夕陽と涙と思い出と








 約束と、誓いと、決意と、夢と。



 そんな、思いやら言葉やらが詰まった"宝"を手にしたあの時から。



 おれは涙を、流さなくなった。







 太陽は西の空に傾き始め、辺りを赤く照らしている。
 波は穏やかそのもので、特に問題はない。
 いつもと変わらない、普段と同じ、自分の居場所。


 夕飯前。
 ふと見やった甲板には誰の姿もなく。
 いつもなら誰かしらがいるはずなのに、その時は何故か丁度示し合わせたかのように誰の姿もなくなっていた。
 いつものように船首に座っていた、ルフィ以外。
 エアポケットにでも入り込んでしまったような、妙な感覚。
 ラウンジなり男部屋なりに行けば誰かしらがいることは分かっていた。
 けれど何故かそうする気は起きなくて。
 ルフィはすっかり指定席になっている(仲間からは未だに小言が絶えないのだが)船首から、身軽に飛び降りた。


 ぺたりぺたりと、サンダルならではの音が誰も居ない甲板にやけに大きく響く。
 ラウンジへ向かう階段をゆっくりとした足取りで上がったルフィは、けれどそのまま船尾の方へ足を向けた。
 ラウンジ横の階段を上る途中、ルフィは一度だけふと船首を顧みた。


 ルフィの目は確かに船首を捉えながら、しかしどこか焦点の合っていないぼんやりとした目で。
 ルフィは自分の心がここにないことを悟り、目を伏せて踵を返した。
 船首に背を向け、西日に向き合う。
 夕日を見やるルフィの表情はどこか虚ろで、その背は痛々しげだった。
 そんなルフィの表情を見ることが出来たのは、はからずしもルフィに向き合った夕日だけだったのだけれど。










 夕食の支度にもようやく一段落がつき。
 あとは煮込むばかりの鍋を前にして、サンジは暇でも潰すかとラウンジの外に出た。
「……と、何だよ。誰もいねぇじゃねーか」
 西日が赤く染め上げる甲板にもマストにも、誰一人として影すら見当たらなかった。
 いつもにぎやかな船だけに、静かなその様はなんだかゴーイングメリー号ではない別の船に乗り込んでしまったような錯覚を起こさせる。
 ……というか。
 仮にも3千万ベリーの賞金首の海賊が乗っている船がこんな呑気でいいのだろうか、と少し心配になった。
 まあ、周りからの評価がどう変わろうと、この海賊団は"自分"を見失ったりはしないのだろうが。


「ルフィ……?」
 サンジが訝しげに呟いたのは、見やった船首にいつもの後ろ姿が見えなかったから。
 海賊船には似つかわしくない、どこかユーモラスな羊の頭。
 けれど常人とはかけ離れた人物ばかりが乗り込んでいるこの船には、その似つかわしくなさこそが相応しいようにも思えてしまう。……人はそれを慣れというのかもしれないが。
 この船の船長は、皆がどれだけ止めろよせと言ってもその船首に座るのがお気に入りで。
 何だかんだ言いつつも船員は船長に甘いから、文句を言いつつも最終的にはルフィがそこに座るのを容認してしまっていたりして。
 だから、ルフィが船首に座っている限りは誰かしらが甲板にいるのがいつしか暗黙の了解になっていた。


 けれどその船長の背中が、今はない。
 甲板に誰の姿もないのは、きっとそのせいだ。
 誰も居ない、それだけでこの船はこんなにも静かだったのかと今更ながらに思う。
 ……いや、アイツがいないから、だな。
 内心で一人訂正し、サンジはルフィの姿を探すべく視線を巡らした。
「どこ行きやがったアイツ……」
 呟いた言葉は、無意識のうちに。
 見慣れた姿がいつもの場所になかった。それだけのことで苛立ちを覚える自分を自覚し、否定しようとしてけれどサンジは苦笑する。
 自分も例外なく、船長に甘い人間の一人なのだろうなと思ったからだ。
 ナミかゾロ辺りに言わせれば、きっとお前が甘やかしてる筆頭だと間違いなく言われたのだろうが。




 程なくして、探した背中は船尾で見つかる。
 ルフィは手すりに片手を置き、海を見ていた。
 西日が海を赤く染めている。炎のような色の海は、昼間の輝かしいばかりの青の海とは違い、美しいながらも何処か不吉な印象を与える。
 赤い海を無言で見つめるルフィ自身もまた、赤に染め上げられていた。
 背中を向けるルフィがどんな表情をしているか、サンジには窺い知ることはできない。
 声を、かければ。
 ただ一言、その名を呼べば。
 ルフィはきっと振り返り、いつもと変わらない表情を見せるだろう。
 子供のような笑顔を見せて、いつものように食べ物をねだるのだろう。


