9.一秒でも長く一緒にいたいと思っていたんだ 「てんごくくん、俺と海に行かない?」 彼の発言は、いつだって唐突だ。 その上、突拍子がない。 その時もまた、何の前触れもなくそんなことを言い出して。 ボケ気質な天国はと言えば、気の利いた切り返しを思いつくわけもなく。 きょとんとした、この人は何を言っているんだろう、という顔で剣菱の顔を凝視するだけで終わってしまった。 言葉を返しそびれている間、天国の思考は決して停止していたわけではない。 ここで子津っちゅならどんなツッコミ入れたかな、俺もツッコミ覚えた方がいいかな、いっそ子津っちゅに弟子入りしようかな、とおおよそ今に関係ないことに思いを馳せていたのである。 人はそれを、現実逃避と呼ぶのだろうが。 逃避しながらも視線だけは剣菱に注がれたままで。 それを受け止めながら、剣菱はにっこり笑った。 「海。行こうよ。綺麗で穏やかな海がいいな」 笑いながら、再度繰り返す。 優しげな笑顔を見せながらも魚雷もかくやな一撃を放ってくれる剣菱に、天国は目眩を覚えて額を押さえた。 え、何。 この人、何言っちゃってんの? 俺ってば耳おかしくなっちゃったんかなあ。 おっかしいな、まだそんな年じゃねーはずなんだけど…… 海に行きたい、なんてさ。 幻聴だよ、なあ? だってここ病院だし。 病院のベッドにいる人が、まさかそんなこと言い出すハズ…… 「そうすると日本海側はパスだね。東京湾もイヤだし、やっぱりここは沖縄かな」 にこにこと、笑顔のまま剣菱はのたまう。 ……確かに東京湾は見た目きらきらではないかもしれないけどな。 海の幸は豊富なんだぜ…っ? 築地の賑わいを知らないんすか! と、言いかけたのを堪え、天国はぶるぶると首を振った。 とにかく今は、この人の暴走を止めてしまわなければ。 「な、いきなり何言い出してんすか、アンタはぁっ!!」 天国としては幻聴として、もしくは聞こえなかったフリで流す気満々だったのだが。 返事がないのに関わらず、剣菱は一人でどんどんと話を進め出していて。 このまま放置していては、場所も日程もさくさく一人で決めてしまいそうだと気付いた天国は、慌ててストップをかけた。 「何って、てんごくくんと海に行く計画。もう春だしさ、今から計画練れば夏か夏前には行けるよね」 「ちょちょちょ、タンマタンマ! 止まってくださいって!」 「え、何? てんごくくんて泳ぐの苦手?」 「や、泳ぎは別に人並ぐらいだと思うっすけど……」 「なんだ、じゃあ問題ないじゃないか。それじゃ、いつにしよっか? シーズン前ぐらいの方が空いてるかな、やっぱり」 人当たりの良さそうな笑みを浮かべながら、その実暴君のような強引さで話を進めようとする。 まあ実際の所、剣菱は大概に於いて人当たりはいいのだけれど、それは現時点で関係ないので置いておくとして。 天国は血の気が引く音を聴いた気がした。 ヤバイ、勝てない、流される! このまま上手く言い包められるのだけは、避けなければ! ここに凪さんか紅印さんが居りゃ、事態は好転したかもしんねーんだけど…… しかし、居ないものは仕方ない。 何とかかんとか、自分一人でこの暴君の暴走を止めなければならないのだ。 それがどれだけ難しいことか知っている天国は、非常に心許ない気分だった。 ラスボスにひのきの棒で挑みます、な気分だ。 大体最初は行かないか、という誘いから始まった筈だったのに、あれよあれよという間に日程の話に進んでいるのは何故なのだろうか。 天国は勿論、剣菱が見た目通り柔和なだけではないのを知っている。 常に笑顔でいながらその実、彼の身の内に潜む意思はちょっとやそっとのことでは折れないほど強固だ。 だからこそ自分は彼をライバルだと思ったし、そう宣言したのだ。 野球の技術面では勿論の事、その信念にも確固たるものを感じたから。 「あの、剣菱さん?」 