あの時、二人で笑い合った。 あの時、 あの瞬間。 目線を合わせて笑って 一人暮らしも三年目。 すっかり開け慣れたドアの鍵を開けながら、何とはなしに安堵の息を吐く。 脱ぎ捨てた靴が、横に転がったような気もするが知ったことじゃなかった。 別に咎める誰かがいるわけじゃない。 だから、気にしない。 後ろ手で鍵を閉めると、がちゃりというその音がやけに大きく部屋の中に響いた。 リビングの電気を点けながら、上着を脱いで適当にその辺に放り投げた。 いつもなら、面倒だと思いながらもちゃんとハンガーにかけるのだけれど。 なんだか、やけに疲れていてそうする気力も湧いてこなかった。 特別に何かがあった、そんなわけではないのだけれど。 訳もなく疲れていた。 まぁそんな日もあるだろうと、あまり深くは考えずに。 ソファに座り込んで、ぐったりと背もたれにもたれかかる。 その拍子に、ソファに置いてあった雑誌がばさりと音を立てて床に落ちた。 「……あ」 音に反応して目を向けて。 そこでふと、動きが止まる。 落ちた雑誌の、偶然開かれていたそのページ。 そこに載っていた、白い世界に。 その写真に。 ……いーかも、なっ。 脳裏に蘇る、その声、その言葉、その表情。 つい先程聞いて、見てきたばかりかのように。 忘れて、いない。 忘れることなんて、ない。 忘れることなど、きっとできない。 ずるずると、ソファから床に滑り落ちるようにして座り込む。 微苦笑しながら、そっと指先で開かれたページに触れた。 真っ白な、凍りついた世界。 その端に写る、まるで取り残されたかのようなペンギン。 南極、だった。 「……ばか猿」 ぽつり、と呟いた犬飼の言葉は。 その写真に写っているペンギンと同じようにどこか寂し気で。 自分の声の、その切なげな響きに気付いた犬飼は苦笑し、己の髪をくしゃりとかき上げた。 バカ猿、こと猿野天国と。 犬飼冥、は。 犬猿の仲、と言われていたその二人は。 それにも関わらず、付き合っていた。 ほんの、三ヶ月前まで。 「犬ーいぬイヌわんこ〜」 「連呼すんなっ、バカ猿が」 「うーわ、ムカつく! この全霊長類の頂点に立つとまで言われる男、猿野様に向かって犬ごときがそういう口をききますかっ!」 「二足歩行をようやく会得したばっかの猿のくせして、よくもまぁそんな大口が叩けたもんだな、とりあえず……」 口元に手を当てて、嘲笑うフリ。 それに天国は顔を真っ赤にして反論してくる。 高校時代のそれから、ほとんど変わってなどいないやり取り。 成長していない、と言われればそれまでなのだが。 色気も何もない、どころかどう見ても険悪にしか見えないそれが、二人なりのスキンシップであり楽しみでもある。 一通り言い合って、どちらからともなく笑って。 ちっとも変わってねーのな、と天国が笑い。 とりあえず飯でも行くか、と犬飼が切り出す。 そんな、関係。 付き合い始めたのは、高ニの秋。 三年生が引退して、実質彼らが部活の中心になった、その年。 夏の終わりに、どことなく物悲しさを感じたせいか。 それともただ単に、それまでに抱えていた、抑えていた想いが許容範囲を超えてしまっただけだったのか。 告げるつもりはなかった想いを、ふと犬飼が零してしまったのが始まりだった。 犬飼のその言葉に、天国はきょとんと目を丸くし。 次いで、面白いぐらい真っ赤になった。 言った犬飼自身も同じくらい真っ赤に、天国に言わせれば赤黒くなっていたのだから、笑えなかったのだけれど。 それから、何となく一緒に帰るようになったり。 忘れた辞書を借りに、教室を訪れたり。 そんなことが増えだして。 銀杏の木が金色の葉を散らし出す頃、どちらからともなく付き合おう、ということになった。 付き合う、ということになっても一見すると変わらなかった、二人の関係だけれど。 相変わらず小学生並みの言い合いをしたり、それのせいで用具の片付けを言い渡されたりしていた。 それでも。 ふっと目が合った時に笑い合ったり。 どちらかの部屋で、ごろごろと何とも言い難いゆったりとした時間を過ごしたり。 そんな風に、些細だけれど少しずつ、暖かい時間を過ごしたりなんかもしていて。 キスをしたのは、その年の冬だった。 よく覚えているのは、それがクリスマス、というまるで狙ったかのような日付だったからだ。 実際、天国は記念日を狙っていたのだろうと思う。 問い質したことはないけれど、見ていれば天国が記念日やイベントごとが好きなのはすぐに分かったから。 「…本当は、お前の誕生日が良かった、んだけどさ」 寒さのせいか、それとも気恥ずかしさのせいか。 多分両方のせいだったのだろう、頬を紅潮させて犬飼を見上げながら天国は言った。 それがどうにも嬉しくて、嬉し過ぎてなんだか胸が痛かったことをよく覚えている。 言葉が出てこなくて強く抱きしめた。 