雪が降る。



 降り積もる。



 街に。



 森に。



 ……人の、心に。





   
深々と。






 目を開けたそこにあったのは、見知らぬ天井。




 しばらくぼけっとそれを見上げていたが、ようやく思考回路が働き出す。
「…んだ、ココ……?」
 呟いた声は掠れていて、自分が結構な時間ここに寝ていたのだということを思わせた。
 頭が重い。頭だけじゃなく、体も。
 むくり、と上半身を起こすと、ぎしぎしと骨が軋む音が聞こえたような気さえした。
 けれど、顔を顰めるほどの痛みではない。
 おそらく麻酔が効いているのだろう、痛覚はどこか壁の向こう側のもののように遠く感じられた。
 体に巻かれた包帯に、ここが山頂の城の中なのだろうと予測はついた。


 石造りの壁。
 棚に並べられた蔵書、試験管、ビーカー。
 木製のテーブルの上には薬品やら開きっぱなしの本が置かれている。
 自分が寝かされていたのはおそらく診察用の寝台だろうと判断する。
 部屋の反対側にはベッドが置かれているのが見えたからだ。
 そしてそのベッドには、見慣れた黒髪が寝息をたてている。
 サンジは普段に比べて遥かにのろのろとした動きで寝台から下りると、ルフィの寝ているベッドへ近づいて。
 ルフィは、眠りの淵にいた。
 すうすうと、年齢よりもずっと幼く見えるあどけない寝顔でルフィは寝入っている。
「…………」
 その腕も脚も、いっそ見ていて痛々しいほど包帯でぐるぐる巻きになっていた。


 それを目にしたサンジは、無言で眉を寄せて。
 言いたい言葉を飲み込むように、取り出したタバコに火をつけた。
 ここが病室ならタバコはご法度だろうが、ここは病院ではなく山頂の城だし、いるのは魔女と呼ばれる医者くずれらしいからルールもあったもんじゃないだろう、と自分に言い訳をしながら。
 それ以上見ていることができずに、サンジは踵を返してルフィに背を向ける。
 そのまま数歩歩いて、部屋の中央辺りで立ち止まった。
 突っ立ったまま、タバコを吸うことに神経を向けた。
 吸い慣れた紫煙が肺を満たして行くのに、安堵感にも似た感覚を覚える。
 俺にとってのタバコは精神安定剤みてーなもんだからな、もう。
 そんなことを考えながら、サンジはゆっくりと煙を吐き出した。



 白く、


 歪んだ、


 紫煙が。


 ゆっくりと、


 立ち上り、


 消えて行く。



 自分が、今、何故、この場所にいるのか。
 その答えは明白過ぎて、問いにもならない。
 記憶は、視界が全て白で埋め尽された所で途切れている。
 あの後何がどうなって、ルフィがどんな経緯を辿ってここまで来たのか。それは、分からなかったけれど。
 ルフィの肌を覆い隠している包帯が、何よりも雄弁にそれを語ってくれていた。
「っクソ……」
 言葉も出てこなくて。
 サンジはぐしゃぐしゃと、己の髪をかき乱した。


 騎士を気取るつもりなんてなかった。
 あの時は、あれが一番最善作だとそう思ったし、今でも自分の行為を後悔しているわけではないのだけれど。
 二人分の生命を助けた、そのつもりで。
 逆に、二人分の生命を、背負わせてしまった。
 それがどうにもやりきれなかった。
「どうやって登ったんだよ、あの垂直な山を……」
 思わず、悪態にも似た呟きが零れた。
 二人分、いや、自身の分も合わせて三人分の重みを引き受けて。
 歯を食いしばりながら、けれどその目は前だけを見据えて。
 例え目にしていなくとも、サンジにはその光景が見える気がした。


 何よりもやりきれないのは、ルフィが自分は当たり前のことをしただけだ、と言い切るのが分かり切っていたからだ。
 ルフィは、強い。
 それは腕っ節の話だけではなく。
 その心根が、内に抱く炎にも似たまっすぐな信念が、誰よりも、何よりも、強い。
 けれどそれは、残酷なまでのその強さは、時折周囲の人間に恐怖にも似た思いを抱かせる。
 無論、ルフィはそんなこと知り得ないし、これから先知ってほしいとも知らせようとも思わないが。
 前ばかりを見るその姿が、生き急いでいるようにも思えて。
 自身の命をも惜しまないその姿勢が、躊躇うことなく他人の存在を受け容れることのできる器の広さが、いつか"死"という魔物でさえも笑顔で迎え入れてしまいそうに見えて。