 そう、思うのに。
 多分そうなると、確信にも近い思いがあるのに。
 喉が塞がれたかのように声が出なかった。
 何故か、声をかけられなかった。
 声をかけては、いけない気がした。
 名前を呼んで、振り向いたルフィがいつもの表情を見せないような気がして。
 見たこともないような表情で、聞いたこともない声音で"アンタ誰?"とでも問われてしまうような気さえもして。
 それが馬鹿げた考えだと、充分理解していながら。
 それでもサンジは、ルフィの名を呼べなかった。



「……サンジ。何やってんだ、そんなトコで」
 逡巡しているうちに、ルフィがサンジの存在に気付き振り返った。
 その顔には、サンジが予想していた通りの、いつもと同じ子供のような笑顔が張り付いていた。
「そりゃこっちのセリフだっつの」
 それに安堵しながら、サンジはゆっくりとした足取りでルフィの方へと歩み寄って行った。
「メシ…にはまだちょっと早いよな? どーしたんだ?」
 人の顔を見るたびメシだおやつだと食べ物をねだるルフィだが、その腹時計は正確なようだ。
 毎日ほぼ定時に食事を作るサンジも流石だが、それを時計を見るでもないのに察しているルフィも相当なものだろう。人一倍"食"に対する本能の働き具合が過敏なのだと言えないこともないのだろうが。


「お前の姿が見えねーから出てきたんだろうが。また海にでも落ちたんじゃねーかと思ってな」
「おれは落ちねえ!」
 威張ることでもなかろうに(それでなくともルフィは前科持ちなのだから)何故か胸を張ってそう言い切ったルフィの右頬を、サンジは無造作に掴んで引っ張った。
 流石にゴムでできているだけあって、引っ張ったルフィの頬は面白いほどよく伸びた。
 ルフィが不審そうに、或いは何か言いたげに眉を寄せた所で、サンジはぱっと手を離した。
 ばちん、と小気味いい音がしてルフィが目を瞬かせる。
 引っ張られた頬に手を当てながら(あれしきのことでルフィが痛みを感じることなどないと重々承知していながらそれでも心配しかけた自分をいい加減過保護だなと呆れてしまった)、ルフィは何が起きたのか分からない、とでも言いたそうな目をサンジに向けた。
 それに対し、サンジは重苦しい溜め息を吐きながら首を振ってみせる。
 心情はやれやれどうしようもねえ、と言った所か。
「だーれーが、落ちねえって?」
「おれだっ!」
 またも胸を張ってみせたルフィの背後からどーん! という効果音が聞こえた気がしたのは、多分空耳ではない……ハズ。


 その返答に、サンジは今度こそ両の手でルフィの両頬をぐいーっと引っ張った。
「テメエが落ちるたびに毎回毎回救護要員に狩り出されてる人間に向かってよくもまぁ堂々とそんなことが言えたもんだな、あぁ?」
「うむぅぅ〜ι」
 おお伸びる伸びる、さすがゴム人間、などと言いながら笑うサンジだが、その目は笑うどころか据わりぎみだったりして。
 痛くはないがなんだか尋常ではないサンジの様子に、さしものルフィも異変を感じ取ったのかじたばたともがいてみせる。
 そんなことをしているうちに、ふと。
 グランドラインの気まぐれか否か、ふと、風が。



 穏やかな夕暮れに似つかわしくないほどの、強い風が。



 船を煽るように、ごう、と音を立てて吹きつけた。



 風はマストをなびかせ、船を揺らし、そして……



「帽子っ!!」



 当然のことながら、吹きさらしの場所に立っていたルフィとサンジも風を受けることになるワケで。
 その拍子にふわりと空へ舞い上がった帽子に、ルフィは焦って声を上げた。
 驚いたサンジがルフィの頬を引っ張っていた手を離すのと、ルフィがサンジの手を振り切って帽子を追いかけるのと。
 そのどちらが早かったかは、二人自身にも分からなかった。


