繋いだぬくもり









「俺、今度の連休田舎に帰るんたい。猿野は、お土産何がよかね?」





「え」




「あれ? 猿野には言うてなかったっけ? 俺、出身福岡なんたい」




 いやいやいや。それは大体言葉とかで分かりますってば。




 俺が今驚いてるのはソコじゃないです。












 唐突な言葉に天国が目を丸くしたのは、部活帰りの道すがら。
 自主練に付き合ってくれた猪里と並んで歩いている時のことだった。



「帰るって、帰るって、なんでそんないきなり!」
 この世の終わりが訪れたような気分で、天国は思わず大きな声を上げていた。
 例えて言うなら、いきなり妻に"実家に帰らせていただきます"と三行半突き付けられた甲斐性のない旦那と言う所か。
 まぁ天国と猪里は妻と夫な関係では、断じてないのだが。
 でも多分こんな気持ちなんだろうなと。天国はまったく関係ない所に思考を飛ばしてみたりしていた。



 けれど目の前の猪里は、天国の大げさなリアクションに別段反応らしい反応も見せず。
「明日から連休やろ? 部活も丁度休みになるったいね。夏休みなんかは部活が休みになることはなかやろ? そのこと話したら、顔見しぇに来いって言われたとね」
 にっこりと。
 大好きな大好きな優しい印象を与える柔らかな笑顔を向けられ、天国は何も言い返せずに黙り込んでしまう。
 その笑顔を向けられた嬉しさとは裏腹に、猪里の放った言葉は間違いなく天国の心を落ち込ませる原因になっていたのだが。



「普段は電話もあまりしなかし、時々食べ物ば送ってもらうこともあるったいね。やけんくさまぁ、親孝行の変わりに元気な姿でも見しぇて来ようかなと思ったと」
「そ…っすか。そうですよね、離れて暮らしてるんじゃ、尚更親御さんも会いたいですよね」
「ん。今まで育ててもらって、一人暮しも容認してもらってるったいね。働いてるわけでもなかから、それぐらいしかできることってなかやろからね」
 優しい響きの、猪里の言葉。
 そこに含まれた望郷の思いに、天国は一瞬寂しげに眉を寄せ。けれどそれを気取られないように猪里へ笑顔を向けた。




「で、お土産は何がよか?」
「何でもいいです。猪里先輩が好きなものなら」
「その答えが一番困るんたい。"博多"って書いたペナント買ってきよっとよ?」
 少しだけ、意地悪を言うつもりで。
 天国の顔を覗き込みながら猪里がそう告げると。
「いーですよ、それでも」
 返ってきた、あまりに天国らしくない覇気のない答え。
 それに驚いた猪里はニ、三度目を瞬いた。
「猿野、熱でもあるんじゃなかか?」
「ないですよー」
「じゃ、どうしたと? さっきから猿野、元気なかばい」
「今頃、練習後の疲れが」



 はぐらかすようにへらりと笑い、天国は猪里の視線から逃れるように顔を背ける。
 けれどそれは、叶わなかった。
 猪里が天国の頬に両手を当てて、固定するように引きとめたから。
「猿野、嘘は駄目たい」
「嘘なんか……」
「俺は、猿野が思ってる以上に猿野のこと見ちょっとよ。やけん、猿野が落ち込んでることぐらい、分かるったいね」
「俺は……」
 口を開こうとして、けれど天国は困ったように眉を寄せたまま黙りこくってしまう。
 言いたい言葉は、たくさんあった。
 それはこうしている今でも天国の中でぐるぐると渦巻いている。
 だけど天国は、口を開けなかった。



 だって、この口から零れるのは、きっと綺麗な言葉ばかりじゃない。
 言ってしまえばきっと、猪里のことを困らせる。失望させる。
 それだけは、どうしても嫌だった。
 自分が傷つくのも痛いのも、寂しいけれど慣れている。
 その痛みの切なさを知っているからこそ、余計に。
 誰かが、今は自分の目の前にいる優しい先輩が、その痛みを味わうのは嫌だった。



