7.「大空」見据えて何想ふ。




「猿野くん、何か嬉しそうっすね?」

「ん〜? そうか?」


 部活前。
 グラウンド整備をしながら、どこか嬉しげな天国に話しかけたのは子津だ。
 子津の問いに、天国は相変わらず鼻歌でも歌いそうな様子でトンボをかけている。
 ことん、と音がしそうに首を傾げた天国の様子は、何かを誤魔化したりしている風ではない。どうやら天国が嬉しそうなのは自覚や理由があってのことではないらしい。

 理由のないことならそれ以上話が広がることもなく。
 子津はその後追及することもせずに、黙々とグラウンドを馴らした。
 ざ、ざ、と音がするのが好きだ。
 これから野球をするんだ、という気分が否が応にも盛り上がってくるのが分かるから。


「猿野くん?」


 隣りのトンボが止まっているのに気付き、ふっと顔を上げる。
 その名を口にしながら。
 天国はどこか呆然としたような顔で、上を見ていた。
 何があるのかと視線の先を辿るが、そこに在るのは空だけだ。
 青く高く、澄んだ色の空。
 晴れた空はやはり、気分が良くなる。

 けれどそう思う以上に、子津は途惑いを覚えた。
 途惑い、というと些か語弊があるかもしれない。
 空を見据える天国の目が、ここではない場所を見ているようで。
 その意識が、想いが今この時ではないものを写しているのが漠然とだが確かに感じられて。
 目の前にいるのに、届かない、触れられない。
 それが生んだ焦燥に、胸の内がざわついた。
 隣りにいるのに、遠い。それがこんな風に思えるなんて。


「打ったなあ、ってさ」

「え?」


 ぽつり、天国が言葉にする。
 独り言のような響きのそれが、確かに自分へ向けられたものだと分かったのは何故だったのか。
 瞬いた子津に、天国はゆっくりと顎を引いて視線を送る。
 向けられる双眸は、柔らかかった。
 その奥に宿る強い光を感じさせながら、それでも凪いだ海のように静かな色を湛えていた。
 聞き返した子津に、天国はへへ、と笑う。


「試合、でさ。打ったなあーって、思い出してた」

「相変わらず打つのが好きっすね、猿野くん」

「おお。今日みたいな空にさ、ボールがぐんぐん昇ってくのを見ると気分いいしな。スカーっとすんじゃん」

「嬉しそうだったのは、そのせいっすか?」

「ん? ん〜……」


 何気なく言ったのに、天国は頷きかけてそのまま唸る。
 眉間に皺を寄せて考え込む天国の視線がまた、空へ向けられた。
 ふっと、遠くなる。

 あ、まただ。
 また、違う場所にいる。
 届かない場所に、いる。

 思わず手を伸ばしかけた自分に気付いて、子津は慌ててトンボの柄を掴む手に力をこめた。
 不安にも似た想いで胸の内が揺らぐのは、ここではない場所を見ている天国がこのまま消えてしまいそうな気がするからだ。
 笑っていても怒っていても、誰より強烈な存在感を放つ彼が、まるで透明になってしまったように感じるからだ。

 子津は天国を倣うように自分も空を見上げて。
 晴れ渡った空を、少しだけ怖いと思った。
 高く深い、空に。ともすれば落ちてしまいそうな気がした。


「俺多分、嬉しいんだろな。子津の言う通り」

「嬉しいんすか?」

「うん。多分」

「多分なんすか……」


 少し脱力しながら言えば、天国は何を言うでもなくへらっと笑い。
 向けられた目に自分が写っているのに、どうしようもなく安堵した。
 ここに、いる。
 手を伸ばせば届く場所に、ちゃんと。

 内心で息を吐く子津を余所に、天国は地面から浮かせたトンボをくるくると回して。
 珍しく何かを言い淀んでいるらしいのに、子津は黙って言葉を待った。
 そんな子津の空気が伝わったのだろう、天国は視線をふらふらっとさまよわせて。けれどやがて、しっかりと子津の視線を受け止めた。


「俺、野球できんの嬉しいんだ。このチームで、さ」


 照れくさそうに笑って、言った。
 紡がれたそれに、一瞬言葉を返せない。
 向けられた目と笑顔とが、途惑うほどにまっすぐで。

 その時、突然理解した。
 天国が遠い目をした、その理由。
 見据えていた場所。
 それは、今までの道筋だ。
 ただ必死に、前だけを見据えて。
 我武者羅に乱暴なまでに、駆け抜けてきた。
 立ち止まる暇もなく。

 何故今、この瞬間に駆け抜けてきた道程を見据えてみたのか。
 それは分からない。
 ただ、分かるのは。

 天国が自分の隣りで、肩から力を抜いたこと。

 それを嬉しいと、素直に思った。
 彼の隣りで野球が出来ることが、嬉しいと。
 子津はきゅっと唇を引き結び、顎を上げた。


「猿野くん、まだまだこれからっすよ!」


 まだ、これから。
 その言葉は自分自身へ向けられたものでもあって。
 そう、まだ野球が出来る。このチームで。


「……だな! うっし、打つぞー!」


 握ったトンボを持ち上げ、空を指し示し天国は笑う。
 それに子津は笑って、そっと自分の手のひらを見た。
 肉刺とタコだらけの、手。
 投げたい、投げたい。
 雄弁に語る手のひらを、そっと押さえる。

 大丈夫。
 まだまだ、これからだから。
 投げられる。
 まだ、皆と一緒に野球がやれる。


「子津ー、そろそろ片付けよっぜー!」

「はいっす!」


 僕も、このチームで野球が出来るのが嬉しいっすよ。
 後でちゃんと、猿野くんに言おう。

 思いながら、子津は天国の後を追った。
 晴れ渡った空の下、今日も野球を。


END


 

 

対黒撰、勝利記念ー!

な子津と天国。
試合を終えた次の日くらい、部活の時間に思わず回想。
みたいな。

この二人の信頼関係は、見てて心地良い。
天国の零す本音を一番多く聞いてるのは、子津だと思う。
子津は天国に引きずられてるようで救われてることも多いと思う。

かといって寄りかかってるばかりじゃない。
そんな彼らがすごく好き。

勝てて良かったね、な想いをこめて。


UPDATE 2005/3/1

 






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