 文字通り腕を伸ばして帽子が海の藻屑になることを防いだルフィは、帽子を被り直すとあからさまに安堵した表情で息を吐いた。
 そんなルフィの一連の仕草を傍観していたサンジは、痛みを我慢しているかのような、何か言いたそうな複雑な表情になり。
 けれど言葉は音にならずに、結局サンジは煙草に火を点けることでそれを誤魔化した。
 吹き抜けた強い風は一瞬のことで、海にはまた静けさが戻っている。
 波の音しか聞こえない船上で、ライターの着火音がやけに響いた気がした。
 ルフィは感情の起伏が激しい。
 笑うことにも怒ることにも、全てに全力で。
 けれど、それでいて。
 笑うし喚くし怒るし騒ぐのに。


 ルフィの本心が、見えない。


 奇跡のような力を持つその原動力が、理屈も理由もなく人を惹きつけてやまないその存在感の根底に何があるのか。
 その全てを知る人間は…少なくともこの船上には…いない。
 深い考えなどないんだろうと思わせておきながら、時折その目が底の見えないような色を漂わせていたりとか。
 子供のような頑なさと我侭で、けれど何より信念を貫くその姿勢だとか。
 グランドラインに入って世界の広さを思い知って尚、掴み切れない"ルフィ"という存在。
「お前は泣かねぇな」
 思わず零れた呟きは、ルフィに向けて発した言葉ではなく。
 その言葉に焦ったのは、他でもない口に出したサンジ自身だった。
 慌てて今の言葉を取り繕おうとしたサンジに、ルフィは思わずたじろいでしまうようなまっすぐな目を向けてきて。
 思わず息を呑んだサンジに、けれどルフィから返された言葉は予想外のものだった。


「悪ィ、サンジ。も一回言ってくれるか?」
 へらっと笑って、けれどその眉をちょっとすまなさそうに寄せて、頬をかきながら。
 いつもなら人の話をちゃんと聞いてろ、と言っている場面だが、今日ばかりはそれに安堵した。
 内心では安堵しつつ、サンジはそれを表に出さないように注意しながらルフィの頭を軽く小突いた。
「相変わらず聞かねぇな、人の話を」
「帽子が無事だったから気が抜けてた」
「いつも気が抜けてるくせして、何言ってやがる」
「む! 失敬だなサンジ!」


 今はまだ、聞けない。
 今は、まだ。
 一緒に背負いたいと思うその肩にかかっている負荷がどれだけのものなのかは、計りかねるけれど。
 その主さを誰かに分けることを、きっとルフィは望まない。
 少なくとも現時点では、望んでいない。
 けれどそれは拒絶ではなく、自分の為だ。夢を自らの手で叶える、そのためだ。
 そしてひいてはそれは、仲間と共に先へ歩んで行くためだ。
 どれだけその負荷が重かろうと、ルフィはきっと笑う。
 決して強がりではないその強かさが、愛しいと。
 太陽の欠片のようなその笑顔が、嬉しいと。
 そう、思える。
 だから、これでいい。
 圧し掛かる重みを分け合えなくても、並んで歩きながら軽口を叩ければ。
 負荷を減らせなくとも、その重みを少しでも意識の端へ追いやることができれば。



「で? こんなトコで何見てたんだ?」
「海だっ」
「海? 何でわざわざこんなトコ来てまで……」
「赤かったからな、海が」
 言いながら海み目を向けるルフィの表情に、どきりと心臓が跳ねた。
 その目がやけに、冷たく見えたから。
 いや、冷たいという言葉には語弊がある。
 ルフィの目には、顔には、どんな感情もその色を浮かべてはいなかった。
 だがそれは無表情というわけでは決してなく。
 一見すると何の感情も読み取れないけれど、その目の奥には僅かにだが感情の片鱗が渦巻いていた。
 ルフィの表情は、湧き上がる感情を表面上何でもないフリをして抑えているかのような、張り詰めた表情だった。


 するな。そんな表情。
「……そりゃ西日が照らしてるからな。赤くて当然だろ」
 見せるな。問い詰めたくなるだろう。
 情けねーけど、我慢してんだ、俺も。
 そんな表情するな。
 その目でおれを見るなよ、頼むから。
 いつもみたいなガキくせーツラしてろ。
 じゃなきゃ、どんなことしてでも口を割らせたくなる。
「それもそーだな」
 サンジの内心の葛藤など知る由もないルフィは、いつもの表情に戻っていた。
 いつも通りの、悩みなどなさそうな笑顔。
 ……一瞬だが垣間見た表情は、多分きっと、誰も知らないルフィの根底にあるもの。
 コイツが泣くのは、夢が叶ったその時だろうか。
 その時には、俺たちにも見せてくれるのだろうか。