「猿野は強情とね。それに、意地っぱりたい」
 呆れたような猪里の言葉に、天国はぎゅっと目を閉じた。
 優しい優しい先輩を、怒らせてしまったと。
「でも、そげん所も猿野のよかところたい」
「い…のり、先輩?」
 閉じた瞼に触れた、暖かい感触。
 驚いて目を開けると、猪里の顔が目の前にあって。
 至近距離で目が合うと、猪里はにっこり笑った。



 天国の大好きな、優しい笑顔。
「話してみちゃらんね」
 言いながら、猪里は天国の頬に口付ける。
「聞かしぇてくれんね」
 今度は、反対側の頬に。
「俺は、猿野の言葉ば聞きたか。猿野のことが、もっとちゃんと知りたか」
 額に、鼻先に、唇に。
 暖かくて、くすぐったくて、天国は肩を竦めた。
 猪里はそんな天国を見てまた笑う。



「我侭だって怒ってもよかよ。それぐらいじゃ揺るがなかくらい、俺は猿野のことば好いとうと」
 猪里の言葉に、天国は赤面する。
「聞かせてくれん? 猿野の思うちょうこつ」
「俺、は……」
「どげん言葉でもよか。そいが猿野の言葉ってだけで、俺は嬉しくなるんたい。やけん、聞かしぇてくれんね。猿野の、言葉ば」
 猪里のその言葉に、天国は驚いた顔になった。
 何故、自分の思っていることが分かったんだろうと。
 どうして、自分が欲しいと思っていた言葉をそんなに簡単にくれたりするんだろうと。
 天国はゆっくりと崩れ落ちるようにずるずると、猪里の肩に頭を乗せた。



「俺、ちょっと、悔しかった、デス。先輩が、なんだかあんまり嬉しそうに、故郷の話、するから」
 とぎれとぎれの、言葉。
 ぼそぼそと呟くような声音は、普段のがさつなぐらい騒がしくて笑ってばかりの天国からは想像もつかない。
 けれど猪里はそれに驚く様子も見せず、天国の背中を優しく撫でてやった。
「俺、先輩の家族とか、生まれ育った場所とか、全然知らないなって思って。そうしたら何か、悔しくなって」
 声が震えるのが自分で分かった。
 それに気付いた天国は慌てて唇を噛む。
 泣くな。泣いちゃ、駄目だ。
 ここで泣いたら、何が大事なことか分からなくなる。
 天国は自分の涙腺が脆いことを、一応自覚していた。
 自覚していて、でもすぐ泣いてしまうのは男としてやっぱりカッコ悪いとも思っていて。
 涙を堪えるために猪里の服の裾をぎゅっと掴んだら、そこに猪里の手が重ねられた。



「帰るってことも、今急に聞かされて。先輩の中での俺の位置ってどこなんだろって思って」
 ああ、俺、何言ってるんだ。
 こんなこと言っても、先輩は困るだけなのに。
 先輩が優しいからって、甘えすぎだぞ猿野天国。
 でも、背中に回った手は暖かいし。
 俺の手に重ねられた手も、優しいし。
 ……こんなにも弱い俺が零れるのは、優しくされることに慣れてないからだ。
 多分、きっと。
「そう思ったら、自分がすっげ心の狭い人間に思えて。そんなこと考えてる自分を知られたら、先輩にも嫌われるだろうって思って」
「嫌ったりせんよ」
 自分でも自分の言ってる言葉に整理がつかなくなってきた所で、猪里が天国の言葉を遮るようにそう言った。
 黙らされる形になった天国は、背中に回った腕に力が込められるのを感じて驚く。



「なしてそれぐらいで、俺が猿野ば嫌う理由になる? 俺ばみくびるなよ、猿野」
 さきほどよりも強い語調。
 今まで聞いたこともない、怖いほど真剣な猪里の声音に天国はびくりと身を竦ませた。
 ああ、自分はこの優しい先輩をも怒らせてしまったのかと。
 けれど天国を抱き締める猪里の腕の力は、緩む気配を見せず。それどころかますます力がこめられ、天国は怪訝そうに顔を上げた。
 けれど天国からは猪里の顔を伺うことはできずに。



