Ver.司馬葵

「声を聞かせて」





 静寂を破る電子音。
 眠りを妨げられた天国は、不機嫌そうに唸りながら携帯に手を伸ばした。
 慌てる様子がないのは、鳴り響いた音がメールの受信を知らせるものだったからだ。


「うー……誰だあ?」


 眠い目を擦りつつ、二つ折りのそれをぱちんと開く。
 液晶画面から放たれる仄明るい光が、天国の顔をぼんやりと照らした。

 メールの差出人は「司馬葵」だった。

 最近のこの時間帯、天国が就寝中であることを司馬は知っている。
 それなのにわざわざメールを送ってくるということは、余程急ぎか大切なことなのだろう。
 そう判断し、天国はもそりと体を起こした。

 携帯を操作し、メールを開く。
 そうして現れた本文に、天国は首を傾げた。
 メールの内容は、こうだった。



『 こんばんわ。ごめんね、寝てるところに。
  起こしておいてなんだけど、少しだけ時間もらえるかな?
  勿論ダメだったらいいから。その時は返信しなくていいよ 』



 普段喋らない司馬の、雄弁な言葉。
 始めてメールを貰った時には、司馬はこんな風に話すのかと妙に嬉しくなった。
 内気で優しい態度と同様に、柔らかな響きの言葉。
 いつか司馬自身の声で、この言葉が聞けたらと思ったのをハッキリ覚えている。

 それはともかく、今はこのメールの内容を考えるのが先決だ。
 内容から察するに、どうやら火急の用などではないらしい。
 けれど、こんな時間帯に連絡をしてくるのだから何かしらあるのだろう、とは簡単に想像がつく。


「ってか、ここまで言われて無視したら、俺鬼じゃんよ」


 一体何なんだ、と口の中で呟きつつ、天国の指の方はしっかりぷちぷちと文を作成していた。
 打ち込んだ文に誤字やおかしな所はないか、ちゃんと確認するのも忘れない。



『 別に平気だから、そんなかしこまんなくていーって。どうかしたのか? 』



 大丈夫そうだと確認した天国は、送信ボタンを押した。
 画面がメール送信画面に切り換わる。


 数瞬置いて、ふたたびメール受信を知らせる音が鳴った。
 司馬はメールを打つのが早い、といつも思う。
 自分の入力が遅いとも思っていないが、司馬の返信の早さは驚異的だと密かに考えていた。
 ついでに、いつか司馬がメールを打っているところを見てみたいな、とも。
 先日電車内で見た女子高生のように、親指が凄い早さで動いていたりするのだろうか。



『 ちょっと言いたいことがあって…
  言わないと気になって眠れそうにないから 』



「言いたいこと? 眠れそうにない? ……苦情か?」


 俺、司馬に何かしちまったんだろうか。
 そう思って今日1日を振り返ってみるが、特に何もない。
 なかった…と、思う。
 ただ、自分ではそう思っていても、自分以外の人間皆が皆同じ感覚でいるとは限らないものだから。
 自分以外の人間の心は、分かりえないもの。
 もしかしたら、知らないうちに何かしてしまったのかもしれない。


「うーん……まあとにかく、聞いてみるか」


 考えてみたところで、分からないものは分からない。

 それなら、聞けばいいだけのこと。
 単純かもしれないが、それが一番早いし確実だ。
 そう判断した天国は、ぷちぷちと文を打った。



『 言いたいことって? 』



 シンプルかつ明快に。
 言いたいことはそれで伝わるのだから、長々と文を続けることもない。
 これでよし、などと一人頷いてみたりしつつ、打った文を送信した。

 数瞬置いて、携帯が電子音を奏でだす。
 その音に、天国は目を丸くした。
 鳴り出した音はメール受信を知らせるものではなく、着信を示すものだった。

 司馬用に、とセットしたその音はクイーンの「We Will Rock You」だ。
 着信音として耳にするのは、実にこれが初めてだった。


「と、やべぇ。出ねーと」


 思わず感慨に耽ってしまったが、こうしている間にも司馬には呼び出し音が続いているのだ。
 我に返った天国は通話ボタンを押すと、携帯を耳に押し当てた。
 柄にもなく少しばかり緊張している自分に、つい苦笑する。



「え、と……司馬?」

『…………』

「もしもしー?」

『…………』


 問いかけに、返ってきたのは沈黙だった。
 普通なら気分を害する場面なのだろうが、天国はああやっぱりなー、と司馬に気付かれないように笑った。
 相手が他の誰あろう、司馬だから。

 おそらく今電話の向こうでどうしようどうしようと、困っているに違いないのが安易に想像できた。
 だから、怒る気になどなれるはずもなく。
 それどころか電話をかけることでさえ司馬にとっては一大決心を要するものだっただろうと思うと、むしろよく頑張ったと言ってやりたい気分にさえなった。


