消えない。 ……生きる。 声の彼方、慟哭の涯 海を訪れるのも、随分と久し振りな気がする。 打ち寄せる波の音、靴の裏に踏みしめる、砂の感触。 一つ一つを、確かめるように見たり、聞いたりする。 どれ一つとして、逃したくなかった。 数時間前までは、部室にいたのに。 今は、海を目の前にしているなんて、なんだか嘘のように思えてくる。 色々なことが起こり過ぎて、意識が飽和状態なのだろう。 思い返して、そうしているうちに段々全てが夢の中の出来事のようにも感じられてくる。 いっそ、そうならいいのにと思う。 けれど、吹きつける生ぬるい潮風が、これが変え難い現実なのだと御柳に教えていた。 水平線の彼方に目を向けるが、島影は見えない。 時折、船らしき影が動くのが見えるくらいだ。 一番近い場所、と言ってもそれだけの距離がある。 その、どうしようもない距離が、どうにも悔しい。 寂しい。 届かない。 その距離が、ただどうしようもなく。 それでも。 気休めなのだと、今の行動が自己満足にしか過ぎないと誰に詰られようと、構わなかった。 動かずにいられなかった。 そうすることで、天国と自分との間にある距離の広さを改めて見せつけられることになっても。 その距離の広さに、横たわる深さに絶望することになろうとも。 結局、誰かに向ける想いというのは、エゴなのだ。 愛だろうと、恋だろうと、憎しみだろうと。 それはきっと根本的で、どうしようもない。 他人のことは切り離せても、自分のことはどうやったって切り離せない。 それが事実で。 切り離せない己というものを優先すること、それが責められるべきだとは思わない。 御柳がここに来た事だって、天国にそうと望まれてしたことではない。 それもやっぱり、自己満足でしかない。エゴだ、ただの。 そのことを、御柳は否定するつもりはなかった。 けれど、人を想う気持ちはエゴばかりじゃなくて。 想うだけで暖かくなったり、時として涙したり。 想われることで、笑えたり優しくなれたり。 それもまた、想うことの真実。 言葉ではなく、教えてくれたのは天国だ。 だから、御柳はここに来た。 天国に望まれたわけじゃないけれど。 今となってはもう、天国の望みは分からないけれど。 ならば、ただ自分の記憶の、心の中に在る天国の笑顔が見たいと、そう思ったから。 「来てやったっつの。俺にこんなことさせんの、ホンットお前ぐらい」 呟きながら、波打ち際に歩いていく。 海が、日の光を反射するのが眩しい。 きらきらと、目に突き刺さるような光に御柳は目を細めた。 はからずしも、今の自分の顔は笑っているように見えるんだろうなと思う。 「ああそうだ。預りもんがあったんだっけか」 思い出した、と鞄の中に手を突っ込む。 しばらくごそごそと中身をかき回していた御柳が、ようやく手を引っ張り出した、そこには。 「屑桐さんが、持ってけってよ。センベツだとさ」 少し土で汚れた、けれど、それでも白い。 野球ボールだった。 部室を出る時に、投げ渡されたのだった。 言葉少なに、それでも彼なりの万感の思いをこめて。 手に馴染むボールを、くるくると回しながら御柳は笑う。 「何も言ってなかったけどなー、あの人、ぜってーお前と再戦したかったんだぜ? あれでいて負けずギライだかんなー」 まあそれぐらいでなきゃ、あの野球部での主将は務まらないのだろうけれど。 鞄を背後に投げやり、御柳はボールを強く握った。 握ったその感触は、幾度となく味わったもの。日常の感覚。 今、御柳が置かれた状況は日常とは言い難いのに。 強く握ったそれに、どこか安心する自分がいることに御柳は気付いていた。 「ちゃーんと……取れよっ!!」 振りかぶって、力の限りに投げた。 視界に広がる蒼の彼方、海と空が入り混じる水平線にまで届くように。 そんなことありえはしないと分かってはいたけれど、そうなるように願いながら。 投げたボールは、海と空の蒼を切り裂くように白い軌跡を描いて、飛んだ。 