「そげんこと言ったら、俺の方が怖いんたい」
「怖い……?」
「俺が考えてることば、猿野が知ったら。猿野は一体どげん反応ばするやろ。どげん表情ばするやろ。どげん言葉ば言うやろ。それば考えるだけで、怖いとよ」
 天国は、驚いていた。
 いつも優しげな笑みを浮かべていた先輩が、自分がどんなバカなことをしようと柔らかい響きを持つ言葉で話しかけてくれた先輩が。
 そんな思いを抱えていたなんて。
 苦しいほどの思いを抱えて葛藤していたなんて。
「嫌われるかもしれなか。二度と話しかけることもできなかかもしれなか。二度と、俺の好いとる笑顔ば見ることもできなくなるかもしれなか。俺がそげん思いばしよること、猿野は分からなか?」



 天国はただただ、驚いていた。
 内心の葛藤などおくびにも出さずにいた、猪里の強靭な精神力に。
 そして同時に、悔しかった。
 猪里のそんな苦しさを微塵も理解できていなかった、自分自身に。
 けれど、去来したそんな思いをも凌駕する感情が、胸の内に存在する。



「先輩……ゴメンナサイ」
「なして猿野が謝るとね? 謝らないけんのは俺の方たい。ごめんな、いきなりこげなこと言って」
「先輩こそ、どうして謝るんですか? 俺、嬉しかったのに」
「嬉し、かった……?」
 呆然とオウム返しで呟く猪里に、天国はこんな時に不謹慎でゴメンナサイ、ともう一度謝る。
「だって、俺と先輩、同じことで悩んでたんだなと思って」
 くすくすくすと笑いながら、天国は猪里の額に自分の額をこつんと当てた。
 驚きも悔しさも、この嬉しさには敵わない。
 苦しさも弱さも、全部含めて一人の人間なのだと。
 それを充分理解していながら、それでも見せたくないと思うのはきっと人間の性だから。
 でも、それでも。



「いーんですよね。悩んでも、迷っても。それを知っていくことも、嬉しい。……そう言ったら、笑いますか?」
 猿野の言葉に、目の前で見せられた輝くばかりの笑顔に、猪里は一瞬息を呑んだ。
 天国はよく猪里の笑顔が好きだと、優しげで羨ましいと口にする。それは勿論嬉しいことなのだが。
 猪里は、天国の笑顔は自分よりずっとずっと強い力を持っていると。そう、思った。
 天国の笑顔は、見ている人間を幸せにする。
 バカなことを言ってもやっても、それでも天国が憎まれないのはその笑顔があるからだ。
 不器用で、上手くいかなくて、どれだけ苦しくても、それでも。最後には必ず、天国は笑う。
 その笑顔は、周りの人間の心をも軽くするのだ。
「笑うわけなかやろ。俺も、猿野と同じこと思うちょったよ。猿野のことなら、どげん些細なことでも知りたい。どげんことでも、知るたびに嬉しくなるったいね」
 猪里の言葉に、猿野はまた嬉しそうな笑顔を覗かせる。




 ……本当は。
 本当のことを言うと、猪里は天国の笑顔を一人占めしたいと思っていた。
 天国の笑顔は好きだ。けれど、その笑顔は訳隔てなく誰にでも向けられる。
 それは天国の裏表のない性格のせいで。猪里は天国のそんな所も含めて全部好きなのだけれど。
 けれど、好きな物を独占したいと思う心はどうしようもない。それがどれだけ間違っていると、ただのエゴなのだと分かっていても、止められない。
 理屈も理性も根こそぎ持っていかれてしまっているから、もう抵抗もできない。
「もう一つだけ」
 顔を隠すように猪里の肩に顔を埋めながら、天国が言う。
「何ね、猿野?」