「何、てんごくくん」 「…っ、何で、いきなり海なんですか」 俺行かないですからね。…っていうか、そもそもアンタを行かせられるワケないでしょうが。 そう、言うつもりだった。 喉元まで込み上げていた言葉はしかし、実際声に出される事はなかった。 笑顔の剣菱に、その言葉を突きつける事ができなかったのだ。 あーもーちくしょー俺のバカー。 根性なし意気地なしー。 けど、だって。言えねえよ。 言えねえ、だろ。 病魔と闘いながらも、いつも穏やかに笑うその人に。 叩きつけるような言葉を浴びせることは、出来なかった。 病人、とは言っても腕力は天国と変わらない程あるわ、暇を見つけては筋トレをしているような一概に病人とは言えないような病人なのだけれど。 ああああ、と内心で悶える天国の頭にぽんぽんと剣菱の手のひらが触れる。 見透かされてそうだなあ、と暖かな手を受け容れながら思った。 子供扱いされているようなその行為なのだけれど、何故だか剣菱にそうされると反感は覚えない。 兄気質というか、人の気を抜くのが上手いというか。 「二人で、さ。どっか行きたいなあって」 「出かけたかったんですか? 最近は体調落ち着いてるみたいですし、先生に相談してみれば……」 「海、っていうのが重要なんだよ」 「はあ……」 何が重要なのか分からない。 出かけたいのなら近場でいいだろうと思う。 わざわざリスクを背負ってまで海に出向かなくとも、二人で出かけるくらいなら付き合うことに依存はない。 最初から出かけたい、とだけ言われれば天国だって拒否を考えることもなかった。 頷きながらも首を傾げていると、剣菱は呆れたように言った。 「てんごくくん、もうちょっとロマンチストになろうよ」 「ロマ…」 「セカチューとか今逢いとか、見なかった?」 「……一応まあ、見ましたけどね。テレビでやったのは」 何やら頭痛がしてきた気がして、天国は再度額を押さえる。 大体において常識人、と言っても差し支えない兼備しなのだが、時折無茶苦茶になることがある。 そのほとんどが常識よりも自分のやりたいことに天秤が傾いてしまった時だ。 今も、恐らくそうなのだろう。 常識の範疇を飛び越えて、彼は海へ行きたいのだ。 ……自分と。 海へ行きたい、なんて。 二人で出かけたい、なんて。 それはつまり、どういうことなのだろう。 悩んだ、迷った、葛藤した。 それはもうこの短い時間の内にこれほどまで考え込むことが出来るのだろうかという限界値に挑戦できる勢いで。 しかしながら、考えずとも結果はわかっていたのだ。 誘われた理由。 それを断れない自分。 何だかんだ言いながらも時間を割いて見舞いに訪れる、その行動の底に在る感情。 彼の顔色がよくないと胸の内をかき乱されるような気持ちになるし、元気そうにしていると何故だか酷く安堵し嬉しくなる。 それは、多分。 「剣菱さん」 「……うん、分かってるよ。言ってみただけだから。困らせるつもりじゃなかったんだよ、ごめんねてんごくくん」 「え、ちょ、喋らせてくださいよ俺にも!」 言いたいこと、言おうと決心したことを一言も口にしないうちに頭を下げられてしまった。 強引なくせに引くのも早いな、と突っ込んで天国は唇を噛んだ。 どうしてこの人はこう一人で突っ走ってしまうのか。 いつも、いつもそうだ。 一人で決めて、一人で進んでしまう。 そう考えたら段々腹が立ってきた。 確かに自分は、周囲を振り回しているのだろう。 その自覚はある。 だから、自分が振り回されることに対して腹を立てるのは、天国が振り回している人たちからすれば理不尽かもしれない。 でも、苛立つものは苛立つのだ。 「あーもう! アンタはいっつもいっつもそうやって一人でさ!」 「え、てんごくくん?」 「俺にも考えさせろ、悩ませろつってんの! 一人で考えて結論出して、終わらせんな!」 