「司馬? 大丈夫か? 無理しなくていーぞ? 電話してくれただけで充分嬉しいし」

『さ、るの…』

「うわっ! 喋ったっ!」


 電話の向こうから、囁くようにして聞こえてきた声。
 おずおずとした、けれど天国のそれよりか幾分低い感じのする音は、紛れもなく司馬の発する声だった。
 初めて耳にする声に、思わず驚いて声を上げてしまう。
 そうしてから、自分の声が司馬を驚かせてしまったのではないかと気付いて慌てた。


「ああっ、ごめんごめんごめん、司馬っ。吃驚しただけ。マジ悪い、ごめん、続けてくれ、な?」

『ごめん、ね?』


 捲し立てるような勢いで天国が謝れば、電話の向こうから返ってきたのはそっと囁くような謝罪の言葉だった。

 言葉を覚える前の子供じゃあるまいし、いい加減高校生ともなれば喋ることくらいで驚くことなどないのだろうけれど。
 今の場合は、特別だと思う。
 内心でそんな言い訳をしながら、天国は今更ながらに司馬の声を聞けたことを嬉しく感じ始めていた。

 一寸先は闇、というと少し違う気もするが、まぁそんな感じで。
 人生何が起こるか分からないもんだなぁ、と。
 そんなことを思わず考えてしまった。


「あ、や、あのさ、司馬。ごめんって、何がだ?」

『遅くに、電話して』

「ああ、それなら全然平気だって。それどころか、お前とこうやって喋れたの、すっげー嬉しいし」


 またも沈黙。
 電話の向こうでは、司馬が顔を真っ赤にしているのだろう。
 天国としては、事実を正直に言ったまでなのだけれど。

 うーん。
 声聞いた感想言ったりなんぞしたら卒倒しかねねーかも。
 ……やめとくか。

 返される沈黙に苦笑しながら、そんなことを考える。
 鼓膜を揺らしたその音が、綺麗だと。
 そんなことを、思ったのだけれど。


「電話は、まだ平気なんだな」

『うん、緊張はするけど……面と向かって話すよりかは、声が出せるから』

「そっか。見られるのがダメなんだっけか」

『治さなきゃとは、思ってるんだけど』


 司馬の声は、天国の耳に心地よく浸透した。
 静かな波音のような。
 木の葉がさやめくような。
 不思議と相手を安心させる響きを持った、そんな声だった。

 告げられる言葉に、天国は笑う。
 電話の向こうの司馬には見えないと分かっていながら、元気付けるかのような笑い方で。


「大丈夫だと思うぜ?」

『そう、かな…?』

「今こうやって話せてるんだから、絶対平気だって。近い将来、面と向かって話せるようになる!」

『うん、そうなると、いいな』

「いいな、じゃなくて、そうするんだよ。大丈夫って思っときゃ、何とかなるって」


 ちょっと大げさな物言いで。
 我ながら根拠がない言葉だな、とは思うけれども。
 何より、天国自身が司馬と話をしてみたかった。
 天国の言葉に、司馬は少し笑ったようだった。


「あ、ところで司馬。言いたいことって何なんだ?」

『あ、うん……あの』

「うん」

『た』

「た?」

『誕生日、おめでとう』


 電話の向こうの、逡巡している様子に少しだけ笑っていた天国だが。
 告げられた言葉に、思わず固まってしまった。
 まさか、そう来るとは欠片も予想していなかったのだ。
 大体、日付的にはまだ24日の為、正確にはまだ誕生日ではない、のだけれど。

 自分の置かれている状況を把握しようと、天国はぱちぱちと目を瞬かせた。
 そうこうしているうちに、電話の向こうで司馬が大いに慌てているのが伝わってくる。


『ご、ごめんまだ日付変わってないのに。でも、あの、どうしても最初に言いたかったんだ』


 いっそ可哀想なほど慌てている司馬の声を聞いているうちに、天国の方は逆に落ち着いてくる。
 驚きから回復するのと同時に、段々喜びが込み上げてきた。
 時間的にはまだ、24日なのだけれど。
 天国は部屋の壁にかけられている時計を、ちらりと見上げた。


「司馬、しーば。いいからちっと落ち着けよ」

『う、ん』

「俺の部屋、もう25日だから」

『え……?』

「俺の部屋の時計な、ちょっと早いんだ。だから、もう25日になってんだよ」


 携帯は今使ってるから、表示されている時間は見られないし。
 言いながら、司馬には見えないだろうと知りながらも肩を竦めてみせる。
 見上げた時計は、25日になってから3分が過ぎようとしていた。

 微妙に合っていないのを知りながら直していなかったことに、まさか感謝をする日がこようとは想像もしていなかった。
 告げられた言葉、それは何の変哲もないものだ。
 幾度も耳にした、使い古された単語だ。
 けれど。司馬の声が音にして告げた、それだけでその単語が他の何よりも大切なもののように感じられた。

