きみのそばに、ずっと



 気付いた時、アリババは一人だった。
 誰もいない、何もない場所。
 上も下も分からないほどの暗闇が辺りを静かに包み込んでいる。
 茫洋と広がる闇は、それでも不思議と不安をもたらさなかった。
 アリババは暫く辺りを見渡していたが、何が見えるでもなく、早々に周囲を探ることを諦めた。
 腹をくくった、というよりもただ、投げ遣りに。

 糸が切れたようにその場に座り込むと、いつしか瞳に溜まっていた涙が堰を切って溢れた。
 頬を伝い、顎の先から、ぱたぱたと足の上に染みを作っている。
 その様を、アリババは無感動な目で見ていた。

 たとえば、それがどうしようもない事だったのだとしても。
 他の誰あろう本人が、納得しているのだとしても。
 それでも、ふとした瞬間に圧し掛かってくる喪失の痛みは大きく重く、心に埋めようのない空虚さをもたらした。
 失った直後のような慟哭はない。
 だが、音もなく零れる涙は、自身でももうどうしようもなかった。
 止まらない、止められない。

 抱えた膝に顔を埋める頃には、アリババにはこれが夢なのだと分かっていた。
 けれど、否、だからこそ余計に、涙を止める気にはなれなかった。
 ここでなら、思い切り泣ける。泣いても、誰かに迷惑も心配もかけることはない。
 現実の時間では、立ち止まらないから。
 せめてこの場所だけでは、振り返り思い馳せ涙することを赦してほしい。
 俺は、そんなに強くないから。今だけは、泣いていたいんだ。

 静かに泣き続けて、どれ程の時間が過ぎた頃だろうか。
 ふと、沈黙を保っていた空気が揺らいだような気がした。
 何を考えるでもなくただ反射的に顔を上げると、そこに立っていたのは。

「……カシム……」

 カシムが、生前と変わらぬ不敵な表情で、そこにいた。
 夢の中とは言え唐突な出来事だった。夢だからこそ、と言うべきかもしれないが。
 だがどちらにしろ、思考のついていかないアリババがぽかんとカシムを見上げていると。
 カシムは、意地悪そうに唇を吊り上げた。

「泣き虫アーリィ、また泣いてんのかよ」

 そうして紡がれたのは、からかうような言葉。
 カシムの言った"泣き虫アーリィ"は、幼い頃のアリババが一部の少年たちにからかい混じりに呼ばれていたものだ。
 甘ったれと言われても甚だ詮無いことだが、幼少期のアリババはやんちゃでありながらもよく泣いた。
 その度に母が背中を撫でながら、慰め発破をかけてくれた。
 その頃程では無いにせよ、今でも涙腺は緩い方だとは自覚している。感情が昂ると、どうにも涙が滲むのだ。
 やや間を置いてからカシムの言葉を理解したアリババは、くしゃりと顔を歪めて。

「るせ……っ、誰の、っ……」

 随分と泣いた後だからだろうか、上手く言葉が出なかった。
 それが何だかやたらと悔しくて、手で涙の後を拭うように頬を擦った。

「うん、俺のせいだろうな」

 あっさりと、小さく頷きながらカシムはアリババの言を認めてしまった。
 あまりにも軽く返事をするものだから、虚を突かれ二の句が継げない。
 そうこうしているうちに、カシムはアリババと対面するように腰を下ろした。
 泣き顔のアリババを見ても、別にどうとも思っていないような顔だった。
 カシムは知っているのだろう。涙の理由を聞いても、それを解決できないのだと。
 そのくせして、こうして傍にいる。
 表立って優しさを見せることはないけれど、決して冷たい人間ではないのだ。
 だからこそ、霧の団はまとまっていたのだろう。

「カシム」
「ん」
「さびしいよ、お前がいないと」
「……うん」
「おまえが強くなくても、そこにいてくれたら」

 それだけで、良かったのに。

 無力な自分への後悔も苛立ちも本当で。
 けれど前に進まないわけにはいかないから、歩むことだけはやめないでいようと誓った。
 顔を上げて行こうと思った。
 だけど。

 もうこの世界のどこにもカシムはいない。
 その事実は、心に冷たい炎を灯すようだった。
 寂しいと、悲しいと、まるで幼子の駄々のように心のどこかが悲鳴をあげていた。

「……なんで、って。思うことも、あるけど。でもさ」

 カシムは黙っている。
 言葉を紡ぐ毎に下を向き、いつの間にか俯いてしまったアリババには、カシムの表情は窺えなかった。
 カシムの顔が見られないのではなく、今の自分の情けない顔を見られたくなかった。
 視界に入るカシムの手は、やんわりと膝の上で組まれていた。