その様が、鳥が飛び立ったように見えた。 もうこの手に戻らない、白い鳥が飛んだ。 ……そんな風に、見えた。 「取れたかよ、天国!」 踏み出した足の先が、波に濡れる。 御柳の問いに返る声はない。 天国が視線の先にいたのなら、取れるわけないだろ、と怒ったに違いないのだろうけれど。 その声も、表情も。 全てが容易に想像できて、それができてしまう自分がおかしくて、御柳は一人笑う。 一瞬笑って、けれどその顔からはすぐに笑いなど立ち消えた。 「あまくに……っ」 こんなにも、分かるのに。 どうしてお前が、この場所にいないんだよ。 寄せる波のように、喪失感が心に押し寄せる。 何もかもを飲み込んでしまいそうなそれに、抗う術がない。 無防備な心は、たちまちに痛いほどの虚無感を訴えた。 握った拳が、かたかたと震え出す。 立ち尽くすことしかできない自分に、御柳は悔しげに奥歯を噛みしめた。 天国、天国、天国。 繰り返す声に、けれど応えはない。 分かっていた。 分かっているそのつもりで、ここに来た。 けれど、それがこんなにも辛いことだとは思わなかった。 「天国、呼んでんだろ、答えろよ、なあ」 声が、震える。 御柳は握った拳で、額を押さえた。 強い力で握り締め過ぎた指先が白くなっていたが、それにも気付けずに。 ただ、頭が痛かった。 それ以上に、何より心が。 耐えられないほど、痛かった。震えていた。 痛い。 寂しい。 縋りたい。 …何に? 天国は、もう、いないのに! 「ちくしょ……ちくしょう、ちくしょう、天国ぃ……っ」 答えて欲しい。 笑顔が見たい。 その頬に触れたい。 ……傍に、居たい。 「……あ?」 その瞬間、御柳は去来していた想いも忘れて、ぽかんと口を開けていた。 頬を伝った、涙に驚いて。 握っていた拳をほどき、慌てて頬に指をやる。 指先が、濡れた。 あれほどまでに、泣けなかったのに。 天国が帰って来ないと、それを解した時も。 いくなと、叫びたかった時にも。 どうあっても零れなかった涙が、嘘のように溢れていた。 ぼろぼろと、御柳の驚きにも構わず、意思を無視したように堰を切った涙は零れている。 濡れた指先に呆然としている間にも、ぱたぱたとその手に落ちたりもして。 「天国……?」 思わず呼びかけたのがどうしてかは、分からない。 至極現実主義者である御柳は、魂だなんて信じたことなかったのに。 口をついて出ていたのは、紛れもなく想い人の名。 その名を口にした、それだけのことで安心する。 あたたかくなる。 他の誰かが思い込みにすぎない、と言っても自分にとってはそれが真実。 それ以上のことなど、きっとどこにもない。 俺がここに来たのは、偶然なんかじゃない。 なあ、そうだろ? 俺を、呼んでくれたんっしょ? 「来たっつの、天国」 泣いているその所為で、声が掠れた。 それでさえ、天国へ向かうもので。 御柳は心地良さげに目を伏せた。 もうずっと、泣くことなんて忘れていた。 久し振り過ぎて、目の奥が痛い。 頭もだ。 「うつすなよな……」 こんなにも涙が溢れるのは、天国が自分にそれを伝染したせいだと思う。 苦笑しながら、伏せた瞼をゆっくりと上げる。 海と空の、残酷なまでに優しい蒼が、視界を埋め尽くす。 ここに、天国がいたのなら。 何を、言っただろう。 何を、思っただろう。 多くはいらないから。 それを、ただ無性に知りたかった。 未来永劫、分かりえることのないそれが。 「天国、天国、天国ぃ……」 ただ、寂しかった。 名前を呼ぶことしか出来ない。 喉の奥から、振り絞るように天国を呼んだ。 天国が、自分の元へ帰って来られるように。 迷わずに、自分を見つけられるように。 きっと、そんなこと心配するまでもないのだろうけれど。 呼ばずには、いられなかった。 そうしてそれは、御柳が天国の死を本当の意味で受け容れた瞬間だった。 言葉では分かったと口にしていても。 