見つけたものは光か否か (2009/5/11) 喧騒から離れ周囲に人の気配もなくなってから、荒垣はようやく歩みを止めた。 掴んでいた腕を放し、凌に向き直る。 「……連れてきといて、こんな事言うのはなんだが」 荒垣の言葉に、凌が首を傾げる。 そのどこか幼くも見える仕草は、つい先ほどまで複数の男相手に立ち回っていたのと同一人物だとは俄かに信じ難いものだった。 「よく知らねー奴に大人しくついてくんのは、危ねーぞ」 割って入った時こそ意識しなかったが、人目を避ける為歩いている最中に思い至った。 先日真田の病室で顔を合わせているとは言え、現時点では名前も知らない同士でしかないのだ、と。 気付かなかった荒垣のミスではあるのだが、碌に抵抗も見せずついてくる凌にも少なからず責任の一端はある。……と思う。 掴んだ腕を振り払うか、何か言ってくればもっと早くに今の状態の不自然さに気付いただろうに。 それでも、一度掴んでしまった腕を離すことも出来ずに結局ここまで来てしまった。 多分それすら、自身へのくだらない言い逃れでしかないと、気付いていながら。 「……先月、神社で、会いましたよね」 「……ああ」 頷きながらそういやそんな事もあったな、と思い出す。どうにも混乱しているらしい。 あんなに印象深い出来事はそうないというのに、すっかり記憶から抜け落ちていた。 顔にも雰囲気にも出さずに、胸の内でしっかりしろ、と己を叱咤する。 そうだ、名乗り合いこそしなかったものの、あの時は長めに言葉を交わしていた。 あまつ寮の手前まで送って行ったのだ、凌がそれを忘れているはずはない。 第一、先日の病院ですれ違った時にも彼はこちらを認識していた。 音もなく動いた唇に、自分を認識してくれた事に目眩がしそうな心地になったのを、何故忘れていられたのか。 心なしか脈が速くなっていた。 凌に忘れられているのを望んでいたわけでは決してない。 だが、荒垣の通ってきた「一度目の2009年」との差異に途惑いを覚えるのもまた、事実なのだ。 今もまた、そう。 荒垣は「以前の5月11日」にこの場所で凌と会ったような記憶はない。 だからこそ混乱した。 落ち着け、と内心で呟く。 「あと、病院でも。あの時はすれ違っただけでしたが」 「やっぱり、気付いてたのか」 「俺、声にはしなかったですが、挨拶したでしょう?」 「……そうだったな」 顔を合わせたのは、今回で三度目になる。 一度目は長鳴神社で。 二度目は真田に呼び出され赴いた病院、その一室で。 そして、今。 三度の内二度が、荒垣の知る2009年にはなかったものだった。 荒垣自身は以前と同じように過ごしているにも関わらず、だ。 それ以外にも、荒垣が知らない、気付かないだけで変わっている箇所は多々あるのだろう。 大きな事から小さな事まで、きっと数えきれない程に。 こうなってくると、世間と意図的に関わらないように生きていた事は逆に良かったのかもしれないとさえ思う。 いちいち違いに気付き、意識していたのでは精神的な疲弊も酷かっただろうに違いない。 今でさえ、こうして会話をしている凌が荒垣の名も知らないままだと考えると、苛立ちにも寂しさにも似た感情が湧き上がってくるのだから。 「けど、それだけで着いてくるほど危機管理能力低くないです、俺」 思考に沈む荒垣に、凌が肩を竦めながら言う。 よく見ないと分からない程度に、その口元を緩めて。 今が本当にたった三度目の邂逅だったなら、凌の表情の変化には気付けなかっただろう。 「害意を持って近づいてくる人は、分かります。助けてくれようとしてる人も。助けてくれて、ありがとうございます。……荒垣さん」 軽く会釈した凌が、荒垣を呼んだ。 名乗っていないはずの名前。 