 ……いや、実際アイツは笑ったんだ。
 あの死刑台の上で、死神の鎌を喉元に突き付けられながら、それでも。
 悪戯が見つかって咎められたかのような、屈託ない顔で。
 思い返しただけでも、未だにゾッとする。
 胃の辺りが締めつけられるような感覚に、サンジは一つ舌打ちし。
 ぼんやりと考え事をしているうちに随分と短くなってしまったタバコを、携帯灰皿に乱暴に押し込んだ。




「…………サンジ?」
 静まり返っている部屋に声が響いたのは、そのすぐ後だった。
 声のした方を見やると、ルフィがもぞもぞと動きにくそうにベッドの上に半身を起こすところで。
「大丈夫か?」
「……それはおれのセリフだろうが、クソゴム」
 開口一番に言うのがそれかよ。クソっ。
 なんだか情けなくも泣きたいような気分で、サンジはルフィの寝ていたベッドに腰掛けた。


「包帯だらけだ、な。二人とも」
「ああ、そうだな」
「サンジ、沢山血が出てたんだ。もう平気か?」
「ああ、平気だ」
「ところでおれ、なんでこんな包帯ぐるぐる巻きにされてんだ? 動きにくい……」
「わ、バカっ、勝手に取るなよ!」
 ルフィの言葉に生返事をしていたサンジだが、ふと気付くとルフィが自分の手足に巻かれた包帯を何とかしようと…有体に言えば取り払ってしまおうとしているのが目に映り。
 サンジは慌ててその手を押さえてやめさせた。
「なんだよー動きにくいんだよ、コレ」
「我慢しろ! 傷に響いたらどうすんだ」
「だってさ……」
「したいことがあるなら、おれがやってやるから!」
 頼むから大人しくしてろ、とサンジは懇願にも似た声音でルフィの肩を掴んだ。
 ルフィは、一瞬驚いたような顔を見せたが。


「へへ、サンジ、やっとおれの目、見た」
 次にルフィから返ってきた言葉は、サンジの予想だにしない言葉だった。
 思わず言葉を失っているサンジを尻目に、ルフィは嬉しそうに言葉を続ける。
「言いたいことあんなら、ちゃんと目を見て話さなきゃな。それにおれ、サンジの目、見てんの好きだしさ」
「…………悪かった」
 低い声で、サンジが呟く。
 ルフィはそれに、穏やかな表情で軽く首を振った。
「ああ、いや、別に責めてるわけじゃないって」
「それも、だけどよ。お前、言ってただろ。勝手なことすんなって」
「………ああ」
 返事に、間が、あった。
 普段言いよどむことなど滅多にないルフィだけに、たったそれだけのことに酷く途惑いを覚えてしまう。
 そして、小さく頷いただけのルフィは黙り込んでしまう。
 部屋に落ちる沈黙に、サンジは落ち着かなくなった。


 うわ、やめろよその沈黙。
 下手に責められるよりよっぽど効くっつの。
 サンジの内心での葛藤を余所に、ルフィは黙り込んだままジっとサンジを凝視してくる。
 怒るでも笑うでも詰るでもなく、ただまっすぐに。
 底の見えない、漆黒の闇を思わせるその瞳で。
 どんな言葉を投げかけられるよりも、それが一番痛かった。
 刺すような視線に、サンジは知らず息を呑む。


「……けど、おれは間違ってるとは思ってねえからな。あの時はああするのが一番最善策だと思ったわけだし、まぁ、その後お前に負担かけることになったのは……悪いと思ってるけどよ」
「サンジ」
「……おう」
「おれ、まだ、何も言ってない」
「……ああ、そうだな」
「別に怒ってねえぞ。あの時は怒るよりも先に焦ったし」
 そこまで言ってからルフィは言葉を切り、ふっと溜め息を吐くかのように息を吐いた。
 その視線がサンジから逸らされ、窓の外へ向けられる。