「俺、先輩の笑顔、好きです。声も、言葉も」
「うん」
「でも俺、先輩の笑顔、時々嫌いになる。すごくすごく大好きなのに。俺だけに向けられないその笑顔が、すごく悔しくなる」
「さ……」
「エゴです、コレ。独占欲ってのかな? 俺の世界、先輩でこれでもかってぐらい埋められてる。抵抗もできないよ、もう」
 ……すごか殺し文句たいね、猿野……
 そう言うつもりが、声にならなかった。
 あまりに強い衝撃に、喉が言葉を忘れてしまったかのよう。
 どうしてこ猿野は、こんなに人の心のツボを突くのが上手なんだろうか。
 しかもこれがほとんど全部無意識でやってるというのだから、まったく性質が悪い。
 しっかり自分が見張ってなければならないな、とも思う。
 この調子で誰とでも接しているのだから、身体がいくつあっても足りない。
 有体に言ってしまえば、よくぞまぁ今まで無事に育ってこれたなと。そう感心してしまう。



「猪里、先輩?」
 反応がないことを不安に思った天国が、猪里を呼ぶ。
 天国はもたれていた猪里の肩から顔を上げ、きゅっと眉を寄せつつ猪里の様子を伺ってくる。
 ついぞ聞くことも見ることもない、天国にしては珍しい不安に揺れる声と、心細げな表情。
 そんな声を聞くことすら嬉しいと思えてしまう自分を、大概重症だと思う。
 自分の知らない相手を知るのは、きっと凄いことだ。
 知らない自分を惜しむのではなく、知ることができた事を喜ぼう。だってきっと、惜しんで悔やむその時間すら勿体ないじゃないかと、君は笑うだろうから。
「俺は、猿野のことが好きたい」
「な、な、なんですかいきなりっ!」
「誰よりも何よりも、一番好いとうとよ。猿野は?」
「い、猪里先輩……?」
 突然の言葉に天国は顔を真っ赤にしている。
 ついさっき、自分の声が、言葉が好きだと。そう言ったばかりだというのに。
 まぁ十中八九、先ほどの天国の言葉は無自覚なのだろうが。(それはそれで問題大有りだが、今は気にしないでおくことにした)
 思いを言葉にして告げるのはこれが初めてでもないのに、天国は言うたびに照れまくる。
 照れて、赤面して、けれど最後には嬉しそうに笑うのだ。



「言うてくれん?」
「え、あの、えっと」
「言うてくれんね、猿野。俺は、猿野の言葉が、気持ちが知りたかよ」
「あ、うぅ……」
 大好きな声が、耳元で懇願するように囁いている。
 天国は猪里の甘い声が好きだった。優しい響きの言葉が好きだった。そして何より、猪里自身が好きだった。
 だから、お願いされてしまうと弱い。
 耳の奥が痛くなるぐらい、照れまくっている自覚はある。
 鏡で確認なんかしなくても分かる。きっと今の自分は面白いぐらい赤面しているだろう。頬も、耳も、溶けてしまうんじゃないかと思うぐらい熱いから。
「それとも……猿野は、俺のことなんか好きじゃなかと?」
「ち、違いますっ!」
 しょぼん、とまるで飼い主に怒られた子犬のような表情と声で猪里が俯くのを目にした天国は、大慌てで即座にそれを否定した。
 言ってしまってから、天国はぱっと口を押さえた。
 また自分はうっかり失言をしてしまったような気がする、と。



 恐る恐る視線を上げて猪里の様子を伺うと、そこにはにっこりと笑う猪里がいて。
 またハメられてんじゃん、俺!!
 天国は自分がよく喋ることをちゃんと分かっていた。その言葉のせいで問題を起こしてしまうことも、ちゃんと自覚していた。
 その度に天国は"口は災いの元だ"と呟いて、誓うのだ。
 思うままを口にするのはやめよう、と。
 なのに。
 それなのに。
 また、やってしまった。
 ああああ〜と頭を抱えたい気分に陥っている天国とは対称的に、猪里はいっそ清々しいほどの笑顔を天国に向ける。
 ああもう、何でそんなに嬉しそうなんですか、先輩。
 言いたかったけれど、なんだか一気に疲れてしまった天国はその言葉を声にするだけの元気もなくて。



