14.意地悪しないで、





 その手を取ると決めたのは、他でもない自分だ。
 強要も強制もなかった。
 彼はいつもと同じように楽しげに目を細めながら、言っただけだ。
 ひらりと、その大きな手をひらめかせながら、一言。


「俺と来るかよ?」


 その言葉に頷いたのは、自分だ。
 あの瞬間には、何もなかった。浮かばなかった。
 大切な人たちのことも。
 決意も。思い出も。
 ただ、己に向けられた掌のことしかなかった。
 それはつまり、そういうことなんだろう。
 何をどう以ってして「そういうこと」なのか明確に示すものが何なのかと問われれば返答に窮するけれど。

 諸々の事が頭を過ぎり出したのは、彼の手を取ってからだった。
 誰より近くで、何もかもを分かち合ってきた兄のこと。
 大事な、泣き虫で優しい幼馴染みのこと。
 厳しく、けれど優しい師匠のこと。
 ……多分、全ての始まりだった、母のこと。

 それまでの自分を形成してきた全てだと言っても過言ではないそれらが、脳裏を過ぎっても。
 その瞬間に胸が痛んだのは本当なのに、掴んだ手を離せなかった。
 けれど。
 自分は薄情なんだろうかと思い悩む暇もなかった。

 手を差し伸べてきたくせに、男はひどく早足で。
 彼の立つ位置を考えればのんびりとしていられないのは分かる気もするが、子供である自分にはただ追い掛けるのだけで精一杯だ。
 思考の海に沈む暇もない。
 置いて行かれないように、彼の後を追うことに必死になる日々が続いていたから。
 そうだ、今日こそは。
 ちゃんと一言、あのひとに言おう。



「グリードさんっ、ちょっと待ってくださいっ」


 文句を言おう、そう心に決めたはずなのに。
 出てきたのは息を切らした、必死な声だった。
 変声期前の喉が発したのは、どこか追い縋るような音で。

 その言葉を口にしたのは、声相応な外見をした少年だった。
 柔らかな色をした金の髪に、同じ色の目。
 どことなく優しげな顔立ちではあるが、ちゃんと少年らしさもある。
 10代前半らしい年かさの少年は、しかし今は眉を寄せながら誰かの背を追っていた。

 グリードさん、と少年が呼びかけた先には。
 黒髪に黒服の長身な男が歩いていた。
 少年を日向とするならば、彼…グリードは紛れもなく夜に属するものだろう。
 どこか爬虫類を思わせる強面だが、けれどどことなく機嫌よさそうに悠々と歩を進めている。
 何気ない調子で歩いているグリードではあるが、いかんせん少年との歩幅が全く異なる。
 グリードに追いつく、もしくは置いていかれないようにするには、少年はどうしても早足か小走りになるしかない。


「グリードさんってばっ」


 再度呼べば、グリードがようやく足を止めた。
 追いついてきた少年に、笑いながら言う。


「どうした、アル。息切らして」

「誰のっ、所為ですかっ」


 息を切らせながら、アルと呼ばれた少年はグリードを睨んだ。
 この二人、組み合わせとして見れば非常に妙な取り合わせだろう。
 兄弟というには年が離れ過ぎ、親子というには些か無理がある。何よりどこも似ていない。
 何らかの事情で同行しているにしては、対等であるような口の利き方をしている。
 奇妙という点では非常に人目を引きやすいはずなのだが。

 立ち止まった二人に、必要以上の注目は集まっていなかった。
 通行の妨げになったらしい人が時折胡散臭そうに目を向けるぐらいだ。
 グリードに言わせると、彼は街の歩き方、人込みに紛れる術を熟知しているらしい。
 だからそう目立たないのだ、と。
 今もグリードは睨まれたままニヤニヤ笑ってなぞいるが一向に人目を集めているような気配はなかった。


「もうっ、何笑ってんですか」

「んー? 訂正しなかったなーと思ってよ」

「訂正?」

「いっつも言うじゃねーか。アルじゃなくてアルフォンスです、とか何とか」


 全く似ていないアルフォンスの声真似をしながら、グリードが言う。
 言われたアルフォンスは何言ってんだろうこの人、と口にする代わりに何度か瞬きをしてみせた。
 グリードの手が、そんなアルフォンスの頭をくしゃりと撫でる。

 大人と子供のサイズの差は、なかなかに顕著だ。
 触れた掌は大きく、このまま頭を握られたら潰されてしまうのではないかとさえ思った。
 彼がそんなことをする筈はないと、分かっていても。
 そうしてもしそうなったとしても。自分はきっと彼を恨むことはないのだろうと、そんなことも思った。

 けれど今はそんなことを考えている場合ではなく。
 決めたのだ。
 言うと。言ってやるのだ、と。
 その決意は固い。
 アルフォンスは撫でられるままに、けれど自分よりも随分高い位置にあるグリードの目を恨みがましく睨んだ。


「何度言っても治らないんだから、言っても無駄でしょう」

「ま、そーだな。俺は俺のしたいようにするし」

「いい加減僕だって学習します。それよりグリードさん、今日こそは言わせてもらいますからね!」

「お? 少年の主張ってヤツか」

「茶化さないでくださいよ!」


 飽きる程長く生きているが故なのか、それとも性格か。(アルフォンスは後者だと信じて疑っていないのだが)
 グリードは人の感情の矛先をのらりくらりとかわす術を身につけている。
 それでいてどこかしらに人の心を掴む魅力のようなものがあるのだから、厄介だ。
 厄介な人に掴まってしまったなあと、何度彼の背中を追いかけながら思ったことか。
 そう、背中を。


