わんこのひとりごと
冥は、野良犬だ。
正確に言えば、野良子犬だ。
野良だから、当然のことながら家は、ない。
頭を撫でてくれる人も、いない。
だけれど、冥はそれを哀しく思ったりはしなかった。
生きていくには、そんなことでいちいち哀しんでなどいられないのだ。
冥の毛並みは、銀。
汚れた灰の色だと他の子犬にバカにされたこともあるが、バカにしてきた相手はきっちり黙らせた。
瞳の色は、金色。
耳はぴんと天に向かって立っているし、ふさふさの尻尾も気に入っている。
毛繕いはかかさないから、冥は野良子犬にしては随分と見目が良かった。
冥という名前は、いつの間にかそう呼ばれるようになっていたから、そうなった。
冥府の遣い、という意味での冥、らしい。
それを聞いて、冥は自分にピッタリの名前だと思った。
何故なら、冥は誰と馴れ合う気もなかったからだ。
冥に親の記憶はない。
生まれてすぐに、捨てられたからだ。
兄弟と一緒に、段ボール箱に詰められて川原に置いていかれた。
それを拾ってくれたのは、川原に住んでいた老人だった。
冥は知らなかったが、それはホームレスという立場にある人で。
家がない、と言う点では冥のような野良子犬と同じだった。だから、拾ってくれたのかもしれないが。
ともかくそのお陰で、冥とその兄弟は生き延びることができた。
そのまま日々が続けば何も問題はなかったのだが。
往々にして、事件というものは起こる。
冥たちを育ててくれていた老人が、ある日倒れた。
通りがかりの人が白い車を呼び、老人はそれに乗せられて。
2日経ち3日経ち、冥は老人がもう帰ってこないだろうと気付いた。
泣き言は言っていられない。
生きる為に、甘さは捨てなければ。
頭を撫でてくれる手も、暖かな寝床も。
生きる為に、諦めなければ。
育ち盛り食べ盛りの子犬は、すぐにお腹が減る。
限界だった。
冥は一人、いや一匹ぽっちで、生きるために歩き出した。
そうして、冥は今の場所に辿り着いた。
野良犬の少ない街。
見るのは塀の中鎖に繋がれた犬や、人間に抱かれて歩いている小さな犬ばかり。
野良子犬の冥にとって、縄張り争いの少ない街は在り難かった。
これからもっともっと大きくなって、体も強くなって、牙も爪も研ぎ澄まされればそんなこと気にしないでもいいのだろうけれど。
今の冥の牙と爪では、大きな犬と渡り合うのは少し辛い。
子犬にしては喧嘩の強い冥だが、大人の犬との力の差はやはり大きいから。
何より野良犬が少ないというのは、餌が探しやすくて良かった。
お腹いっぱい、とまでは行かなくても飢え死にする心配だけは免れたから。
目下の所の冥の寝床は、寂れた公園の奥にある植え込みの中だった。
木が茂っていて、雨露を凌げるのがいい。
それに公園のゴミ箱には、時々掘り出し物が入ることがある。
そんな風にして、冥は一日一日を過ごしていた。
そんな、ある日のこと。
冥の寝床に、音を立てて入り込んできたものがあった。
ぽかぽか陽気が心地良くて、昼寝をしていた冥はガサガサと葉っぱを揺らす音に慌てて飛び起きた。
体勢を低くして、いつでも相手に飛びかかれるように音のする方に集中する。
と。
音を立てて冥の目の前に現れたのは、白いボールだった。
冥が大きくなれば、簡単に咥えられそうな大きさの。
これ、知ってる。
人間たちが長い棒とか持って追っかけまわしたり投げたりしてるやつだ。
ころころ、と転がってきたボールを見つめながら、冥はそれの正体を思い出した。
ボールは、野球ボールだった。
どうするべきかとボールを見つめていた冥の耳が、ピクリと震える。
また、葉っぱを揺らす音が聞こえてきたからだ。
今度は足音もする。
……人間だ! 人間が来る!
俺の縄張りに!