「猿野」
「……ハイ」
「言うて、くれんね?」
「…………」
「言うて?」
 にっこり笑った笑顔の後ろに、優しげな言葉のその奥に、底知れぬ威圧感を感じたのは……気のせいだろうか。
 願わくば、気のせいであって欲しいと天国は節に願う。
 とりあえず、そんなのは牛尾主将か鹿目先輩ぐらいで充分です、と。
 ……ここに兎丸が入っていないのは、兎丸が天国の前では自分の本性をひた隠しにしているからに他ならない。
 まあそれはさておき、猪里の背後に牛尾の生霊を見た気がして恐ろしくなった天国は、かくかくと壊れた玩具みたいに首を振った。
「い、言います言いますっ! 言いますよぅ……」
「ん、どうぞ」
「……が………す」
「聞こえなかよ、猿野」



 指摘する猪里の声が、やけに嬉しそうだ。
 多分、猪里は天国の心境をしっかり把握しているのだろう。
 くそぅ、凄く凄く、恥ずかしいのに。
 すっごくすっごく、必死なのに。
 あまりの恥ずかしさに、目が潤んできたのが分かる。
 でもでも、男に二言はない。
 ここで言わなきゃ一度口にしたことを破ることになる。
 そうだ、だから言わなきゃ。
 言え、言って男になれ、猿野天国!!
 内心で自分を叱咤激励し、天国は自分を奮い立たせる。
「俺も、猪里先輩が、一番好きです」
 一言一言、噛み締めるように。
 真っ赤な顔で、天国はそう告げた。
 目の前にある猪里の顔が、天国の言葉を聞いて嬉しそうに幸せそうに、笑った。



「よぉできました、っちゃね」
 言って、猪里は天国の頬に音を立ててキスを贈る。
 天国はぼぼぼぼ、と音が聞こえてきてもおかしくないぐらい赤面している。
 今時珍しいくらい、天国は純情だ。
 そんな所も可愛いと、好きだと猪里は思う。
「暗くなってきたし、帰ろかね、猿野」
「……ハイ」
「手、繋いでもよかと?」
「……ハイ…ってえぇ?!」
 猪里の言葉にぼんやりしたまま頷いていた天国は、その言葉の意味を理解すると慌てて猪里から離れた。
 予想通りの天国の反応に猪里は苦笑し、けれど逃さないとばかりに天国の腕を掴む。
「手、繋がせてくれんね?」
「で、でも、誰かに見られたら……」
「平気とよ。暗いから見えなか」
「そ、ですか……?」
「そうたい。それに、もし誰かに見られても俺は平気と。むしろ自慢してやるったいね」
「じ、自慢って?」
「猿野は、俺の自慢たい。こんな恋人がいてええやろって、自慢しちゃる」



 猪里は天国の顔の前に指を立て、諭すように言ってやる。
 あまりにストレートな言葉に、天国は照れを通り越して嬉しいと感じている自分がいるのに気が付いた。
「手、繋いでもよかか? 猿野」
「頷いちゃいましたからね、俺。男に二言はないから、いーっすよ」
「猿野は男らしかね〜」
「いーから帰りましょうって。俺、夕飯の買い物してかなきゃなんないんですから」
 猪里の言葉を軽くいなしつつ、天国は手を差し出す。
 もう辺りはすっかり暗くなってしまった。
 早く帰らないとロクな物が買えなくなってしまう。
 育ち盛りの自分には夕飯がマトモに食べられないのは死活問題になる。
 夕飯のことを考えただけで腹の虫がその存在を主張し始めようとしたのに気付き、天国は無意識に腹を押さえていた。