「グリードさん、歩くの速すぎます! 子供だから、っていうのを言い訳にしたいわけじゃないですけど、連れてってくれるって言ったんだからもう少し考えてくださいよっ」


 来るか、と。
 聞いたのは、手を差し伸べてきたのは、彼だ。
 伸べられた手を取ったのは他でもない自分で、その責任を誰かに転嫁する気はさらさらない。
 けれど、手を出すだけだしておいて、後は知らない顔で飄々と歩まれるというのは。
 何と言うか。無性に悔しい、のだ。

 四六時中こちらを見ていろとは言わない。
 そんなのはゴメンだし、求めるものではない。
 隣りを歩かせろとまでは言わないから、せめて。
 もうほんの少しだけでいいから、歩みを緩めてほしかった。
 自分の存在を認めているのだと、ここに在ると意識の片隅にでも認識しているのだと、そんな証が欲しかった。


「なんだ、そんなことでいいのかよ」

「そんなこと、って」


 返された意外そうな声音に驚いた。
 面倒だとでも言われるかと思っていたのに。
 見上げたグリードは、つまらないとでも言いたげな顔をしていて。
 それにまたアルフォンスはきょとんと目を丸くして、首を傾げた。
 未だ頭の上に置かれたままだったグリードの手が、わしわしっと少し乱暴にアルフォンスの頭を撫でる。
 いつもより乱暴な仕草に、アルフォンスは首を竦めて目を伏せた。


「わ、なんですか」

「もっとワガママ言われっかと思ったんだけどな」

「……言ってほしかったんですか」

「不満が溜まりに溜まったって顔してたからよ」


 グリードの言葉はまあ当たっていたので否定はしない。
 一瞬黙り込んだアルフォンスは、ふと気づく。


「分かってたんですか、僕の」

「そういう風に仕向けたからな」


 ま、当然だろ。
 何でもない口調で言われて、一瞬理解が出来なかった。
 一呼吸置いて、何を言われたのかを脳細胞が判断する。
 ワザと、だったらしい。
 背中ばかり追いかけさせられていたのも、それに不満が募って行ったのも。
 けれど、そうする理由がよく分からない。
 怒ってもいい場面なのだろうが、そうしなかったのは理由を知りたいと思う気持ちの方が強かったからだ。


「何で、そんなこと」

「あからさまに後ろ髪引かれてますー、って顔だったからな、お前が」

「……そりゃ、今まであたりまえに居た世界だったんですから」


 気になってしまうのは、振り向いてしまうのは仕方ないことだと思う。
 世界の全てを振り切ると、そう決めたのは自分だったけれど。
 少しの未練も残さないでいられるかと言われれば、そんなの無理だ。
 それまでの自分を形成し、支えていたものだったのだから。


「俺と来るっつったんだから、俺だけ見てりゃーいいんだよ」


 ぽん、と落とされた、言葉。
 見上げるグリードの顔は、いつもよりほんの少しだけ苦い。
 その顔を見上げながら、ふと思い当たる。
 そういえば、と。

 いつも背中ばかり追っていたけれど、その背は自分を拒否していたことはなかったと。
 背中を向ける、と言えば大体が拒絶や別れ、決別などを意味するものだけれど。
 必死になって追いかける彼の背中は、そんなことを微塵も感じさせなかったことに今更のように思い至った。


「分かりにくすぎます、グリードさん」


 呆れたような言葉がもれたのは、仕方ないことだと思う。
 事実、呆れていたのだから。
 アルフォンスのその言葉に、グリードの顔にますます苦味が広がる。
 それが何だか、子供のように見えて。

 僕よりずっとずっと長くを生きてきたひとなのに。
 自分でそう言ってるのに、子供みたいだ。

 口にしたらきっと報復されるだろうから、内心でだけ。
 思って、アルフォンスは笑った。
 笑ってから、頭の上に置かれているままだったグリードの手を取った。
 大きい。
 大きさも厚みも違うそれを、ぎゅっと握る。


「子供みたいな意地悪しないで、手でもつないでください」


 その方がずっと簡単で分かり易いし。
 何より、嬉しいような楽しいような気分になれるから。
 仕掛けられたのは自分の筈なのに、何故か悪戯に成功したような気分だった。
 してやったり、な感情は顔にも出ていただろう。
 グリードはそんなアルフォンスを暫し見下ろしていたが。
 やがて、ふっと口元を緩めた。


「ま、こんなとこか」


 呟いた後、グリードはそのままアルフォンスの手を引いて歩き出した。
 その速度は、先よりもずっとゆっくりしたもので。
 アルフォンスは彼の隣りを歩きながら、また。
 思わず、笑ったのだった。



END


 

 

鎧くんと強欲さん。
もとい生身チビアルとグリードさん。
(借り読みしてる)鋼で好きな二人です。
幸せになってほしいという願望を込めに込めた話。
おかげで捏造を通り越してパラレルのような…
兄でも炎でもなく(いやここも好きだけど)鎧が好き。
幸せになってけれー!!!!


UPDATE 2006/04/08(土)

 

 

 

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