 雪は、変わらず降り続けていた。






 冷たかった。
 一面の白に、気が遠くなった。
 気を抜くとその場にへたり込んでしまいそうで、必死で歯を食いしばってそれに耐えた。
 街で待ってる仲間と、高熱で苦しむ仲間と、それから、雪に埋もれた仲間と。
 頭の中を仲間のことでいっぱいにして、それだけしか考えられないようにして、雪の中を進んだ。
 他のことを考えると、立ち止まってしまう気がしたから。
 あの後、あれだけの雪の中からサンジを見つけられたのは実際奇跡と言えるだろう。
 今となっては自分がどんな風に探して、見つけた時にどんな反応をしたのか、思い出せない。
 ただハッキリと覚えているのは、露出した肌に触れる、冷たい雪の感触のみだった。
 真っ白に染まる世界で、それだけが唯一のリアルな感覚だった。






「おれが怒ってるとすれば、サンジがおれに悪かったと思ってるってことだ」
「何?」
「自分がしたこと、間違ってないって思ってるんだろ」
「ああ」
「だったら、悪かったなんて思うな。言うな。おれは負担なんて感じなかった。おれが怒ってるとしたら、サンジがそう思うんだとしたら、そんなこと考えてることを、怒ってるんだ」
 淡々とした口調で、ルフィは言う。
 そこに含まれているのは怒りだけではなく。
 怒り、哀しみ、苛立ち、そんな諸々の感情がその言葉には渦巻いているのが感じられた。
 サンジは返すべき言葉が見当たらずに、ただ見ていた。
 窓の外を眺めるルフィを。
 ルフィは、サンジからの痛いほどの視線を感じながら振り返らずに外に視線を向け続けた。
 その目が見ていたのは、飽くことなく舞い落ち続ける、窓の外の雪。


 訪れた沈黙は、痛かった。
 多分、双方ともに。


 沈黙を破ったのは、ルフィの方だった。
「ぎんいろだな」
 ぽつりと、囁くような声音で。
 ともすれば聞き逃してしまうほどの声音で呟かれたその言葉が自分へ向けられた言葉だったのか、それとも独り言だったのかを判断しかねて。サンジはルフィの横顔を凝視することしかできずにいた。
「空と、外の景色とが、さ。銀色に見える」
 サンジも見てみろよ、と促されるままに、サンジも窓の外に目を向けた。
 一面の銀世界、というのはまさしくこういう景色のためにある言葉なのだろう。
 全てが雪で覆われ、一見閉ざされてしまったかのようにも見える。
 けれど、音もなく降り積もる雪は、いっそ残酷なほど美しかった。全てを閉じ込め、それでも尚。


「雪って白いのにな。なんで銀色なんだろ、不思議だと思わねーか?」
 そう問うルフィの表情は、穏やかで。
 言葉自体は問いかけだったが、その答えを欲しがって言った言葉ではないことは容易に見て取れた。
「……ここよりもっと極寒のな。それこそ雪と氷しかないような場所に住んでる奴らには、おれ達の目から見ると白一色にしか見えない景色も、違うように見えるんだと」
「どういうことだ?」
「おれ達から見りゃ白だけでも、そういう地に住んでる奴らにはその白が何十種類にも分かれて見えるんだそうだ」
「……へえ、カラフルなんだな」
「そうしねーと生きていけないから、おれ達には見えないものが見えるんだろうな」
 何故今、こんなことを思い出したのか。
 何故、それを口にしたのかサンジ自身にも分からなかった。
 降り続く雪と、それを見つめ続けるルフィと。
 それを眺めていたら、ふと口にしていた。
 ルフィにも、見えるのだろうか。
 俺達には見えない、けれどそれが見えなければ生きていけないような、何かが。