 音が視覚化されたとしたら、きっときらきら輝いて見えただろうに違いない。
 らしくもなく、そんなことを考えてみたりして。


「だから司馬、一番乗り。それと、ありがとな。祝ってもらえるのって、やっぱ嬉しい」

『他の、ひとたちと一緒だと……埋もれて、気付いてもらえなさそうだな、と思って』

「……んなことねーよ」


 携帯を握る手に少しだけ力を込めて、天国は静かに首を振る。
 電話越しの相手には見えないのだと分かっていても、そうしなければいけないような気がしたから。
 司馬の言葉を否定する天国の声には、少しの怒りと少しの落胆とが入り混じっていて。
 それに、司馬が気付かない筈もない。


『あ、の…猿野?』

「俺は、お前がどんなでも見失ったりしねーよ。お前が、俺を見てくれる限りはな」


 だから、気付いて欲しいと思うのなら、目を逸らさないでいて。
 向けられる視線になら、意識を向けられるから。
 ちゃんと、気付くことができるから。

 天国は、何故自分はこんなことを言っているのだろう、と不思議に思っていた。
 司馬が、自分は目立たないからと。自分は皆に埋もれてしまうのだと、そう言ったこと。
 その言葉が、無性に引っ掛かった。
 何故だか分からないけれど、ただただその言葉を否定したかった。


「俺は、司馬が司馬であることをやめない限りは、ちゃんと司馬のこと見てるから。だから、そういうこと、言うなよ。そういうこと言われると、なんだか哀しい」

『猿野……』


 木々のさやめきのような声で、司馬が天国の名を呼んだ。
 その声に、天国は夢から醒めるような感覚を覚える。
 つい夢中になって言ってしまったが、自分は何を言っているのだろうかと。

 我に返った天国は、慌ててばたばたと手を振った。
 …電話なのだから、相手に見えないというのに。


「あ、や、えっと…あのさっ」

『猿野』

「はいっ」

『……ありがとう』

「あ?」


 一人慌てていた天国は、聞こえてきた言葉に目を瞬かせた。
 司馬がその言葉を発した意図が分からず、思わず動きが止まる。
 天国のそんな様子が、見なくとも分かったのだろう。
 電話の向こうの司馬は、僅かに笑ったようだった。

 笑われたのは分かったが、困惑している天国はそれを問い質すことはできなかった。
 一度混乱すると、頭を切り換えるのは難しい。
 天国のように、考えるよりも先ず行動、な人間にとっては尚の事。


『猿野の言葉は、俺に……勇気を、くれるから。だから、ありがとう』

「へ、あ、そか? あー、えと、どういたしまして…?」


 首を傾げながら言った天国は、この言葉は逆なんじゃなかろうかと思う。
 普通は、祝いの言葉を貰った方が礼を言うものではないか。

 一瞬胸の内に湧いた疑問は、けれどすぐに霧散する。
 そんなこと、どうでもいいことだ、と。
 それより何より、今は自分も返さなければならない言葉があるから。


「司馬、俺も…俺からも、ありがとな」


 届けばいい。
 嬉しい気持ちが、声という音に乗って、少しでも伝わればいい。

 そんなことを思いながら、ありがとうと伝えた。
 嬉しい気持ちは、誰かを幸せにする。
 優しい気持ちは、誰かを暖かくする。

 そんな気持ちが、想いが、少しでも伝わるように。
 電波越しだけれど、ただそれを願いながら言葉を紡いだ。
 内気で優しい、それでいて芯は強い彼に、自分の嬉しい心を伝えたかった。


「……司馬?」


 告げた感謝の言葉に、けれど訪れたのは沈黙で。
 どうかしたのかと天国が少しばかり不安になっていると。


『猿野』

「へ? 司馬、俺何か言っちまったか?」

『俺、言葉が足りないから……上手く言えない、けど』

「うん」

『ありが、とう』


 生まれてきてくれて。
 出会ってくれて。

 ありがとう。


 天国の鼓膜を穿ったのは、そんな優しい音だった。
 涙腺が、止める間もなく堰を切る。
 頬を伝う涙に焦るが、どうしようもなくて。

 言葉を発する事が出来ずにいると、天国が泣いている事に気付いた司馬が、多いに慌て出した。
 そのあまりの焦り具合に、天国は泣きながら笑う。

 明日は、一番に司馬に挨拶をしよう。
 そうして、泣かせた責任を取れとでも詰め寄ってみよう。
 司馬はきっと、赤くなったり蒼くなったりおろおろするだろう。



 嬉しい気持ちも、優しい気持ちも、きっと誰かを幸せにする。
 暖かい心は、減ったりしない。

 だから、いつか、この先の未来で。
 優しい音を、目の前で聞かせてくれればいい。



 そう、言ってやろうと。
 慌てたせいかしどろもどろになっている司馬の声を耳に心地よく聞きながら、天国はそんな計画を立てていた。



END






UPDATE/2004.8.27

 

 

 

 

 

 

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