逃げることや隠れることは、思いつきもしなかった。
何故なら冥は、誇り高き野良子犬だからだ。
冥府の遣いだからだ。
そんな冥が、人間如きを畏れて尻尾を巻いて逃げるなんてこと、あっちゃいけない。
そう思ったのだ。
「どーこ行ったかなぁ……こっちに来たと思ったんだけど」
小さな声が聞こえる。
足音もすぐ近くまで迫っている。
冥はぐ、と前足に力を込めた。
「あれ? わんこだ」
ひょこん、と顔を覗かせたのは一人の人間…少年だった。
茶色い髪が、ぴんぴんとあちこちにはねている。
くるりとした目が、いかにも元気そうな印象だった。
ボールを探して屈んだりしたのだろう、髪や服に葉っぱが沢山ついている。
……猿だ。猿がいる。
少年を見た時の冥の感想は、それだった。
少年はきょとんとした顔で冥を見下ろしていたが。
冥から少し離れた場所にあるボールを見つけて、ぱあっと目を輝かせた。
「あ、あったあった! 何、わんこが見つけてくれたのか?」
違う。勝手に転がってきただけだ。
俺の昼寝の邪魔をしたんだ、その白いのと、お前が。
ウー、と声を低くして唸るが、少年には効果がなかった。
怯えるか逃げるか、するかと思ったのに。
少なからず途惑いを覚える冥に、少年はぺたんと座り込んで。
「なんだ、ゴキゲン斜めか? 腹ヘってんのか?」
違う。今日はこんびにとか言うやつの裏でご馳走を食ってきたんだ。
腹なんか減ってない。
もう一度、今度は先程よりも恐そうに唸ってみる。
牙が見えるようにもした。
だけれど少年は、首を傾げたりするだけだ。
冥は段々、どうしていいか分からなくなってきた。
「お前、キレイな色だなぁ〜。もしかして、どっかで飼われてたんか? 迷子になったのか? ああ、なあなあ。ちょっと撫でさせてくれよ」
飼われてなんかない!
迷子でもない!
俺をその辺の野良子犬と一緒にするな。
俺は冥だ。
冥府の遣いなんだ。
キレイなのは当然だ。毎日毛繕いしてるんだからな。
俺は……
言い終わるより早く、少年が冥に向かって手を伸ばしてきて。
何がなんだか分からなくて、どうすればいいのか分からなくて。
冥は、伸びてきた手にかぷ、と牙を立てていた。
慌てていたから、力なんて入らなかったけれど。
「わっ?」
少年の驚いたような声と顔に、冥はもっと驚いた。
それこそ、自慢の尻尾がぴいん、と跳ね上がるくらいに驚いた。
冥は少年の手から口を離すと、その手から逃れるように距離を置いた。
なんだ、猿。
なんで俺に触る。触ろうとする。
俺の唸りが聞こえないのか、お前。
この牙が見えないのか。
でもお前も分かっただろう、俺には牙があるんだ。
爪だってある。
俺に構うな。
これ以上俺に構うと、もっと痛い目に遭うんだぞ。
そう言いながら、唸りながら、けれど冥は自分が加減していたことにも気付いていた。そしてそれに驚いていた。
生きる為にあちこちを放浪してきた冥は、喧嘩が強い。
子犬だから力はそこまでじゃないけれど、その代わりに闘い方をよく知っている。
牙の使い方、爪の使い方を。
だから、幾ら慌てていたからと言って冥が牙を立てたなら、悲鳴の一つが上がってもいいぐらいなのだ。
なのに少年は、驚いたように目をぱちくりとさせただけで。
声も、悲鳴なんてものからは程遠い一言を発しただけで。
それ以上は、なかった。
ダメージがないはずはない。
実際、目の前の少年の手からはぱたぱたと血が流れ落ちている。
赤い赤い血が、草に落ちて草を染めていた。
「ごめんごめん、ビックリさせちゃったか。うん、俺が悪かった」
なんだ、猿。
何を言ってるんだ。
俺は怒ってるんだ。
お前が縄張りに入ってきたから。
俺に触ろうとしたから。
ビックリした、だけで済ませるな。
冥の怒りにも気付かず、少年は笑っている。
頭まで下げられて、冥は飛びかかることもできずに少年を見ているしかできなかった。
「天国ー! あったのかー?」
茂みの向こうから、声がする。
それに、天国、と呼ばれた少年は肩を竦めた。
「あっちゃー。忘れてた、キャッチボールしてたんだっけ」
天国はボールを掴もうとして……それを、やめた。
冥が油断なく天国の動向を見守っていると、天国はふっと笑って。
ボールをとん、と突ついて冥の前に転がした。
いきなりの動きに、冥は慌てて後ずさる。
「脅かしたお詫び。わんこにやる」
それだけ言うと、天国は立ち上がった。
手からたらたらと血を流したままで。
「ばいばい、またな」
ボールと天国の後ろ姿を交互に見やっていた冥だが。
天国がそう言って振り返り、手を振った。
その笑顔に、何かが反応した気がして。
それが何かは、冥には分からなかった。
分からなかった、けれど。
その「何か」が、自分と兄弟とを拾ってくれた、あの老人に頭を撫でられたその時に感じたのと、似ているような気が、少しした。
ほわ、とあったかい物を抱えたような気分になった。
それがどうしてだか、冥にはまだ分からなかったのだけれど。
とりあえず。
冥は答える代わりに、目の前にあるボールを口に咥えた。
仕方ないから。
猿が血を流しながら頼むから、貰ってやる。
ちょっと大きいけどな。
俺はこの後もっとでかくなるから、今はこれでいいんだ。
言い訳のようにそんなことを考えながら、ボールを齧る冥は気付いていなかった。
自慢の尻尾が、ぱたりぱたりと嬉しげに振られている、その事実に。
END
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