かえるから。




 ちゃんと。




 ちゃんと、還るから。










 ……たとえ、この身がなくなっても。







    
寂しい心の回帰る場所






 死ぬ、間際には。
 何だっけ、いまわのきわ、ってーんだっけ。
 あー字が分かんねぇや。
 でもいっか。誰に何か言われるわけでもねーし。

 で、何の話だっけか。
 えっと。
 あ、そうそう。
 死ぬ間際にはさ。
 生前の記憶を思い出すって、そういう話を聞いてたんだけども。
 何つったっけか。
 あーっと、走馬灯だ。

 てか、何で走る馬の灯火って書いて走馬灯?
 うーん、世の中にはちょっとした疑問が多いよな。
 調べりゃすぐ分かりそうなんだけど。
 んな暇ねーか。あーあ。

 まーた脱線したけども。
 まぁともかく。
 死ぬ間際には、走馬灯とかいうのがあるって聞いたんだけど。
 全然だ。
 ちっともねえよ、そんなん。
 痛くて、寒くて、それどころじゃねーし。

 洒落なんねーぞコレ。ああ、ちくしょう。
 そんでもって情緒の欠片もないことに、こんな場面だってーのに腹減ってきたし。
 ……喉、乾いてきてるし。
 これ、もしかしなくても……ヤバイってやつなんかな?


 段々と上手く働かなくなっている思考を自覚しつつ、天国は内心で罵倒にも近い呟きを繰り返し続けていた。
 或いは、そうでもしていなければ薄れゆく意識を保っていられないと思ったからだ。
 何も考えずに、先ほどから幾度となく訪れる酩酊感にも似た感覚に意識を委ねてしまえれば。
 きっと眠りに沈み込んでいくかのように、何もない白い世界に包まれるのだろう。
 それはイヤというほど分かっていた。
 そうした方が、楽なのだろうということも。

 けれど、天国はそうしなかった。
 まだ、どうしても意識を失ってしまうわけにはいかなかったから。
 そう言えば、聞こえはいいけれど。
 天国は、ひたひたと聞こえてくる死神の足音に、正直怯えていた。


 恐い。怖い。コワイ。
 死ぬって、どんなんだよ?
 心臓止まって、動かなくなって、そんでどーなるんだよ?

 情けないと笑われようと、構わない。
 そう思ってしまうのは、事実なのだから。
 今更虚勢を張ってみた所で仕方がない。
 ……残り時間は、少ないようだし。




「っ、てぇ……」

 ぽつり、洩らした言葉は。
 その、声音は。
 自分で思っていたよりもずっと小さな、掠れた、震えて今にも消えそうな。そんな、情けない音だった。
 己の鼓膜をかろうじて揺らした、その声に。
 我ながら情けない、と思わず苦笑が零れる。

 笑えるだけ、まだマシなのかもな。

 そんなことを思いながら、息を吐く。
 痛みに意識が浸食されていくようだった。
 それ以外何も考えられなくなりそうで、ふるり、と緩く頭を振る。

 呼吸をするのにも、苦しい。
 一つ息を吸うのも、また逆に吐くのにも。
 喉が、ひゅうひゅうと耳障りな音を立てた。

 天国の左手は、腰骨の少し上、脇腹の辺りを押さえている。
 その手は、今もなお溢れ続ける血のせいで紅に染まっていた。
 ぬらぬらと、いっそ不気味にも見える色。
 あまりにも鮮やかなその色に、最初目にした時はただただ驚いた。
 痛い、とか。
 死ぬかも、とか。
 そんなことではなく。
 ああ、凄い赫だな。綺麗、つってもいいんかな。
 そんなことを、呑気にも考えた。

 冗談のような色のそれは、けれど流れるその度に命が失われていく証でもあって。
 じわりじわりと、確実に削られていく。
 天国が歩を進めるそのたび、押さえた手のひらの下から血が染み出てきて、ぽたりぽたりと零れた。