天国の反撃が予想外だったのか、剣菱は目を丸くしている。 頭に血が昇った勢いそのままに、天国は剣菱の胸元を引っ掴んだ。 苛立ちに駆られながら、それでも頭のどこかは冷静だ。 病人に対して声を荒げるなんて何やってんだよ、とか。 どうしてこんな乱暴なんだ俺、とか。 思うのだけれど、止まらない。 天国は剣菱を引き寄せ、自分も体を剣菱の方へ倒した。 そのまま、噛みつくように唇を重ねる。 体温が重なったのはほんの一瞬だ。 掠めるように口付けて、天国はそのままずるずるとくずれるように剣菱の肩に頭を乗せた。 剣菱の服を掴んだままの手が、小さく震えている。 「一人じゃ持てない荷物でも、二人なら持てたりすんだろ? 俺じゃ、ダメなのか? なあ、俺にも頼って欲しいって思うのは、俺のワガママなのかよ……?」 一緒にいたいなんて、言うなら。 思ってくれるなら。 一人で結論付ける前に、聞いてほしい。 二人で悩むことの楽しさだって、きっとあると思うから。 一人で考えているだけでは分からなかったことが、答えが、見つかることだってきっとあると、そう思うから。 知っている。 剣菱が強いことも。 誰かの支えがなければ立てないような、そんな人種ではないことぐらい、天国はとうに理解している。 けれど。 弱みを曝け出すのが間違いだとは、思えないのだ。どうしても。 隣りにいる誰かに少しもたれて、休んでみることがあっても、きっとそれは人間として当たり前のことだと思うのだ。 そして、出来ることなら。 自分がそういう存在になりたいと思う。 そう思っていたのだと、今初めて気付いた。 他でもない自身が口にした言葉で。 けれどそれより何より、言っておかなければならないのは。 泣きそうになるのをぐっと堪えて、顔を上げた。 そのまま、両手でぱし、と音がするほどの勢いで剣菱の頬を包む。 どちらかと言うと叩いた、にも近かったけれど。 「痛いよ、てんごくくん」 「痛くしたんだから、当たり前だろ」 「ひどいなあ。優しくしてよ」 「そうやって笑って誤魔化してはぐらかして…冗談にばっかしてないで、言えよ。言えばいいだろ。一緒にいたいんだって。そしたら、そしたら俺は……」 頷くのに。 そう続くはずだった言葉は、途切れた。 剣菱の手が天国を引き寄せたのに邪魔をされて。 腕を掴む力は痛いほど。けれどそれに顔を顰める暇もなく、天国は剣菱の腕の中に収まっていた。 「言ってもいいって、言うのか?」 「……んで、いちいち聞くんだよ」 強引な時はそれこそ何もかもお構いなしと言った風に突き進むくせに。 こんな時ばかり伺いを立てるのは、何だかズルイ気がする。 だけど、多分。 ズルイのは自分も一緒なのだと気付いていた。 何だか気まずくて、返す言葉がぶっきらぼうになる。 剣菱の手が、天国の頭の後ろをくしゃりと撫でた。 「言ったら、もう逃がせないからさ」 「手放す気で欲しがるような奴に頷くほど、お人よしじゃねえよ俺」 誰かを欲しがるなら、命をかける覚悟で挑まなければ。 それは最低限の礼儀だろうと思うし、それだけの覚悟と想いがないのなら嘘なんだろうと常々考えていた。 命をかける、なんて。彼相手に洒落にならない言葉なのかもしれないけれど。 「俺は君が好きだよ。だから、一緒にいたい。一秒でも長く」 「……俺の時間を、出来る限りアンタにやるよ。代わりにアンタの時間は俺が貰う」 好きだ、その言葉はするりと天国の心に入り込んだ。 優しい響きの言葉だ。 暖かくて、そのくせエゴに塗れてもいて。 だけど、だからこそまっすぐに思える。 恋はエゴとエゴのシーソーゲーム。 なんて、有名アーティストの歌の歌詞にあったっけ。 そんなことを思って、天国はふっと笑った。 全てを許容するような。 それでいてどこか挑戦的な、男っぽい笑い方で。 天国を抱きしめていた剣菱にはその表情は見えなかったけれど。 言葉の調子から、天国がどんな顔でその言葉を口にしたかは想像できた。 