「不思議だよな、そーいうの。目の造りが違うわけでもないだろーにさ」
 言いながらルフィは、窓ガラスに手をやった。
 包帯に巻かれた指先が、冷えたガラスを無造作に滑っていく。
 何気ないその仕草に、目が離せなかった。
「世界は、不思議で、キレイだ。そう思うだろ?」
「……ああ」
 静かな声音に、サンジは頷くことしかできなかった。
 それ以上の言葉は、出てこなかった。
「おれが海に出たのはさ、海賊王になりたいからってのは勿論あんだけど。そういう、不思議でキレイな世界をもっと見たいって、そう思ったのが一番最初なのかもな」
 言うルフィの表情は、相変わらずついぞ見ないような柔らかな色を浮かべている。
 その目は、遠い思い出を馳せるようにどこか遠くを見ているような眼だった。


 意識せず伸ばしていた指が、ルフィの頬に触れる。
 触れた頬は、いつもより少しだけ冷たいような気がした。
 頬に触れた指に、ルフィが外に向けていた目をサンジへ向ける。
 夜明け前の闇を思わせる漆黒。
 高みを見据えるその目は常に輝いているのに、その色が闇を湛えているのがサンジには不思議に思えてならなかった。
 存在そのものは光なのに、内包するのはどんな暗闇よりも一番暗い色。
 けれど、なんとなく。
 ルフィの言葉に、答えを貰ったような気がした。



 世界は不思議で、
 だけど、
 キレイだ。



 だとしたら、お前は世界そのものだ。
 少なくとも、おれにとっては。
 言いかけた言葉を飲み込み、サンジはルフィの頭を引き寄せた。
 ルフィは抵抗を見せずに、そのままサンジの胸元に凭れかかる。
 ぽす、と軽い音がした。
「この部屋も、世界の全体から見りゃ小さいんだろうな」
「そりゃそーだな。その小っちゃい箱庭で、でもそれをキレイだって思ったり、その中で一生懸命走ったりする。生きるってーのはさ、そういうもんなんじゃねえか?」
「皮肉だな。でも、ま、そーいうもんか」
「しししっ、そーいうもんだ」
 ここは箱庭。
 けれど、その中で日々生きていくものだから。
 皮肉混じりの世界は、それでもやはりキレイだ。
 そう思えるのは、胸元に寄りそうぬくもりがあるから。
 愛しいと思うその心は、きっと無限の力を与えてくれる。


「ふあ……」
「眠いか? いいぞ、寝ても」
 ルフィが欠伸したのに、サンジはぽんぽん、とその背を叩いてやる。
「サンジ、いい匂いだ」
「あ?」
「いつもと変わらねー匂いがするぞ」
「ああ、さっきタバコ吸ってたからな」
「安心する」
 言いながら、ルフィは笑ったようだった。
 胸元にかかる吐息で、それが分かる。


 と、ルフィがサンジに凭れたまま窓の方に顔を向けた。
「雪、やまねえな」
「やんでる方が珍しいんじゃねえか、この島は」
「そうか……」
「ルフィ?」
「サンジ、雪うさぎ…作ろ…な……」
 すうっと、凭れかかる体の重みが変わった。
 ルフィはどうやら完全に寝入ったらしい。
 サンジはその頭を撫でながら、自分もまた窓の外に目を向けて。
「キレイ、か。あんな目に遭っても、変わらずそう言えるんだな、お前は」
 呟きながら、けれど自分もまたこの銀世界を言うほど嫌ってはいないことに気付く。ともすれば、それもまたこの腕に在るぬくもりのせいかもしれない。


 窓の外では、降り止まぬ雪が風に舞っていた。
 降り続く雪に、この箱庭の中の小さな部屋は閉ざされてしまったかのようにも思えて。
 サンジは目を伏せた。
 例え閉ざされても、腕の中には変わらずぬくもりがある。
 その事実だけは、誰にもどうすることもできないから。
 サンジはルフィの髪に口付けると、ふっと息をついた。



 吐息は、


 深々と降り止まぬ雪に紛れて。


 白銀の世界は、


 相も変わらず静寂に閉ざされていた。



 それも、次にルフィが目を覚ますその時までのことだったのだけれど。





Fin


 

 

888Hitリク、「サンル、雪国編」でした。
お待たせしてしまって申し訳ありません…
雪国編はサンルのバイブル…なのにこんなんかい(ノリツッコミ)
リクをくださったハヅキ様に捧げます。
ハヅキ様のみお持ち帰り可です。(しないっつの…)

UPDATE/2002.7.29

 

 

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