その時に天国がくすぐったそうに身じろいで笑った、その吐息が鼓膜を揺らしたその感触まで、全部を。 天国が自他共に認めている、涙腺の弱さ。 感情が昂ぶると、本人が意識せずとも勝手に涙が堰を切るらしい。 それに辟易しながら、それでもこれも俺が俺だってことだからさ、なんて強がるように泣き笑いをしていた。 思えば多分。 天国は、どこかで予感していたのかもしれない。 今となっては、それは結果論でしかないのだけれど。 終わってしまうこと、この関係に終止符が打たれること、それを。 ひたひたと、ゆっくりと、けれど確実に歩み寄る終わりに。 それに気付いて、あんなことを言い出したのかもしれない。 忘れもしない、今年の春。 犬飼の、一人暮らしをしている部屋に天国が転がり込むのはそう珍しくない出来事で。 恋人同士、の肩書きがあるわけだから、犬飼は天国に合鍵を渡してあった。 「ワンコ〜飲もうぜっ。酒持ってきた〜♪」 ここに来る途中に既に飲みながら歩いてきたらしい。 プルトップの開けられたビールの缶片手に、犬飼の部屋を訪れた天国はやけに上機嫌だった。 片手にしたビニール袋の中には、中々に大量な酒の缶やら瓶やらが押し込まれるように入っている。 呆れながらも、二人とも法に触れずに飲酒の出来る年齢にはなっていたからその誘いを無碍に断ることもせずに。 とりあえず夕飯を食べ、その後から二人で飲み始めた。 二人、いつものように。 天国が大学であったことやバイト先での失敗談などを面白おかしく語るのに、犬飼は耳を傾け、時には相槌を返したりもして。 その話が一段落したら、今度はお前のことも話せよな、と促され聞かれるままに自分のことを話したり。 そうして、ふっと会話が途切れたのは夜も更け、日付が変わってしばらく経ってからのことだった。 別に見ていたわけでもないのだが、電源を入れたままだったTVに天国がジッと見入っている。 その目が、やけに真剣な色を湛えていることに気付いた犬飼は天国の視線を追うように自分もTVへ目を向けた。 深夜番組なんて、どれもこれも似たりよったりのくだらないものが多い。 それなのに、そんな真剣になるような物が映っているのかと。 ブラウン管に映し出されていたのは、白い世界。 見るからに冷たそうな色の海と、そこに浮かぶ氷。 氷の上には、まるで飾りのようにペンギンが立っていた。 どうやら、ドキュメンタリーか何かの再放送らしい。 天国はそれを、怖いほどまっすぐな眼差しで見ていた。 「猿?」 「いや…キレイだなと、思ってさ」 言いながら、ふっと口元を緩めて微笑う。 穏やかな表情に、けれどそれだけではない感情が紛れている事に気付かない犬飼ではなかった。 不安だとか、寂しさだとか、そういう類の感情が。その声には、多分に含まれていた。 「……何か、あったのか?」 聞くべきか聞かざるべきか。 一瞬悩んで、そう問うた。 その言葉に、猿野はTVへ向けていた目をゆっくりと犬飼へ向ける。 向けられたその目が透明でキレイだと、そんなことを思った。 くるくると万華鏡のように様々な色を湛える天国の目。 色素が薄いらしいその髪と同じく、琥珀のような透き通った色。 「なーんも。いつもと同じだっつの」 「なら、なんで泣きそうになってんだよ」 「……酒のせいだろ」 「お前が泣き上戸だったなんて知らなかったな」 「泣き上戸はお前だろ。クールな面して」 「ふーん、俺をクールだとは認めるわけか、お前」 「げっ。今のナシ今のナシ!」 言葉を交わし合ううちにも、天国の瞳にはじわりじわりと水の膜が浮かんでくる。 見詰め合うことに耐えられなくなったのか、堪えていた涙の堰を止めるのを諦めたのか。 天国が視線を床に逃がしたその時、その目に溜まっていた涙が頬を伝った。 何かに耐えるように泣く姿が、どうにも切なくて。 けれどかける言葉も見つからずに、犬飼は隣りに座る天国をただ抱き寄せた。 付き合い始めてから知った、預けられる体の重みと暖かさ。 そうしてそれを凌駕する愛しさ。 そんなものがあるのだと、言葉ではなく教えられた。 「…犬……南極、行きたくね?」 泣いているせいか、僅かに震える声で。 閉じ込めるように抱き寄せた、腕の中からくぐもった言葉が洩れた。 す、と天国が指差すのは未だに氷の世界を映し出すTVのブラウン管だ。 誰もいない、雪と氷に閉ざされた世界。 時折ペンギンがいて、氷の下に泳ぐ魚を見つけたりして。 「一緒に、行くか」 「逃げるみてーに?」 「ああ、二人だけで」 「いいな、それ」 犬飼の肩にもたれていた頭を上げて、天国が泣き笑いの表情で言う。 その額に、自分の額をこつんと軽くぶつけるように触れ合わせて。 「お前と、俺と、ペンギンだけだな。そうすると」 「ははっ、面白いじゃんそれ。いーかも、なっ」 「ああ、悪くない」 「ん、悪くねーな」 額と額をくっつけ合ったまま、二人笑う。 