空っぽだ。
 泣けもしない自身に感じたのは、言いようもない空虚さだった。
 荒垣が死んでバタついていた寮内も、何だかんだで元の空気に戻りつつあった。
 時折どうしようもなく荒垣がいない事に気付かされ何とも言えない空気が流れる事はあれど、それも日に日に少なくなっている。
 とは言えそれは、忘れるという事ではなく。
 とかく陳腐な言いざまにしかならないのがもどかしくはあるが、荒垣の死を乗り越え、受け入れ、先へ進むだけの整理がついた、とでも言うべきだろう。
 心の傷を癒すのは時間、なんてありきたりな言葉がちらりと脳裏を過ってみたりする。

 凌は、ただ皆の様子を傍観するに努めていた。
 ざわつき澱んだ空気も、それが少しずつ元に戻り行く様も、ただ見ていた。
 普段から口数は少ないほうだから、皆から多少外れていても咎められたり注意を向けられたりはしなかった。
 皆が少しずつ立ち直り、前を向く様を見ながら、胸の内に渦巻く虚しさとも寂寥ともつかぬ気持ちを眺めていた。
 身の内に宿る激情は、誰に言ってもどうしようもないのだと知っていたから。
 何を言うでもなく、何をするでもなく身の内に抱え込むことは、凌にとっては苦痛でも珍しくもないことだった。

 それでも、時折。
 どうしようもなく疼く胸を、持て余すことがある。
 そんな風に眠れない夜に、影時間というものは酷な時間だ。ただ長く、緩慢に過ぎるのを待つだけしか出来ない。
 何をするでも、出来るでもなく自室のベッドに腰掛けていた凌は一つ息を吐くと、足音を忍ばせ部屋を出た。

 向かった先は荒垣の部屋だ。
 中途入寮の彼の自室には、必要最低限の調度品しか置かれていない。荒垣という人間を感じさせる、所謂「個性」というものが殆どないのだ。
 だが、凌はこの部屋が好きだった。
 飾り気のない部屋であるはずなのに、自分の部屋とは明らかにどこか違う。
 それがどこなのか、具体的に挙げろと言われれば返答に窮するのだろうけれど。

 より正確に言うなら、この部屋の主が好きだったから、この生活感のない部屋も好きだった。そういう事かもしれない。
 自惚れでなければ、あのひとと自分はどこかがよく似ていたのだと思う。
 無機質な部屋もそうだし、必要以上に口を開かない所も、それでいて人の様子を見ているところも。
 それでも、彼と自分とでは決定的に違う部分がある。
 荒垣が口を閉ざしがちなのは、彼の真面目で優しい性格から生じた罪悪感に因るものだ。
 だが凌が無口なのは、人にも自身にもあまり興味がないから、で。
 その差は、多分大きい。

「……荒垣さん」

 名前を呼んで、ベッドに座る。
 それから、ころりと寝転がった。
 ゆっくりと手を持ち上げ、天井に翳す。別に意味のない行動だ。
 掲げた指の隙間に見えるのは、本来在るはずのない時間特有の形容しがたい空気と、行き場のなくなった凌の感情だった。
 伝えるつもりなど到底なかった想いは、荒垣の死という思いもかけない結末によって皮肉にも確りと形作られてしまった。様々なものが欠けた、歪んだ形で。

 あの日いらい時折訪れる、眠れない夜。
 そんな時に考えるのは、思い出すのは、意識を支配するのは、決まって荒垣の事ばかりだ。
 過ごした時間が短かった荒垣との記憶など数える程しかないというのに、凌の脳は壊れた映写機か何かのように何度も何度もそれらを反芻する。
 頭のてっぺんから爪先まで、それこそ天井に向かい伸ばしている指の先にまで全て、荒垣の記憶でいっぱいになる。
 暫くしてから、ぱたりと手を投げ出した。

「……ごめん、なさい」

 呟くのは、謝罪の言葉。
 ごめんなさい、ゆるしてください、ごめんなさいごめんなさい。
 気がふれてしまったかのように、何度も何度も繰り返す。
 吐き捨てるように、ただ誰にともなく赦しを乞う。
 悲鳴をあげる心を宥める方法を、これしか知らなかったから。
 いっそあの時に大声をあげて泣けていれば、何か違っていたのだろうか。思うけれど、今さらどうしようもない。

 泣けない自分。いなくなった人。繰り返す思い出。歪んだ想い。
 早く時間が流れればいい。早く早く、すべてを押し流してほしい。
 この孤独を癒す術が、それしかないというのなら。

「……らがき、さん……ッ」

 自身の体をかき抱くように小さくなりながら、彼の人を呼ぶ。流せない涙の代わりだとでも言うように、何度も何度も。
 眠りたい、ただそれだけなのに。
 未だ眠りは遠い。
 呼ぶ声だけが時折掠れながら、ただ夜に溶けていった。



END


 

 



ムックの「夜」にインスパイア。


UPDATE/2010.2.21

 

 

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