「おっと、そろそろ戻らねーとな。来るか? 味見させてやるよ」
「! おう、行く行く!」
「相変わらず食い物になるといーい返事が返ってくることで……」
 サンジは苦笑しながら、ルフィの帽子のてっぺんをぽすぽす叩いた。
 迷いも、夢も、誓いも。全てがきっと、前へ進むための布石だ。
 苦いものも甘いものも、どれ一つとして無駄なものはない。
 全て食らって、消化してしまえ。
 これから先何が起ころうと、おれたちはお前から離れたりはしねえから。たとえお前がイヤだつってもな。
 強烈すぎるその引力で、お前が世界の中心になれ。
 自分の後を追ってくる、ぺたりぺたりと呑気な足音にサンジは思わず小さく吹き出し。
 短くなってしまったタバコを、指先で弾くように投げ捨てた。
 小さな炎はゆっくりと放物線を描きながら、海へと消えて行った。





 サンジの背中を追いながら、ルフィはふと振り返り背後をみやった。
 夕日はほとんど沈みかけ、水平線にわずかに顔を出しているだけだ。それすらもそう間を置かずに沈んでしまうだろう。
「赤い海は、好きじゃねぇな」
 赤という色自体がキライなわけでは、決してないのだけれど。
 燃えるような色をした海は、好きになれない。
 かけがえのないものを失くしかけたあの幼い日を、どこか彷彿とさせるから。


 流れた血で染まった、あの海を。
 否応にも思い出してしまうから。


 零れる赤は、そのまま生命だ。
 それを止める術を知らない子供だった自分は、泣くだけだった。
 もっとも何もない海上ではどうにもならなかっただろうが。
 涙で歪む視界の中、それでも流れる血は見えていた。
 止めなければ、失われる。
 流れ出すごとに削られていく生命が、ただ怖かった。
 何も出来ない無力な子供でしかない自分を思い知って、ただそれが呪わしかった。
 力が欲しいと、強くなりたいとあれほどまでに強く強く願ったのは、あれが一番最初だった。


 思い出すと苦しい、けれど決して忘れ得ぬ記憶。
 キリキリと、締めつけられる様に痛むそれは……ココロ、だろうか。
 ルフィは麦わら帽子を目深に引き寄せ、視界から無理矢理赤い海を消した。
 そうでもしないと、いつまでも見続けてしまう気がしたから。
 キライでもないけど、好きじゃない赤い海。
 それでも目が離せなくなるのは、どうしてだろう。
 引かれるのは、何故だろう。



 おれは、シャンクスに会ったら、どうするんだろう。
 何を言うんだろうな? 分かんねえ、決めてねえ。
 とりあえず、帽子を返すのは決まってんだけど。
 帽子を返して、それから……



「赤い海は、やっぱり好きじゃねえ」
 誰に言うでもなく、ルフィは呟いた。
 ラウンジのドアを開けかけていたサンジが、その呟きにルフィの方を見やる。
「海はやっぱ、青がいいよなっ」
 軽い足取りでサンジの方へ駆け寄りつつ、ルフィはにっと笑う。
 サンジはルフィの唐突な言葉に、それでも驚いた様子は見せずに。
「ああ……だな」
「サンジ、早くメシメシッ!」
「味見だっつっただろ。つーか、つまみ食いしたらメシ抜きだからな」
「ええ〜」
「人一倍食べるくせして文句たれんな! オロすぞテメェ!」






 帽子を返して、それから。
 帽子と交換で預けた涙を、返してもらおう。
 後のことは、その時になってからで、いい。





〜fin〜

 

 



実は書いたことのなかったシャンクス絡み麦わら帽子ネタ。(と、シャンクスの腕の件がトラウマになっているであろうルフィ)
ルフィは泣かないな〜と思ったのがこの話の発端です。
ゾロもナミもウソップもサンジもチョッパーも、あのロビン姉さえ泣き顔を見せたことがあるのに、ルフィはないんですよね。
フーシャ村でシャンクスに帽子を貰った時以来、ずっと。
アラバスタ王国編でかなり感情を露にしていたルフィですが、それでも涙だけは見せてないんですよね。いっそ何かの誓いを自分の内で立てているかの如く。
そんなことを考えながら、この話を書きました。

余談ですが、この話のタイトル、下書きの時点では"Cause you're Tears"でした。
結局日本語に落ち着いたのは私の気まぐれですが(笑)

今回背景が目に痛いような色でゴメンナサイ…夕陽と、血と、赤く染まった海のイメージで。



(UPDATE/2002.6.21)

 

 

 

 

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