月明かりと打ち明け話 (2009/6/8〜9) 咳が落ち着いたらしい凌が、ふと視線を彷徨わせる。 荒垣はその目線を追い、床にミネラルウォーターのペットボトルが転がっているのを見つけた。 おそらく咳が出始めた頃に取ろうとし、落としたのだろう。 その音が、荒垣の耳に届いた何かが落ちた音、だったらしい。 「飲めるか」 問えば、凌がこくりと頷く。 荒垣は立ち上がろうとした凌を制し、代わりにペットボトルを拾うと蓋を開けて渡した。 受け取った凌は小さく会釈し、ゆっくりと一口、二口と飲んだ。 喉が潤い落ち着いたのか、小さく息を吐く。それに伴い一瞬目を伏せた凌が意を決したように眼を合わせて来たのは、直ぐのことだった。 「……ご迷惑、おかけしました」 「いや。もう平気か?」 「落ち着きましたし、咳も止まったみたいなので、おそらくは」 「話は」 「……出来ます」 頷く。目は、逸らされなかった。 潔い態度だ、そう思う。 何を問われても逃げない、向き合う、そんな覚悟をしているかのような表情だった。 それは荒垣にはない類の強さだ。 自嘲気味に考えて、今考えるべきはそこじゃない、と思考を逸らした。 そういえば、とふと気付く。 影時間がいつの間にか明けていた。 「先月の満月の後も、少し調子悪かったんです」 「今みたいにか」 「いえ。先月は頭痛だけだったから、疲れが出たんだろうってくらいにしか思ってなくて」 「したら、今月も調子崩した、って事か」 困ったように眉を寄せながら、凌が頷く。 荒垣はそれとなく凌の全身を見やっていた。 だが、どこか怪我をしている様子はない。 凌自身にも不調の原因に思い当たるような事柄はないらしく、ただ首を傾げていた。 「持病とかは、ないんだな?」 「はい。大きな病気とかも、したことないですし」 「さっきの咳なんかは、喘息みてえにも見えたが……」 「あんな風になったの、初めてで。自分でもどうしていいか分からなくて」 対処法が分からず、結局は動かず座り込んでいたのだと言う。 荒垣自身も持病を患っているわけではないから、詳しい事は分からない。 だが、頭痛から始まり体温の低下と咳、しかもそれが満月の夜だけ、という症例は恐らく単なる病気や発作ではないだろうとは予測がついた。 向き合う凌の顔色は、先ほどに比べるとずっと血色の良いものになっていた。 先ほど凌に触れた時の冷たさが、未だ手のひらに残っているような気がする。 「あの、荒垣さん」 荒垣が何となく自身の手に視線を落としていると、凌が少し躊躇うような声音で呼んでくる。 そんな声を聞くのは珍しい気がして、目線で続きを促した。 「この事、他の人には黙っててもらえませんか」 「……そりゃ、別に構わねえが」 「原因が分かりそうにないことなら、わざわざ心配だけをかける必要もないと思うので」 「お前は、それでいいのか」 誰にも告げず、知られず、訳も分からずに身の内を苛む苦しみに耐え続けることを、何故選ぼうとするのだろうか。 確かに、誰かに話した所で痛みが軽減されるわけではないかもしれない。 凌がそう望むのなら、ただ頷いておけばいい。 だが荒垣は、この部屋に踏み込んだ際の光景が脳裏をちらつき思わず確かめるように聞いていた。 踏み込まない、そう決めていた事も忘れて。 暗い部屋で体を丸めていた、その背は。まるで世界の端に取り残され、途方に暮れる迷子のようだった。 どこへも行けず、受けた傷にも痛みにも気付かず、ただ座り込むことしか出来ないような。 いっそ見ている方が痛々しさを覚えるような。 そんな風に、見えたのだ。 荒垣の問いに、凌は目を細める。 笑ったのだと確かに分かるのに、それがどこか荒垣を見分するようにも見えた。 凌が小さく、首を振る。何かを諦めたような、振り切るような所作だった。 「あまり、騒がれたくないだけです」 「……分かった、黙っとく」 「ありがとうございます。じゃあ」 言った凌が、荒垣の前に小指を出してくる。 こんな子供っぽいこともするのか、と意外に思いながら、その指に自身の小指を絡めた。 細い、指だった。 「共犯、ですよ」 ふ、と笑いながら告げられる。 指きりなんて子供っぽい動作をしながら、その言葉と笑みは、一瞬どきりとするような雰囲気を漂わせていた。 共犯、とは言い得て妙な言葉だった。 他の人間より、一歩近づくことを許されたような。 たとえばそれが錯覚でしかなくとも、荒垣には少なからず凌の内に踏み込むきっかけが視えたような、与えられたような、そんな気がしていた。 窓の外で煌めく月は、影時間が明けた今異様な大きさでこそないが、相変わらず円く。 内緒話をも見透かすような光に、荒垣は少し、苦笑した。 |
知ってしまった人。知られてしまった人。 UPDATE/2009.11.29 |