を巻いていた。 考えの読めない妙が、何をどこまで知っているのかの判断はつきかねたが。 ただやはり、女は食えないものなのだと、苦く思った。 踏み込んだ部屋の空気は、風邪の時独特の湿ったようなものだった。 梅雨時のように、どこかじっとりと纏わりつく湿気のような。 新八は横になってはいたものの、深く寝入っていたわけではないようで。 それでもすぐに体を動かすのは困難だったのか、その唇だけを動かした。 紡がれた、言葉は。 あねうえ、と。 夢現で呼んだ声は、幼子のようだった。 肉親を柔らかく、愛しく思う、声。 無垢な響きに、僅かに目を眇めた。 きっと、本人にも分からなくなっていたのだろう。 唯一の肉親を慕う情と、恋心と。 どちらにしろ、大切に想うのには変わりはない。 呼んでから億劫そうに持ち上げられた瞼の奥、熱の所為で潤んでいる瞳がゆるゆると焦点を結ぶ。 「……おきたさん?」 熱と寝起きで思考が働いていないのだろう。 沖田を呼んだ新八の声は、いつも通りのものだった。 揺らぐように流れた視線が、ふらりと沖田の頬に辿る。 そこに在るのはいかにも殴られました、と主張しているような真っ白い湿布だ。 やはりというか何というか、昨夜は盛大に腫れてくれた。 顔という隠しようのない場所だった為、近藤にも土方にも他の隊士たちにも己の失態を晒す羽目になった。 新八の怒りを煽ったのは自分の意思だったのだから、自業自得とも言えるのかもしれないが。 「痛そうですね、それ」 相変わらず茫洋とした眼差しのまま、新八がそう言った。 その声には、怒りも嫌悪も見受けられない。 「結構な力で殴られたからなァ」 新八の態度に引きずられ、返す沖田の声も自然常と変わらないものになる。 片方が立ち片方が寝ているのではどうにも話しづらい。 新八の枕元、畳みの上に座り込む。 それを新八はまだぼんやりとした様子で見上げていた。 「姐さんなら、俺と入れ違いで出てったぜィ」 「あれ……もうそんな時間ですか」 沖田の言葉に、新八はぱちりと瞬いた。 寝入っていた為に時間感覚が狂っているのだろう。 虚をつかれたような、その顔は。演技にもムリをしているものにも、見えなかった。 昨日垣間見た絶望も怒りも、微塵も見られない。 熱の為にか多少覇気はないけれど、新八はただひたすらにいつも通りだった。 「……昨日の事、何も言わねえんだな」 忘れたワケは、ないだろうに。 怒声の一つも覚悟していたのに、こうも何もないと拍子抜けしてしまう。 それに、何より。 引きずり出し刻みつけた筈の自分の存在が、まるでなかった事にされたようで。 思わず、言ってしまっていた。 もっと効果的なやり方も言葉もあっただろうに、ただストレートに。 沖田自身が、己の放った言葉に驚いたほど。 「何を言ってほしいんですか」 一拍置いて返ってきたのは、至極冷静な響きの声だった。 どこか鈍い色をしていた新八のその目に、鋭い光が戻ってくる。 あァ、これだ。この目だ。 そう思って、けれど。 そこに怒りも恨みもないのに、すぐに気付いた。 まるで、新八が沖田に対して向ける感情が今までと一つも変わっていないかのような。そんな都合のいいことを考えてしまいそうに、なる。 「あなたの不躾な言葉と、僕の殴打でチャラだと思ってますが」 「……ふーん」 「だから謝りませんし、謝ってもらわなくても結構です」 キッパリ言い切った声の調子に、嘘はなかった。 気のせいでも何でもなく、新八は本当に沖田を恨んでも怒ってもいないらしい。 仕掛けた罠は不発に終わっていたのだと。 今更ながらに、気付かされた。 想像していたよりずっと、新八は強く深かったらしい。 だからこそきっと、自分は。 「俺は別に、お前ェの思いを咎めたわけじゃねえんでさァ」 ぽつり、言葉がこぼれていた。 