「カッコイイね、てんごくくんは」 「今更気付いたんすか、俺はいつでも男前ですよ」 「うん。知ってたよ」 凪にその名前を聞いた時から。 多分、知っていた。 抱き寄せ、寄り添う体は暖かい。 てんごく。 その名前は剣菱にとって遠い世界の御伽噺ではなかった。 体の中が熱く燃えるようになるのを感じながら、何度となく咳き込みながら、いつもいつもその場所が身近に在るのを感じていた。 感じざるをえなかった。 だけど、あの日から。 凪が嬉しそうな顔で彼の名を口にした、あの時から。 天国という言葉の持つ意味が、剣菱の中で変わり始めたのだ。 出会って、もっと。 話をするようになって、距離が縮まって、もっとずっと。 天国は知らないだろう。 自分に与えた、絶大な影響を。 きっと自分だけではない、天国の周囲を取り巻く多くの人間が多かれ少なかれ彼に何かしら影響を受けているのだろうと思う。 天国に惹かれて、テンゴクという言葉の意味が変わった。 その言葉は、恐れ、忌むべき響きではなくなった。 死を恐れなくなったわけではない。 生きたい、と。以前よりずっと強く願うようになった。 出来ることなら。 天国の隣りで生きたい、と。 「あの、剣菱さん?」 「んー、何?」 暫く経ってから、抱きしめられた腕の中でもぞもぞと天国が身じろぐ。 剣菱が腕の力を緩めると、天国が顔を上げてまっすぐに剣菱の目を見据えた。 強い光。 そこに宿る、強固な意思を肌で感じ取れるかのような。 その目が好きだ。 そう、ハッキリ思う。 勿論好きなのはそれだけではないけれど。 それでも、この目を向けられるのは嬉しい。 感じるままに剣菱が微笑えば、天国もどこか照れたようにへらりと笑った。 「旅行のこと、先生に相談してみませんか?」 天国は、諦めない。 どれだけ困難で、先の見えない道でも。 我武者羅に、懸命に、何とかしようともがく。 往生際悪くあがいて、顔を上げ続けて。 そうして、いつしか。 「……うん、そうだね。てんごくくんと旅行が出来るとなれば、病気も完治しちゃいそうな気がするし」 「ま、俺は奇跡を起こす男ですからね!」 冗談めかして笑う天国に、剣菱は胸の内でそっと呟いた。 知らないかもしれないけど、君は確かに奇跡を起こしてきてるんだよ。 もう、何度も何度も。 どうしようもならないように思えることにだって、呆れるくらいしがみつき続けて、いつか。 奇跡を、起こす。 天国に奇跡を見た、もらった人間は一体どれくらいいるのだろう。 剣菱の知っている人間も、知らない人間も、きっと大勢だ。 「少し悔しいかな」 「へ? 何か言いました?」 「気合い、入れないとなって」 「そっすねー。男は有言実行! じゃねーと」 俺今度旅行のパンフとか貰ってきますね、などと口にしている天国は楽しそうだ。 何だかんだで活動的な天国は、旅行というだけで既に楽しくなってきているのだろう。 屈託のない笑顔に、完全降伏してしまいそうだと思った。 苦労を知らない人間はいない。 聞き出したことはないけれど、天国だって過去に一つや二つ、昏いものを背負っていたりするのだろう。 影を背負わずに生きていられる人間など、滅多なことでは存在しないから。 それでも。 天国は、笑うのだ。 楽しげに、嬉しそうに。 手に入れた、なんて思いを告げた今でさえ思ってはいない。 彼に惹かれる人間が自分だけではないことは、容易に想像がついていたから。 むしろ、ここからこそが勝負の本番。 「うん、負ける気はないよ」 誰にも、何にもね。 そう言った剣菱の真意を知らない天国は。 ただ嬉しそうに頷き、笑った。 剣菱が何より好きだと思っている、その笑顔で。 END |
剣猿でした。 天国総モテっぽい描写は、単なる趣味です。 だってあのこはおひさまだもーん(笑) UPDATE 2005/12/14(水) |