10.消えかけた記憶を呼び戻す ジェイドが宿の部屋に戻ってきた時、中には誰も居なかった。 ケテルブルクのホテルほど大きければそれぞれ個室に泊まれもするが、大抵の宿屋では男女に別れて部屋を取るのが常だ。 何だかんだで付き合いも長くなれば、慣れもする。 長い、という程の日数ではないかもしれない。だが、その間に起きた色々な出来事を考えると、十年来の付き合いでもこれだけ密度の濃い日々を送れるかどうか。 何とはなしにこの面子で行動するようになった日々を思い返していたジェイドだが、ふと床に紙が落ちているのに気付いた。 ジェイドが所用があってこの部屋を出る時にはなかったはずだ。 片手に収まるほどの大きさのそれを拾い上げると、何やら字が書いてあった。 「おや、これは……」 ルークの字ですね。 紙にびっしり書き込まれた、お世辞にも綺麗とは言い難い字。 字には人間性が現れるとは、昔の人間はよく言ったものだと思う。 一瞥した限りでは乱雑な印象を与える、それでもどこか生真面目そうな字だ。 「ま、読めるだけマシですか」 何が書いてあるか目を走らせる。 無防備に落としていたのだから、読まれても文句はあるまい。 そこに書かれていたのは、音素についてだった。 ジェイドにしてみれば基礎の基礎であるそれだが、買い物の仕方すら知らなかったルークにはどれもこれも新たな知識、刺激なのだろう。 余談だがその話をティアから聞いた時、隣りに立っていた教育係に流石に呆れた目を送ってしまった。 「……ふむ」 書かれているのは読んだ本の自分なりのまとめと、補足だった。 考えるより行動、なル−クだがそれを読む限り理解と覚えはどうやら人並みらしい。 被験者があのアッシュであることを考えれば、まあ頭は悪くないのだろうが。(とりあえずここで言うのは性格ではなく頭の出来、だ) 育てられ方の所為か否か、性格に多大の問題があったりなかったりするのは…育ての親に起因するものだとしておくとして。 ガイ辺りが苦笑しそうなことを考えつつ。 「理解は悪くないですが……まだ甘いですね」 呟いて、机の上に転がされていたペンを手に取ると、紙の余白にもう少し踏み込んだ事を書き加える。 机の上にはペンの他にもルークが読んでいたのだろう音素学の本が置かれていた。 だるいウザイと言いながらも良家の育ちらしく割合きっちりした面も持つルークのことだから、この本もまだ読むつもりでここにあるのだろう。 ジェイドは少し考えて、紙を裏返しにするとそこに何冊かの本の題名を書いた。 どれも音素学に関する本で、今ルークが読んでいる物と併用して読むか読了後に読むかをすると分かり易いものだ。 書き終えた紙を本に挟み、思わず失笑する。 「面倒な事は極力避けてきたつもりなんですがねえ……」 ま、たまにはいいでしょう。 呟いて、本を机の上に置く。 「さて、どうなりますかね」 意図せず洩れた声音は、予想外に楽しそうなもので。 耳に届いたそれに、ジェイドはおや、と目を瞬いた。 周囲にはからかい甲斐のある人間が多く、中でもルークはその筆頭に位置するのだが。 存外に自分は、ルークのことを気に入っているらしい。 誰かを必要以上に気に掛けること、何かを期待すること。 そんな対象に出会えたのは、何だか久し振りな気がする。 それがあのルークなのだというから、なかなかに面白い。 「これはなかなか……興味深い」 自身のことだというのに他人事にような調子で一人ごち、本の表紙を指でなぞった。 高揚、と呼んでもいいのかどうかは分からないが、いつになく楽しんでいる自分がいるのは確かだった。 久しく忘れていたような、その感覚は。 かつて師と仰ぎ誰より尊敬していた人の元で師事を受けていたあの日々に抱いていたものにも似ているような、気がした。 勿論あの頃と今では立場も考え方も違うから、抱いているのは別物なのだが。 「全く……飽きませんねえ」 己のペースを乱されることは、忌むべきことだと考えているのだが。 それでも、悪くない気がした。 穏やかな心地でいる自分に、驚きながらも新鮮で面白いとも思う。 これからどうなるのか。 世界の形も、己の心も。 予測もつかないけれど、悪いものにはならないのではないかと。 確信など一つもない、信用に足る材料なんてあるわけがない、それでも。 何故か、そんな気がした。 END |
アブソープゲート1回目前。 時期的にはザレッホ火山1回目頃くらいか、なー? 特に限定はしてませんが、乖離の話とか全然出てない頃です。 しかし潔くジェイドしか出てないな…… UPDATE 2006/5/16(火) |