私生活・まどろみの零


◆同名シリーズ物・主人公◆
※主人公名・水沢凌(みずさわしのぐ)

 揺れていた。
 自分と世界の境界線も曖昧なまま、漂うように。
 記憶になどあるはずもないけれど、生まれる前に母親の胎内で羊水に浮いている時はこんな気分だったのかもしれない。
 まどろみながら、どれだけの時間が過ぎた頃だろう。
 それはほんの数秒だったのかもしれないし、数ヶ月、或いは数十年だったのかもしれない。流動する意識の中には時間という概念が存在しなかった為、正確な所は分からなかった。
 何かを手に入れるというのは何かを失うことだ、なんて。誰が口にした言葉だったのか。
 必然か偶然かは知る由もない。
 理解しようとしまいと、それは容赦なく訪れる。望みも願いも容赦なく蹴散らして、現実は目の前に現れた。

 心地よい眠りは、唐突に破られた。
 最初は、雑音だった。
 ノイズ混じりのラジオのような、不規則な音。何を言っているのか聞き取ろうと耳を澄ませるうちに、不明瞭なそれが音楽なのだと気付いた。
 聴覚に覚醒してからの変化は急激だった。
 輪郭を取り戻すように、自分の形が作られていく。四肢の感触、視覚、嗅覚、触覚。
 ゆらりゆらり、感じる振動はまどろみながら感じていたものとは明らかに違う。
 耳元で響く音よりも更に遠くから聞こえて来る、声。アナウンスだ。駅名を告げている。

 そうだ、この揺れは電車だ。
 電車に乗っているらしい。
 懐かしい感覚。けれど、何故。どうやって。
 開かれている目には、車内も窓の外の風景もしっかりと写っていた。珍しくもない景色。
 だがそれこそが凌を混乱させる何よりのものだった。
 そのありふれた景色こそが、凌の失った全てだからだ。いや、逆かもしれない。どこにでもある日常の方が、凌を見失ってしまったとも言えるのかもしれない。
 だがどちらの言葉を使っても、今の凌には同じことだった。
 凌にとって有り得るはずのない事が、この身に起きている。
 そもそもが何かが起こるという体を失ったはずなのに。

 何が起こったのか理解出来ずに呆然としている間に、電車は速度を緩め駅に止まった。
 条件反射のように足が動き、電車を降りていた。自然にホームを歩き、階段へ向かう。改札を出た所で、ぴたりと足を止め。
 愕然とした。
 降り立った駅は、巌戸台。
 無意識のうちに取り出して手にしていたのは、寮への案内図が描かれた紙。
 嘘だ、と言いたいのに声が出なかった。痛いほどに喉が乾きひりついていた。
 これは、この場所は、過ぎ去ってしまったはずの。
 手が、細かく震えていた。

 これがあの日なら、過去のあの日と同じなら、もうすぐ――

 考えた瞬間、イヤホンから流れていた音楽がふつりと途切れた。
 同時に街灯も電光掲示板も音もなく消え、辺りの様子が一変する。
 それまで人が居た場所には、巨大なオブジェのような棺が現れる。象徴化、と呼んでいた現象だ。
 どこかグロテスクな、廃墟のような様相を呈した街。
 忘れようはずがない。凌は今、影時間の中にいた。
 だけどこれは、終わったはずだ。
 何故自分は、ここに立っているのか。
 分からないまま、凌はゆっくりと周囲を見回す。
 今は影時間だ。当然のように動くものはなかった。

 どうして、と。
 唇だけ、そう動かした。
 終わったはずの時間に、終わったはずの己が立っていることが。
 ただ、理解しがたかった。



END

 


私的逆行話シリーズ、「私生活」の起点。
…起点っつってもこの続きを考えてるわけではないですが。
仕事中暇だった時にちまちまメモしてたなんて言えないっすわ〜(笑)
そして携帯打ちなので指痛い…
2008/6/24

(UPDATE/2009.4.4)

 

 

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