それを口にされた事への驚きより、何より。 凌に呼びかけられた、それだけの事でひどく打ち震えた、自身の心に動揺した。 「……あの、荒垣さんじゃ、なかったですか?」 黙したままの荒垣に、凌が不安そうに聞いてくる。 「いや、違ってねえよ。名乗ってねえのに言われたから、驚いただけだ」 「さっきの場所で、誰かが言ってるのが聞こえましたから」 「そうか」 受け答えは不自然ではないだろうか。 揺れる内面を抑え込みながら、そればかりが気に掛かる。 他愛もない会話だ。 だが思い起こせば、凌との会話は殆どがそうだった事に気付く。 どうでもいいような、とりとめもない言葉ばかりだった。明日になれば雑多な記憶に紛れて、消えてしまいそうな。 ……本当のことは、どれもこれも告げられなかったから。 「この辺は柄の悪い奴もバカな奴も多い。駅まで送ってやるから、もう来んじゃねーぞ」 「……俺、その駅で絡まれたんです」 「……そうなのか?」 「絡んできて、相手にする気もないから無視しながら歩いてたんですけど。今考えてみればこっちに追い込まれてたみたいですね」 少し眉を寄せ、不快そうに言う。 何を言われたのかは知らないが、大体想像がつく。 あの手の連中というのは、頭は回らないくせしてやたらと人の神経を逆撫でするのだけは上手いのだ。 単に憂さ晴らしがしたかったのか、それとも他に目的があったのか。 どちらにしろ彼らの目的は潰えたわけだが、あの場所に自分がいなければどうなっていたのかと思う。 凌の強さから言って簡単に負けてはいなかっただろうが、無傷で済んでいたとも思えない。 「……そりゃ、災難だったな」 当たり障りのない返しだが、それぐらいしかかける言葉が見つからなかった。 荒垣の言に、凌はふるりと首を振る。 「余所者だって絡まれるのは、どこ行っても変わらないですから」 凌は皆まで言わなかったが、何となく事情を察した。 喧嘩慣れしていると思ったのは、やはり間違いではなかったらしい。 その口ぶりから、今までにも似たような事があったのだろうと知る。 新たに知る一面に驚きはしたものの、嫌悪はない。 むしろ慣れる程に喧嘩に巻き込まれていたのだと言う、凌の今までが気になった。 誰かの過去を知りたいと、そう思うなんて久し振りのことだ。 「そうだ。俺、水沢凌っていいます」 「荒垣、真次郎だ」 今更ながらに名乗り合う。 凌の名を聞きながら、知ってるけどな、と胸中で呟いた。 三度目の邂逅。けれど決して再会ではない。 過去……いや、四月である今からすれば九月の事は未来になるのか、全くもってややこしいが、荒垣の知る「一度目」とは違うのだ、と。 これは新たな出会いなのだと、自身に言い聞かせる。 それでいて、彼との出会いを喜んでいる自分がいるのも、どこかで理解していた。 凌の腕を掴んでいた手を離せなかった、その理由。 予想外に暖かかったぬくもりに、心が震えた。 凌が自分を知らないのだと分かっていながら、まるで遠い異国で同郷の人間と出会ったかのような懐かしさにも似た感情を覚えていた。 基本凌が無口なことも相俟って、彼の手を引いて歩きながら「今」が「いつ」なのかが分からなくなりそうだった。 腹を括らなければいけないのだと、今更ながらに思った。 逃げて、目を逸らし続けて、それだけでは済まない場所まで来てしまったのだと。 自身がここにいる意味、二度目の2009年、自分が選ぶもの、進む道、そして。 向き合うべき、自分自身。その感情。 世界は既に回っている。 遅まきながら、それに思い至った。 |
途惑い悩み、それでも容赦なく時間は進む。 決意と覚悟に遅すぎた、はないと信じたい。 UPDATE/2009.10.14 |