 刺し傷だった。
 幅広のナイフで、ざっくりと刺された。
 横合いから突然出てきた影に、これまた唐突に刺されたのだ。
 驚きはしたが、そのまま殺されてやる気など毛頭なく。
 相手も、おそらく恐怖半分だったのだろう。
 天国が持っていたカバンを相手の顔に向けて投げると、あっさり転んでくれた。
 その隙に逃げ出してきて、今に至るのだ。


 天国の傷は、それだけではなく。
 右肩と、右手首の少し上辺りからも出血していた。
 銃傷だった。
 右肩の傷は、掠り傷程度だったけれど。
 右手首の方のそれは、未だに傷の中に銃弾が残ったままだった。
 始まってすぐ、どこへ行こうかと悩んでいたその時に撃たれた傷だった。

 応急手当程度ではあったが、一応止血はしてある。
 けれど、怪我をする前に比べれば格段に動きは鈍っていた。
 上手く力が入らない。
 自分の意思通りに動いてくれない。

 右腕を犠牲にしたのは、致命傷を避けるそのためだった。
 命と右腕を天秤にかければ、右腕一本を差し出す方が利口だろう。
 そう考えて。
 けれど、思っていたよりもずっと、引き攣るような痛みを訴える右腕は天国の精神に打撃を与えた。
 その理由は。

「もう、野球、できねぇかな……」

 この腕じゃ、フルスイングができない。
 バットが上手く握れるか、振れるか、それすら分からない。
 そのことが、天国の胸に重く圧し掛かっていた。
 そんなことを心配していられるような状況でないことなど、分かっていたけれど。
 分かっていることと、割り切ることは違う。

 上手く動かせなくなった右腕の代わりに、生き長らえた。
 それが、事実。
 ただ、それだけだ。
 心のどこかが壊れてしまったのかもしれない、と天国は思う。
 野球が出来なくなるのは、辛い。淋しい。
 その事実は何より天国の胸を締め付ける。
 それなのに、天国は涙の一つも流さなかった。
 流せなかった。
 涙腺の弱さなど、自他共に認めている事実だというのに。
 その、自分が。
 涙の一つも、出なかった。

 右腕を失ったその時も。
 混乱の中はぐれた親友、その名を犠牲者の中に聞いた時も。
 己の身を取り巻く出来事すべてが、別の世界で起こっているかのようにさえ思えて。
 耳に入る銃声も悲鳴も、天国の耳にはどこか遠くに聞こえた。
 或いは、あまりにも色々な出来事が一度に起こり過ぎて精神が麻痺してしまったのかもしれない。



 こうして歩いていても、もう何もかもどうでもよかった。
 流れ落ちる血が、歩くそのたびに草の上に染みを作っていく。
 零れ落ちて行く、命。
 失われていく、己の時間。
 冷えた心は、それを至極冷静に受け止め、見据えていた。

 あーあ、勿体ねーなー。
 この垂れ流しな血、献血させろっての。……したこと一度もねーけどさ。

 血が止まらない。
 止まる素振りも見せない。
 本能的に傷口を押さえてはいたが、天国は最早それをどうこうしようとは思わなかった。
 それが致命傷であることぐらい、とっくに解していたから。


 皆、どうしているだろう。
 俺のクラスがこのふざけたプログラムに選ばれたって、もう伝わってんかな。
 ごめんな、俺、野球できなくなっちまったみてーだわ。
 それどころか、多分もう。
 顔を合わせることも、ないんだろうな。
 言いたいことは、たくさんあるんだけどさ。
 一人一人に、伝えたいこともあるんだけど。
 時間、ねーみたいだから一言にまとめさせてくれや。悪いな。

 俺、楽しかった。
 素人で、迷惑もたくさんかけたんだろうって、自覚はあるけど。
 楽しかったよ。


 どうも、ありがとう。


 なんか、もうそれだけだ。
 言いたいこと、言うべきこと。
 余計な言葉なんかいらないよな。
 それだけでいいんだ。
 面と向かって言えないのが、すごく残念だけど。


「っ、はぁ、くそ……止まんなよ、足」

 がく、と崩れかけた己の膝を叱咤する。
 今倒れれば、きっともう起き上がれない。
 天国の顔は、既に蒼白を通り越して紙のような色になり始めていた。
 もう自分では分からないが、きっと辺りにはひどく血の匂いが漂っていることだろう。