意図したわけでも計算したわけでもなく、ただ自然に。 「……そうなんですか」 新八の目は、変わらず沖田に向けられていた。 熱の所為で潤んではいても、揺るがない。 全てを呑み込み、許容し、超えていくような黒。 惹かれたのは、眼差し同様にまっすぐな魂に、だ。 「人の感情に、いいも悪いもねーだろ。どんな奴のでもなァ」 「沖田、さん?」 呼ぶ声の端が、掠れていた。 艶事を連想させるようなそれに、柄にもなくどきりとした。 そんな事を思われているとは微塵も想定していないのだろう、新八は目を逸らさないまま。 多少の途惑いはあれど変わらない新八の表情に、己の焦りばかりが際立って感じられてしまい。 沖田は無意識に目を眇めていた。 「正しくはなくても、間違いじゃねえんだ」 正しくないなんて、分かりきっている。 それでも捨てられない、譲れない強い想いを。 一体どこの誰が、裁くというのだろう。 誰にも、何にも、そんなこと出来も許されもしないのだ。 「間違いじゃ、ない?」 鸚鵡返しに繰り返した新八の目が、驚きに丸くなる。 それでも尚、目は逸らされない。 まっすぐにまっすぐに。 頑ななまでに向けられる目は、恐れを知らない子供のようで。 そのくせ宿る光の強さは、大の大人にすら匹敵するような。 いつもの眼鏡をしていないせいか、感情がダイレクトに伝わってくるような気がする。 新八の目は、漆黒だ。深い深い、夜の色。 呑み込まれそうだ、と思う。 ……そうなってしまっても構わない、とさえ。 「……なんて目、してるんでィ」 苦く呟き、手を伸ばして新八の目を隠した。 そうでもしないと、逸らせなかった。 触れた額は、熱い。 掌から伝わった熱が、腕に伝い、心臓に届き、全身に巡っていくような。そんな、気がした。 「間違いじゃ、ねえよ。お前ェの気持ちも」 熱い。 浮かされた熱に、逆らえない。 目隠しをされたままの新八は、何も言わない。 それが更に、熱を増長させていく。 きしりと畳みが軋む音がして。そこでようやく、己が体を倒していることに気付いた。 「……俺の気持ちも、な」 新八の耳元で、言う。 懇願しているような声だと、他人事のように思った。 吐息が触れたのか、新八の肩が少し震えた。 「沖田さんの、ですか?」 途惑うなら、この手を振り払えばいいのに。 簡単なことだろうに、新八はそうせずに。ただ、聞き返してきた。 逃げるなら、今のうちなのになァ。 そうされたらされたでショックなのだろうと分かっていても、思ってしまう。 新八の無防備さは、決して己を信用してのものではないのに。 許されているような、気になる。 「間違いじゃねえんでさァ……多分」 そう願いたい、だけなのだとしても。 洩れた声は自分のものだとは思えない程に弱々しかった。 情けなさに自嘲し、こんな声を聞かされた新八はますます動けなくなるのだろうと思う。 ずるいやり口だと自覚しながら、止める気もない。 それでも、赦されるなら。 ここから始まるものもあるのだと。 そう、希っても。 「俺ァ、お前ェが好き、なんでさァ」 震えていたのは新八か。それとも、己か。 二度目のはずの口付けは、まるで初めて触れるかのように。 泣きたくなるほど、ただただ暖かかった。 まるで、赦されるかのような熱に。 目の奥が痛んで、瞼を閉じた。 END |
Waive「HURT.」1からの続き。 続きというか、同じ話の沖田視点です。 何ていうかガラスのSっぷり全開に…… これにて四部作は終了です。 最終的には沖→新ですが。 思春期ドロドロ全開な彼らは楽しかったので、 また書くかもしれません。 完全な続き物というより、同じ人たちというのを踏まえての短編とか。 ……予定は未定ですがっ。 UPDATE 2007/5/7 |