頭では、理解したのだと思っていても。 その意味を、今になってようやく御柳は受け容れることができた。 溢れる涙で、視界が霞む。 「う、く……っあ、ああああああああああっ!!」 叫んだ。 喉が裂けても、構わないと思えるほどの勢いで。 届けばいい。 この声が、届けば。 他の誰でもない、この想いの向かう、ただ一人に。 御柳はくず折れるように、その場に膝をついた。 寄せる波に、じわりと膝に冷たさが伝わる。 水を吸い込んだ布地は、重い。 いつの間にか、耳鳴りは止んでいた。 そうして耳朶に残ったのは、優しい声。 こんなにも耳に残って離れない、甘い音。 天国、と呼ぶそのたびに。 応えるように、返ってくる。聞こえる。 『……みゃあ』 天国だけが、御柳をそう呼んだ。 猫の鳴き真似のようだと指摘したら、俺だけしか言わねーじゃん、と笑った。 それは、消えない。 笑い合ったその瞬間は、嘘じゃないから。 天国がとなりにいない、今でも。消えたりしない。 愛しいと感じる、この心も。 「……天国」 聞こえるか、俺の声。 お前が傍にいないこと、触れられないこと、それはどうしようもなく寂しい。 けどな、覚悟しろよ。 俺はお前を、忘れてやったりしねーから。 俺の中に在るお前の居場所は、消えたりしねーんだからな。 「好き、だっつったっしょ」 忘れたりしない。 忘れられるわけがない。 こんなにも、想うのに。想いが向かうのに。 その名を口にするだけで、痛いほどに心が動かされるのに。 大丈夫。 何の根拠もなく、何故かそう思う。 これは終わりじゃない。 終わらせてやるつもりなんかない。 俺の中から、アイツは消えない。 俺の中に、アイツが在る。 ……一緒に、生きる。 波音が、優しく鼓膜を穿つ。 原初の記憶に、包み込むように触れる音だ。 安堵するような心地になるのは、そのせいだろうか。 頬に伝う涙はそのままに、御柳はゆっくり立ち上がった。 すっかり水を吸ってしまったズボンが、重い。 水滴の落ちる音が、やけに辺りに響いた。 「天国」 呼ぶ。 その声は、ただ穏やかだった。 御柳の顔には、声と同様に柔らかな色が在る。 見やった海の彼方に、天国の姿が見える気がした。 手加減なしで投げたボールに、少しむくれて。 名前を呼ぶ声に、御柳の好きな笑顔になって。 その笑顔が、御柳の心に優しく当たる。 触れられないそれが、もどかしく思えるのは仕方ない。否定しない。 けれど、抱いた想いに後悔はない。 「俺はここだ、天国」 呼ぶ声の、その彼方に。 天国が、笑った。 END |
ほぼ勢いのみで書き始めましたバトミス話、これにて完結でございます。 お付き合いありがとうございました。 御柳さん、泣いてますよ。 号泣ですよ。 ここはどうなんかなー…賛否別れる部分だとは思いますけれど。 感情の在る人間だからこそ、泣いて欲しいなと思いまして。 金沢的バトミスは、感情面でのことを書きたいんですよ。 本家みたいなバトル系のはちょっと無理っす…頭足りないんで(苦笑) 遺す者、遺される者、その周りを取り巻く人々、その感情を。 今回は『遺される者』と『遺される者の周囲』でした。 今回は浜崎あゆみの「Memorial address」がイメージソングでした。 というか、書いている最中にイメージっぽいなぁ、と思ったんですけど。 しかしこの曲、歌詞が出てないんですよ…… なもんで、リピートしまくりで歌詞自分で書きましたとも。 相変わらず無駄な努力を。 メニューページのオンマウスで出る一言は、歌詞から拝借させていただいてます。内緒。全部歌詞知りたい方はこっそりメールください(笑/私的にはかなり好みな歌詞でした。) まぁあまりぐだぐだ言っても水を差すだけなんで。 感想、もしくはご指導いただければ嬉しい次第です。 UPDATE/2004.2.10 |
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