 ああ、頼むよ。
 もう少し、もう少しなんだ。

 微かに薫る潮の匂いが、それを告げている。
 天国の向かう場所、その目的地がもうすぐそこなのだと。
 嗅覚なんて、己の血の匂いのせいですっかり麻痺していたそのはずなのに。
 潮の匂いばかりはしっかり分かる自分に、ふっと笑いが零れた。

 天国の向かう先。
 それは、海だった。
 海の見える場所、そこを目指していた。
 最期るなら、そこがいい。
 俺の住んでいた街の、少しでも近くが。


「ぅ、く……?!」

 くらり、と景色が傾ぎ、天国は慌てて傍らの木に手をついていた。
 縋りつくように木の幹に額を擦りつけ、強く唇を噛む。
 己の呼気音が、ひどくうるさい。
 全力疾走した直後のようなそれは、天国の残り時間の短さを示唆していた。
 死へ向けての、疾走。
 そのせいで乱れる、呼吸。

「くそぅ……ち、くしょう……ちく、しょ……」

 ちくしょう。
 なんで。
 なんでだよ。
 悔しい。
 苦しい。
 ちくしょうちくしょうちくしょう!!

 たった一言を発するだけでも、ひどく苦しい。
 肺がきりきりと、絞られているように痛む。
 それでも、止められなかった。
 内心での、誰に向けているかも分からない罵倒でさえも。
 それを止めてしまえば、自分が自分でなくなりそうで。

 俺は、俺のままでいたい。
 俺のままでいる。
 何があっても。
 それだけは、変わらない。
 誰にも、どうにもできない。
 この、心だけは――


 木についていた手を、ぐっと拳の形にして握る。
 悄然とした表情の中、それでも天国の目の色は変わらない。
 冷えてしまった心、それでも芯に在る「天国」を天国たらしめている部分は変わったりしない。
 強い光を放つ、強い意思を宿すその瞳だけは。
 誰にも、何にも貶められることはない。
 そうして、それが何よりの己が己である証。


 肺に溜まった淀んだように思える息を、思いきり吐き出して。
 天国は、顔を上げた。
 木にもたれていた手を離し、歩き出す。
 上がりきらない足は引きずられていたけれど、それでも。


 少しでも、ほんの少しだけでも、近くがいいんだ。




 程なくして、海が見えた。
 どうやら、ようやく島の端に出たらしい。
 皮肉なほどに冴え渡った空、その下では青い海がきらきらと光を受けて輝いている。
 こんな状況でさえなければきっと、楽しめたのだろうに。

 ふらふらと、それでも天国は島の端、ぎりぎりまで歩む。
 そこから覗き込んだ海は、なんだか吸い込まれそうな深い色をしていた。
 くらり、と貧血からだけではなく頭が揺らぐ。

「こえ〜……」

 そんな風に思える自分が可笑しくて、思わず笑い混じりに呟いていた。
 遥か下方で、波頭が白く散っている。



 天国は、ずるずるとその場に座り込んだ。
 ここまできて気が抜けたのか、傷口を押さえていた手も役目を終えたとばかりに力なく投げ出された。
 強張っていた体から、急速に力が抜けて行くのが分かる。


「……こ、えっかよ、俺の……こえ」


 聞こえるか?
 なあ、聞こえてるか?

 聞いて、くれるか?

 ごめんな、俺、もうお前とキスできねえや。
 今だから言うけど、俺お前とのキス、好きだった。
 すごくすごく、好きで仕方なかった。
 それは、当たり前だけどお前が好きだからで。

 お前が俺を好きだっつってくれて、キスをくれるのが。
 本当は俺、嬉しくてたまらなかった。
 好きだった。
 過剰過ぎて恥ずかしい時もあったけど、でもちゃんと、好きだったよ。

 いつだったっけか、メールでそれと悟らせるようなこと書いたらお前、すっ飛んで来たよな。
 必死な顔で、これちゃんと言ってくれ、言葉にしてくれって言うからさ。
 滅多に見れない真剣な顔に、なんだかおかしくて嬉しくて、すごく笑った。
 結局、それをお前に言うことはなかったけど。