 そんな猿野の手を取って、猪里はふっと笑う。
「相変わらず主婦しとうとね、猿野は」
「主婦って言わないでくださいっ」
 膨れっ面になる天国と、一見すると邪気のない笑顔の猪里。
 手を繋いだ二人は、ゆっくりと歩き出した。
「褒めとるとよ? 猿野の作る料理は美味しいけん」
「別に、そんな褒められるもんでもないですよ。必要に迫られてやってたから、慣れてるってだけで」
「ん〜、謙遜する猿野も可愛かね〜♪」
「おだてても何も出ないですよ? っていうか先輩も料理できるじゃないですか」
 呆れたように言う天国は、どこか冷めた目を猪里に向けた。
 猪里は十二支高校に通うために田舎から出てきたわけで、高校に入ってからは一人暮しをしている。つまり、必要に迫られて自炊経験もある。
 そんな猪里に言われても説得力がない、と天国は言いたいらしい。



「やけん、猿野の料理は特別たい。なんたって愛がこもっとるけんね」
 口説き文句のような猪里の言葉に、けれど天国は赤面した。
 お、臆面もなく堂々とよくそんなこと言えるなアンタ……
 そう言ってしまいたかったけれど、なんとか我慢した。
 言い返した所で、更に聞くに堪えない言葉を言い返されてしまいそうな予感がふつふつとしたからだ。
「……言外に食べたいって言ってませんか、それ」
「招待してくれるとね? 嬉しか〜。それじゃお言葉に甘え……」
「わわわわっ、言ってません言ってません言ってません言ってませんって!」
 猪里の言葉に驚いた天国はふるふるふると痛くなるんじゃなかろうかという勢いで首を振った。
「そげに必死にならんでも……」
「新しいスパイク買いたいから、今月は節約してるんですッ」
「……やっぱり主婦たい」
 一円一円大切にしていかないと! と拳を握る天国に、猪里は思わずそう呟いていた。



「何か言ったっすかっ」
 案外耳聡い天国はその呟きをきっちり聞きとがめていたらしく、キッと猪里を睨んだ。
 そんな顔もいいなぁなんて思いつつ、けれどそれを気取られないように猪里は肩を竦める。
「じゃ、今夜は頑張る後輩に優しい先輩がご馳走してやるったい」
「マジっすか?!」
 思いもかけない猪里の言葉に、天国はパッと目を輝かせた。
「男に二言はなかよ。猿野は何が食べたかと?」
「猪里先輩に合わせますよ。俺、好き嫌いないですし」
「そんなら、とりあえず繁華街行って、その場で適当に決めるって感じでもよかね?」
「はい♪」
 今の天国に尻尾があったら間違いなく嬉しそうにぶんぶん振っていただろう。
 それぐらい、天国は嬉しそうだった。





 ……ご飯も嬉しいけど、先輩と少しでも長く一緒にいられることの方が嬉しいって言ったら……笑われっかな。
 ま、恥ずかしいから絶ッ対に言わないけど、さ。
 つうか、言わなくても伝わってそうな気がするし。
 内心で考えながら、天国は繋いだ手に視線を落とした。
 繋いだ手から伝わるぬくもりはただただ暖かくて、なんだか泣きたいような気分になる。






 とりあえず今は、言っておくことにしようか。



 なんだか、言わずにいられない気分になってしまったから。



「猪里先輩」



「ん、なんね、猿野?」





「俺、猪里先輩といる時間がすごく好きで、大切です」




 ま、いちいち言わなくても伝わってるとは思うけどさ。
 でも、俺もたまには見たいじゃん?
 先輩の照れる姿。





  END


 

サイト初お目見えミスフル話でした。また無駄に長い。
しかも馬猿中心だとか言いながらいきなり猪猿書いてるYO!
どうしても天国の誕生日にこのページOPENさせたかったので、フロッピーの中に眠っていたこの話に出てきてもらいました。
実は書いたのは結構前だったりします、この話。
猪里先輩の方言がものっそ書きたくなって衝動的に書いた話でした。(衝動的のわりに長い)
出身九州なんでなんとなく親近感〜♪
でも同じ九州でも博多弁と鹿児島弁は結構違う…もしかしたらうちのいのりん、鹿児島弁喋ってる所あるかも…
そんなこんなでミスフル始動っす!!


UPDATE/2002.7.25(HAPPY BIRTHDAY,AMAKUNI!)

 

 

 

          ※ブラウザを閉じてお戻りください。