つめたいて (2009/6/8) ごとん、と。 何かが落ちるような音を聞いたのは、荒垣が自室のドアの前に辿り着いたその時だった。 ドアノブに伸ばしかけていた手を止め、音のした方……廊下の奥へ視線を向ける。 より正確に言うならば、一番奥の部屋のドアへ、だ。 音が聞こえてきたのは、凌の部屋からだった。 これが他の誰かの部屋からだったら、気にしなかっただろう。 まだ起きてるのか、と思ったぐらいで自室に戻ったはずだ。 だが、何故だろうか。荒垣には、その音がひどく気になった。 音源が凌の部屋から、というだけが理由ではない。ただ、何か分からないけれど胸の内にざわついたものがある。 理由も分からないのに、先程聞いた音が耳から離れない。 暫く逡巡していた荒垣だったが、結局凌の部屋へと足を向けた。 ドアの前に立つが、特に物音は聞こえてこない。 先の音は何かが落ちるか倒れるかしただけなのだろうか。 凌は寝付きが良かった事を思い出し、ノックしようと上げた手が止まりかける。 一度だけ、と。 一度だけノックをして、反応がなければ部屋に戻ろう。 そう決めて、コン、と扉を叩いた。 「……水沢、起きてんのか」 声をかけはしたものの、それは時間帯を考慮してひどく小さなものだった。 部屋の中に届いているかいないか、それすらも微妙なほどの。 返事はない。 気鬱だったか、そう思いかけた瞬間だった。 部屋の中から、応えの代わりに咳込む音がした。 「っおい、水沢?」 激しい音ではない。けれど二度三度、咳が続いて。 荒垣は入るぞと前置き、ドアを開けた。 踏み込んだ部屋の中、凌はベッドの脇に座り込んでいた。 背中を丸め、口と喉を押さえている。丸めた背が引き攣るように揺れる度に、控えめな咳がその喉から洩れた。 「調子悪いのか」 言いながら凌の横に座り込み、その背をさすってやる。 触れた瞬間驚いたように震えたが、すぐに力は抜けた。 咳に邪魔をされ言葉が出ないのだろう、向けられた目がどうして、と問うような色を浮かべている。 「後でな。それより大丈夫か。吐きそうなのか」 聞けば、ふるりと首を振る。 喘息か何かかとも思ったが、凌が喘息を患っているとは聞き及んでいない。 今日は満月だった。山岸救出の為にいつもと違うやり方でタルタロスに侵入し、その後で大型シャドウとの戦闘もこなしていた。 平気そうな顔をしていたが、やはり負荷があったのか。 表情も言動も変化に乏しい凌が、けれどその実繊細な心根の持ち主であることを、荒垣は知っていた。 「あまり強く押さえるな」 苦しいのか、凌の喉を押さえる指が肌に食い込んでいた。 見兼ねて手を重ねる。瞬間、ぎくりと心臓が跳ねた。 触れた凌の手は、明らかに冷えていた。 荒垣の体温は平均的だ。だがそれよりも明らかに凌の体温は低く、異様なほどに冷たい。 冬ならばまだしも初夏の今、ここまで冷えることがあるのだろうか。 凌が指の力を緩めたのを見て、荒垣はそっと喉を押さえていた手を外させた。 その冷たさのせいか、それとも苦しいのか、凌の手は小さく震えている。 気付けば背中も、咳の所為だけではなく震えていた。 遣る瀬無い、誰にともなくそう思った。 誰に知られるともなくシャドウと相対している結果が、これなのか、と。 世界の片隅に追いやられたような部屋で、たった一人震えることが。苦しいとも言わず耐えていることが。 咳は段々と落ち着いてきていたが、震えは止まらない。 荒垣は凌の冷えた手を、強く握った。それしか出来ないことが、どうしようもなくもどかしかった。 |
ただ、手を握る。 UPDATE/2009.11.27 |