 ごめんな、ちゃんと言ってれば良かった。
 今になって、こんなこと言ってもどうしようもないなんてこと。ちゃんと分かってるけど。
 それでも俺は、お前に言いたかったよ。


 俺は、お前がちゃんと好きだって。
 お前のくれる言葉もキスも、全部全部好きでどうしようもないって。



 視界が霞んで、天国はそこでようやく自分が涙を流しているのだということに気付いた。
 もう、ずいぶん長いこと涙なんて流していなかったような気がする。
 このくだらないプログラムとやらが始まったのは、たった2日前だというのに。
 なんだか遠い昔のことのように感じられた。

 凍ってしまったと、或いは壊れてしまったとばかり思っていた、心が。
 ゆるゆると、溶けていく。
 ちゃんと、動いている。
 生きている。
 ぱたぱたと、頬を伝って流れ落ちた涙が、草の上や投げ出された足の上に落ちた。

 流れ出した涙に驚いて、けれど天国はふっと微笑った。
 それは、この殺伐とした状況下にそぐわない、暖かな笑顔だった。
 意識せずに零れたそれは、天国の心境そのものだ。


 悔しいけど。
 こんな形で終わるのは、不本意以外のなにものでもないけど。
 それでも。

 やっぱり、思い知らされた。
 俺の心を溶かすのは、お前なんだってこと。
 少し、くすぐったい気がするや。
 そんで、少し不謹慎だけどさ。
 なんだか、嬉しかったりもするんだ。
 何でかって、俺の心の中に、こんなにもお前がいるってことにさ。


 細めた目。
 その視界に映る水平線は、涙で歪んでいたけれど。
 それでも、天国の心の内は自分でも驚くほど穏やかだった。
 海から吹く風が、頬を撫でる。
 血で濡れた髪が揺れて、乾いた音を立てた。



 俺は、俺のカラダは、ここで最期るよ。ここで、死ぬ。
 残念だけど、それはどーにもなんねえや。
 だけど、俺は、還るから。ちゃんと。

 お前のところに。お前の傍に。

 この心は、還るから。

 回帰、するんだ。お前の、心に。

 お前は笑うかもしれないけど。

 だけど、本当なんだ。

 心は、想いは、回帰していく。
 それは人の心にだったり、場所だったり、様々だけれど。
 おもいは回帰るんだ。
 永劫にも近い年月。変わらずに、回帰っていく。


「みゃあ……」

 俺がこう呼んだらお前、猫の鳴き真似してるみたいだって笑ってたっけ。
 ああ、こういうの思い出すのが、走馬灯ってのか。


 ふっと、空が翳る。
 曇ったわけでもないのに。
 それに、天国は最期を悟った。
 とっくに重くなっていた瞼を、逆らわずにゆっくり伏せる。
 眠りに落ちていくような感覚。
 ずっと身を取り巻いていた酩酊感に、意識を預けた。

 あんなに、怖かったのに。
 怖いと、そう思っていたのに。
 その感覚は、ひどく穏やかに天国を迎え入れた。
 微睡みに、意識が沈んでいく。
 もう目覚めることのない、眠りに。

 それでも、天国はその口元に笑みを刻んでいた。
 鼓膜を穿つ波音が、子守唄のようだとさえ思えた。



 寂しくない。還る場所が在るから。
 みゃあ、俺の心、やるから。
 喰っちゃえよ。お前のもんに、しちまえ。
 お前になら、それも赦せるから。
 むしろ、そうして欲しいと思えるから。

 お前の心も、いつか回帰していく。
 だけど、そうやって一つになってればさ。
 ずっとずっと、一緒だろ?


 なあ……いま、かえるから。





 end






 

 

 

 

クラス単位でのプログラムに巻き込まれた天国の話。
死んでいくことそのものよりも、そこに至るまでの心理状況を書きたかった。

ちなみに。
回帰る、でかえる、と読んでいただけるとありがたいです。
今更ですけれども。その上造語甚だしいですけれども。

UPDATE/2004.1.26

 

 

 

 

 

         ※ブラウザを閉じてお戻りください。