Silent hug 抱きしめて最初に思ったのは、薄いな、ということだった。 自分と同性なのだから柔らかさがないのは予想していた。 けれど、それ以上に凌の体は薄かった。 自分より小さいからそう感じるのかとも思ったが、それだけでもない気がする。 幼子のように自分にしがみついているその腕は、どこか脆く儚いもののように見えた。 「……寒いのか、お前」 「いいえ?」 思わず聞いていたのは、凌の体温が低く感じられたからだ。 腕の中の凌が顔を上げ、首を傾げる。 不思議そうな表情は、純粋なようにも全てに達観しているようにも見えた。 相反するものが同時に存在しているように思えたのは、今まで一度や二度じゃない。 知れば知るほど、あまり多くを語らない凌の存在は不可思議で、かつ強烈な引力を持っていた。 「俺、平熱低いんです」 「なら、いいけどよ」 「はい」 頷いた凌は、また荒垣の胸元に顔を埋めてしまった。 顔が見えなくなる。そうしていなくても、彼は元々その長く伸ばした前髪で表情を無防備に晒すことはしていないのだけれど。 顔を隠している、というわけではないのだろう。人づきあいが苦になるというタイプではないらしいのは、その交友関係の広さからも窺い知れる。 凌が無口ながらも様々な人物と交流があることは知っていた。 けれど、それでも。 踏み込まれたくない場所が、あるのだ。 そんなものは、きっと誰にでもある。 自身の心を守るためか、相手を不用意に傷つけないためか、その差異はあれど。 凌は多くを語らない。 けれど人の機微に鈍感なわけでは、決してない。 むしろ、聡い方だろう。歩み寄りながらも、踏み入れて欲しくない場所をちゃんと弁えている。 立ち入らない代わりに、自身の深くにも立ち入らせない。 それが凌の基本的な性格だろうと思っていたし、あながち間違いというわけでもないのだろう。 その、凌が。 幼子がそうするように、自分に甘えている。 それは荒垣の胸の内に、どこか愉悦感とも絶望とも言い知れぬ感情を呼び起こした。 「……俺を好き好んで選ぼうなんて、物好きだな」 凌の引いている線の内側に踏み込んだ、他の誰もが為し得ていないそれに対する愉悦。 そのくせして、自分はきっと彼を置いて行くのだ。そんな自身に対する、絶望。 いや絶望なんて生ぬるいものじゃない、いっそこれは憎悪にも近い。 糸を断ち切るのが何であるか、誰であるか、それは未だ分からない、けれど。 「俺を拒まないひとがいるのも、驚きました」 密着していた体を少し離して、凌が言う。 見上げてくる瞳は、初めて目にした時から変わらない。 深い深い、深海のような夜の闇のような、底の知れない色だ。 けれどそうでいながら、何もかもを包み込むような雰囲気をも漂わせている。 この瞳に魅入られたのが自分だけだとは、到底思えない。 現に彼の交友関係は、自分とは比べ物にならない程に広いのだ。 ネットワークの広さがそのままイコールその人物の魅力に繋がるとは思わないが、全く興味のない人間と関わり合いになろうとする人間もそうそういないだろう。 「お前は、んなことねーだろ」 「じゃあ、荒垣さんもそんな事ないでしょう」 ふ、と笑いながら凌が言う。 凌の笑い方は、いつも静かだ。 殆ど年の変わらない荒垣が言う台詞ではないだろうが、高校生と言えばもっと大口開けてバカみたいに笑っているものではないだろうか。 ……とは言え、荒垣自身もそういう風に笑うタイプではないからあまり人のことは言えないのだが。 「荒垣さんは、荒垣さんが思うよりずっと多くのひとに想われてますから」 「……そりゃ、こっちのセリフだ」 呆れ呟き、凌の首の後ろに手をやると、引き寄せた。凌は抵抗なく、そのまま荒垣の胸元に頭を預けてくる。 胸元にもたれる頭に、とん、と顎を当てた。 結局、人は自身のことほど一番よく見えていないものなのかもしれない。 誰よりも近くにありながら、決して目にすることは出来ないから。 幸せだとか、不幸せだとか。 そんな事考えもしなかったし、そんな権利などあるわけない、と。 あの日からずっと、そう思ってきた。 けれど。 「悪くねえんだろうな、きっと」 お前みたいなのに、想われるのなら。 わざと言葉の全てを口には出さずに、荒垣はただ凌を抱きしめたままでいた。 凌も聞き返してくるような事はせずに。 荒垣は自身の胸の内がひどく穏やかな事に気づいていた。 静かだ、と。ただそう思う。 それは真夜中過ぎという時間帯がもたらす静寂だけが原因ではなく。 遠くで、サイレンの音がする。 どこかで事故でもあったのだろうか。 けれど荒垣には、その音が自身への警告のようにも感じられた。 静かな抱擁に、穏やかな時間に、暖かな感情に、溺れてしまうな。忘れるな、と。 心の奥底で、暗い感情が渦巻いている。 飲み込みきれないそれが、いつしか自分を呑みこむのだろう。 その時、彼は一体どんな顔をするのだろうか。 本当は、分かっているのだ。 この手を享受してはいけないと。 自分が痛みを覚えるだけならまだいい。 だが、寄り添い合ってしまった今となっては、凌にも傷を付けてしまう。 それもきっと、そう遠くない未来で。 断罪の銃弾が撃ち込まれるのが先か、身の内に巣食う黒いものに呑まれるのが先か。 苦い思いを胸の奥に押し込み、荒垣は凌の背に回した腕に少しだけ、力を込めた。 抱きしめているのにどこか、縋りついているような気さえする。 情けない自分に、少し苦笑って。 「……参った、離せねえ」 呻くような呟きに、凌が小さく笑う声が耳を打った。 楽しげな響きが、ただ愛しい。 夜が明けなければ、いい。 密やかに胸の内で思ったのは、きっとどちらもが。 END |
触れる体温で伝わるものも、確かにある。 優しくて優しくて、愛しいきみたちへ。 奇跡などという言葉はどこか陳腐に過ぎるけれど。 ただ心からのありがとう、と、おつかれさま、を。 UPDATE/2010.3.5 |