【幸福喫茶3丁目 パロ】
(潤=ルーク、進藤=アッシュ、一郎=シンク)




 どれだけ気を遣っていても、細心の注意を払っていても。
 人間、失敗する時は失敗するものなのだ。

 つるり、とかするり、という効果音と共に、指の間からグラスが逃げた。
 有体に言えば落とした、のだが。
 あれだけ気をつけて作業していて、指先にも力を込めていたのにそれでも尚落ちるなんて、ルークにとってはもう逃げられたとしか思えなかった。


「ぉあ」


 呻いたのと、グラスが飛び込んだ泡の海の中でごが、と鈍い音がするのがほぼ同時。
 泡だらけでグラスがどうなったかは見えないが、これまでの経験上無事であるというのが限りなく低い確率であることは分かっていた。
 やべ、と顔から血の気が引いていくのを感じる。
 グラスを落とした体勢のまま固まっていると、急に体感温度が下がった。(ような気がした)


「……テメエ、何度目だ」


 次いで鼓膜を揺さぶる、地を這うような低い声。
 怒っている。
 これはまごうことなく怒りの声だ。
 それも、相当。

 ぎゃああああ、と内心で絶叫しながら、ルークはギシギシと音がしそうなぎこちない動きで背後を振り返る。
 そこには、予想に違わぬ不機嫌そうな表情で仁王立ちするアッシュの姿があった。

 アッシュは無愛想魔人ながらも凄腕の菓子職人だ。店長が出張(らしきもの)で不在の今は、店の責任者でもある。
 基本的に無口で無愛想で、営業スマイル何てどう捻り出そうとも出来ない、という何が嬉しくて接客業に入ったんだオマエ、と突っ込みたくなるような性格なのだが。
 それでも、ここで働くようになって嫌でも接点が出来てみれば、アッシュが不器用ながらも悪い人間ではないということが理解できるようになった。

 ……のだが。
 睨まれれば恐いもんは恐いんだよチクショー。
 と言ってしまいたいが後が恐ろしいのでとてもじゃないが口に出すことは出来ない。
 ヘタレで悪いかだってコイツ目が恐いんだもん、目が。俺と背丈はほぼ一緒なくせに。


「ご、ごめん……」


 内心では色々あったが、とりあえずグラスを割ったのは事実だ。
 非があるのは自分だと分かっていたので、素直に謝る。
 頭を下げれば、盛大な溜め息が返ってきた。


「ここはいいから、店に出てろ」

「分かった。あ、でも割れたの片付けてから……」


 言いながら泡の中に手を突っ込んだ瞬間。


「っ、この屑!」

「うわわっ、何だよ!」


 罵声と共に、腕を掴み上げられた。
 大股で歩み寄ってきたアッシュの腕を掴む力は痛いほどで、けれど何より驚いてルークは目を丸くする。
 アッシュの行動の意味が分からなかったからだ。
 割ってしまったグラスを片付けようとしただけなのに、何故ここまで怒られなければならないのか。
 混乱し、些かムッときて。
 流石に文句の一つも言ってやろうと口を開きかけたところで、更にアッシュが言い募った。


「割れたグラスがあると分かってて無造作に手を突っ込むヤツがあるか! 怪我するだろうが!」

「へっ?」


 投げられたのは、思いもよらないそんな言葉だった。

 一瞬感じた苛立ちも忘れ、ルークはぽかんとした顔でアッシュを見てしまう。
 きょとんとした目を向けられ、アッシュは気まずげに顔を背けた。
 無愛想男が優しさや好意、といった類の感情をまっすぐに表現することなど出来はしないのだ。

 もしかして、心配してくれたのか。
 数瞬遅れてようやくそこに思い至る。
 アッシュらしすぎる、不器用な気遣い。
 怒鳴られたのはショックだし悔しいしムカツクのに。
 それでも、何故だろうか。胸の内がほわりと暖かい。
 嬉しいような、気がする。


「あ、の……アッシュ?」

「……何だ」

「ごめん、ありがとう。次は、気をつける」


 横を向いてしまっているアッシュに、それでもルークは笑顔で言った。
 年齢よりも幼く見えるような、向けられた者の心を暖かくするような笑い方で。
 ルークの言葉に、アッシュはようやく掴んだままでいた手を離す。
 離れるぬくもりが残念だな、と。
 頭の片隅で、そう思った。


「そもそも割ってんじゃねー」

「う、だ、だからごめんって……」

「いいから行け」


 照れの収まったらしいアッシュにくい、と店の方を指し示され。
 けれど名残のようにその耳が赤く染まっているのを見てしまったルークは、くるりと踵を返した己の頬に熱が集まるのを感じていた。

 うーわー、つられた、やべ、あっつい。
 分かりづらいくせに優しいなんて反則だ。
 効果はあまりないと知りながらも、手でぱたぱたと顔を扇いでみたりして。


 混む時間前だからか、店にはまだ客の姿はなかった。
 ケーキが飾ってあるショーケースの裏にしゃがみ込み、熱が引いていくのをじっと待つ。
 目の前に並ぶ、様々な形をしたケーキ。
 可愛らしいものもあれば、重厚そうな雰囲気のものもある。
 ただ、どれもこれも見事としか言いようのない出来映えだった。


「よく作れるよなー……」

「職人なんだから作れなきゃ困るじゃないか」

「ぅおわっ!!」


 突然頭の上から降ってきた声に、驚いて肩が跳ねる。
 …だけでは留まらず、バランスを崩したルークは床に尻餅をつく体勢になってしまった。
 その格好のまま、ルークは後ろを振り向き抗議する。


「いい、いきなり声かけんなよ、シンクッ!」

「言っとくけど、先にここに居たのは僕だよ。後から駆けこんで来たのはそっちだからね」

「黙って見てねーで声かけてくれよ……」


 肩を落としながら言うルークの言葉には力がない。
 言ったところで無駄だろうことは重々承知していたからだ。
 自分が謙虚だとは思わないが、ここに居る人間のゴーイングマイウェイぶりの凄まじさは数日働いただけでもきっちり窺えた。
 一向に出張(らしきもの)から帰って来ない店長とやらも、同じような人種なのだろうか。
 それとも2人のマイウェイぶりに慄いて出張(らしきもの)から帰って来ないのだろうか。


「物欲しそうな顔して眺めてても、売り物だからね。ホラお客」

「へっ、えっ?」


 ぼけっと考えていると、シンクに突付かれる。
 そのすぐ後、ドアベルが音を立てた。
 慌てて立ち上がり、ドアの前へ向かう。



「いらっしゃいませ!」



 甘いお菓子と暖かなお茶で、出来る限りのもてなしを。
 一時の休息が、甘やかな幸せで包まれますように。



END

 

 

 


Web拍手掲載期間→2007.1.4〜2007.2.10

 

 

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