「でも俺、お前が幸せでなくなるのが、一番いやなんだ」

 意を決して顔を上げる。
 カシムはただ、アリババに視線を向けていた。
 否定も肯定もない、ただ見ているだけ。
 思えば昔からそうだった。カシムは滅多な事では感情を表に出さない。
 ずっとそうして生きてきたから、他の方法を知らない。
 アリババはそんなカシムとつるんできたし、それでいいと思っていた。
 表に出さないだけで、感情がないわけでは決してないのだから。

 カシムが霧の団を結成したことが善いのか悪いのか、アリババには分からなかった。
 善悪どちらかの烙印を押すのは、自分じゃない。
 そう思っていたのもあるし、何より。
 きっとああして自身の意思を貫かなければ、カシムの心は死んでしまっていたのではないかと、そんな気がするからだ。

 死ぬことが幸せだなんて、言わない。絶対言わない。
 けれど、自身の心に従ったその涯の結果が死なら、それはもう外野がどうこう言っても変わらないものだろう。
 カシムもそうだったのだろうと、思うから。だから、責められなかった。
 ただどうしようもなく寂しい、それだけ。

「よく泣くな」
「……勝手に出るんだ」
「泣き虫アーリィ健在か」
「うるさいよ」
「なあ、アリババ」

 返事をする前に、視界がぶれた。
 きょとりと瞬けば、ぱらりと涙が散った。
 何だこれ、そう思ったのは一瞬で、カシムに抱き寄せられたのだとすぐに気付いた。
 カシムの手が首の後ろに触れている。
 アリババはカシムの肩に額を預けるような体勢になっていた。

「泣くなよ」

 慰め方なんて知らないから、困んだよ。
 何だか不貞腐れたような口調で、カシムが言った。
 聞いた事のない声音に、肩が震えた。
 有体にいえば、気になる。どんな顔してるんだカシム。
 身体を動かそうとしたが、押さえ込まれているのか顔を上げることは出来なかった。

「カシム」
「なんだよ」
「顔見たい」
「見せるかよ」

 暖かい。
 夢の中なのに。
 何だかおかしくなって、軽口を叩き合っていることに笑えてくる。
 レアな表情を逃したのは惜しかったが、まあいいかと穏やかに思えた。

 アリババが諦めたことを悟ったのか、すでにいつもの表情に戻ったからなのか、押さえつけられていた手は外されていた。
 カシムの指が、アリババの髪をゆるゆると撫でてくる。
 この手が、指が傍らにいないのだと思うと、ただ残念だった。だがそれはもう、刺すような哀しみとは違う。
 伝えられたから。
 立ち止まらないけど、でもやっぱり寂しいと思ってしまうことぐらいは、許されるような気がしたから。

「お前のが得意だろ、こういうの」
「なにが」
「だーから」

 ぐ、と腕を掴まれ密着していた身体が少しだけ離れる。
 カシムの顔が見えた。
 照れているような途惑っているような、顔。
 あ、珍しい。
 思ったのも束の間、カシムの手が、アリババの心臓の辺りに置かれた。

「俺は、いんだろ。ここんとこに」


 傍に。

 心の、魂の、傍らに、ずっと。


 カシムの言葉自体は少ないものだったけれど、触れる手は心の内にそのまま語りかけるような暖かいものだった。
 それにまたアリババも言葉ではなく笑ってみせると、カシムも目を細めた。

 途切れない絆が、きっと誰しもにある。
 時に混じり合い時に別たれて。それでもずっと、続いていく世界。
 流れる川のようなそれは、濁り凝り汚れる時だってきっとある。
 絶望と闇しか感じられない日だってある。
 それでも、何かのために誰かのために戦う日々は、想いは、無駄なんかじゃない。
 清濁併せて、それでも廻る世界は、どうしようもなく美しいんだ。

 だから、終わらせたくない。
 そのために俺に出来ることがあるなら、何だってやってやる。
 俺にだっていつか訪れる、涯の日に。
 胸を張って、笑って会えるように。


 一筋だけ零れた涙は、その誓い。








 

 

7巻読んで盛り上がって勢いだけで書き上げたカシアリ。
ちょうどバルバッド編ラストの本誌を読めてないので(何となくは聞いた)、かなりの妄想補完ですが。
今本誌連載中の新章まで半年あるってことなので、その間のね、いつかっていう。
カシムの「俺はいるだろ」場面が書きたくて書いた。
あとアリババの呼び名を考えて出てきた「アーリィ」を。後悔はしていない。
あ、これあれです。夢なんだけど、カシムは魂というかルフというかで本人なカンジで読んで頂ければ。


きみといるよ ずっといるよ
そのこころを まもるために



UPDATE 2011/2/4

 

 

 

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