11.両手を広げて空に祈りを




 あ、と思った時には遅かった。
 バランスを崩し、倒れる体。
 スローモーションで傾いていく世界。
 上がっていた足から、草履がするりと抜けていくのが分かった。
 後で拾わなきゃな、と。
 どこか冷静に、そう思った。





 知らない。
 知らない、知らない。
 こんな感情、知らない。


 全てを振り切るように、走って走って走って。
 忙しない呼吸を繰り返す喉が、痛々しい音をたてていたけれど、それすら切り捨てるようにただ走って。
 疲れきった足が何かにつまづき、派手に転んだことでようやく止まった。
 すぐには起き上がれずに、荒い息のままその場に転がっていた。
 幸いにも、と言うべきか行き先も考えずに走っていた所為で何時の間にか人通りの少ない路地に居たらしく。
 周囲に転んだ新八を見やるような人影は見当たらなかった。
 それをいい事に、新八はごろりと仰向けに寝転がる。

 古ぼけた屋根と屋根の隙間に、四角く切り取られた空。
 視界に広がるその色はただ優しく、いつもと変わらない。
 整いきらない息に任せて肩を上下させながら、狭い空を雲がゆっくり流れて行くのを眺めていた。
 呼吸は落ち着いてきたけれど、胸の内に訪れた嵐は消えてくれそうにもない。


 あの、一瞬。
 沸き上がってきた凶暴なまでの感情が何なのか、どう呼ぶべきものなのか、分からない。
 いや、分かるような気もするが、それは今まで生きてきた中で新八が抱いたことがない類のものだった。

 何もかもを飲み込むような強さ。それでいて甘やかに抗い難く、胸の内を支配した、しようとした。
 それに飲み込まれ、身を委ねてしまおうとした、その寸前で。
 我に返った。
 自分は何をしているのだ、と。
 慌てて、焦って、ただその場から逃げた。
 いや、逃げたのは多分、己の心からだ。

 だって、知らない。
 あんな感情。
 誰かを優しく、甘く想うこと。
 恋とか、愛とか。
 そういうもの、は。
 もっと優しくて暖かくて、穏やかなもの、だって。
 今までずっとそう思って、信じて、生きてきていた。
 それは今でも変わらないのに。


「……なんでだよ……」


 呟きは虚しく、ひどく空々しく聞こえた。
 一度でも知ってしまったことは、知らなかった前には戻らない。
 胸中を吹き荒れる嵐も、きっと収まることはない。
 それが良かったのか悪かったのか今の新八には分からなかった。

 ただ、あの一瞬に感じた恐怖は。
 知らない感情へ向けた、それだけではなく。
 激情にも似た想いに捕らわれ支配されそうになって、それでも。
 微かにだけれど、流されてもいい、と。
 そんなことを考えた己へ対して、だった。


 転んだ拍子にずれてしまった眼鏡を定位置に直し、ふっと息を吐く。
 何だかどっと疲れが襲ってきて、腕を投げ出した。
 図らずしも路地裏で大の字に寝転んで、空を見上げて。
 何やってんだかなあ、と虚しさと可笑しさが同時に込み上げてくる。

 頭の上、空の色はいつもと変わらない。
 なのに消しようもない嵐は、今だ新八の脈拍を乱す。
 痛みよりも途惑いが大きく、世界は変わってしまったのだと。
 哀しいような清々しいような、妙な気分でそう思った。

 不変などない。
 分かりすぎるほどに分かっていたはずだ。
 単調に見える日々でさえ、毎日が違うのだから。
 それでも、唐突に乱暴に引きずり出された気持ちに驚かないわけはない。
 逃げてしまったのは少し悪かったかな、とは思うけれど。

 永遠を求めるほど、夢見がちじゃない。
 だけど。
 慌ただしく、それでも楽しい暖かな今が、少しでも長く続けばいいと願うのは本当なのだ。
 ……祈りにも似た、強さで。

 視界を染め上げる空の青が、ひどく目にしみるような気がする。
 目の奥にじわりと、覚えのある熱を感じて。
 慌てて目を伏せた。
 閉じた瞼の奥、残った色はそれでも優しい。
 持て余す嵐と、変わらない色に翻弄されるまま。
 新八は少しだけ、泣いた。
 涙の理由も自分では分からないままに。


 それでも空は、今日も青い。



END



 

 

恋愛における負の感情を知って途惑い混乱する新八。
お相手はワザと限定しておりませんです。
なので読み手様の心の赴くままに★
青春してるなぁ〜、って思っていただければ幸い。


UPDATE 2006/5/8

 

 

 

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