何故だか分からないけど、切なくて。 切ない以上に、愛しくて。 互いの体温を分け合うように寄り添い合ったまま、くだらないことを話した。 氷に穴を開けて、釣り糸を垂らしてみたいだとか。 ペンギンの卵をこっそり盗もうとか。 スケート靴持っていかなきゃな、だとか。 「誰も許してくれないなら……」 「ずっと一緒だろ。バカ猿」 一緒に、逃げよう。 誰も追ってこない場所まで。 告げる代わりに、髪を撫でた。 天国の言葉が、声が、心の真ん中に触れて。 触れた、なんて生易しいものじゃなくて、まるで突かれたようで。 切なさが伝染したように、犬飼も少し、泣いた。 犬飼の涙を見た天国が、泣き上戸だと揶揄し。 けれどそう言う天国自身も泣き笑いで。 それを指摘した犬飼に、二人して笑い合った。 別れ話を切り出されたのは、秋だった。 付き合い始めたのと同じように、銀杏が金色の葉を散らし出した頃に。 あるいは、天国は始めと終わりを同じにしようと考えていたのかもしれない。 その言葉は、今でもハッキリ覚えているけれど。 今はまだ、痛いから。 一言一句違うことなく覚えているそれを、リフレインしてしまうのはちょっと辛いから。 告げられた言葉をそのまま回想するのは、やめておくことにする。 本当は、別れの言葉に頷きたくはなかった。 泣いて喚いて、引きとめようかとさえ思った。 その腕を掴んで、このまま誰も知らない場所へ行ってしまおうかとも思った。 あの時、二人で南極に逃げようかと泣き笑いし合った言葉の通りに。 それでも、そうしなかったのは。 犬飼が、天国を、ただ好きだったから。 いとおしく、想っていたから。 そうして何より、天国も同じ気持ちなのだと。 それが、伝わってきたから。 好きなのに、好きだから。 だからこそ、一緒にいられない。 そんなこともあるのだと。 ただがむしゃらに無我夢中で前に進んでいた、それだけで良かった頃にはきっと分からなかった。 返された銀色の鍵、それを握り締めながら犬飼は泣いた。 あの頃には戻れない。 それが分かっているからこそ、ただ涙が零れた。 「元気でやってんのかよ、バカ猿」 呟きながら、雑誌を閉じた。 今でも、忘れ得ぬ想いに胸がしくりと痛みを覚えることはある。 辛くないだなんて、嘘にしてはあまりに見え透いていて言えもしない。 それでも、この想いを恨んだり憎んだりはしない。できない。 誰より、何より愛しいから。 その想いは、嘘じゃないから。 二人で笑い合った、あの時、あの瞬間。 一瞬だったのかもしれない、けれど。 今でも、忘れられようはずもない。 たとえばそれが一瞬だったとしても。 確かに「その瞬間」は在ったのだから。 それは、確かなのだから。 そうしてそれは、一度も信じたことなんてない「永遠」というものなのかもしれない。 そんなことを、今になって考えた。 自分より10cm低い、その目線にさりげなく高さを合わせて。 笑い合った記憶は、間違いじゃない。 苦いばかりでも辛いばかりでもない。 だから、笑える。 愛した記憶は嘘じゃない。 だから、願うは。 今でも愛しいと言える君の、 何より大事で、愛しかった。 「……笑ってんのかよ、猿」 その、笑顔。 END |
100題・課題13「深夜番組」をお送りしました。 犬猿です。(と言い切ってみる) 別れた後の話ですが。 でもこれ、犬自身はそう不幸じゃないんです。 別れたのは寂しいけど、でも後ろ向きじゃない。 それだけ一緒にいた時間が幸せで暖かかったっていう。 (その方が何か不幸くさい…??!!) 何だかんだ言って、結構犬飼くん書いてることに気付いたんですが。 何故か彼を書くとシリアスな話が多くなってしまう… シリアスとか、切なげとか、そういう話に偏りがち。 そういう目で犬飼氏を見てるってことなのかなー… 実はこの話、槙原敬之氏の「PENGUIN」にインスパイアされてできた話だったりします。 アルバム「UNDERWEAR」に収録されてる曲で。 以下歌詞引用(ゴメンナサイ〜) 「誰も許してくれないなら 一緒に逃げようって泣いたよね 南極なら君と僕とペンギン 悪くないねって ちょっとだけ笑ったよね 今でも時々思い出しては 連れ出さなくてよかった事も 愛していたのも ホントだったと笑ってる 誰も許してくれなかった 理由はまだ解らないけど たぶん君と僕とじゃ行けない場所が 二人の行かなきゃいけない場所 いたずらをして怒られても 「ごめんなさい」の一言を 誰かに言えばそれでよかった あの頃にはもう戻れない」 っていう。 明るめの曲調なんだけど、だから余計に切ないんすよ〜… この歌詞を今回の犬飼に当てはめて読むと可哀想度が25%UP(当社比) このアルバムは私的に使える曲多くて好き(笑) 機会があれば耳にしてみてくださいませv UPDATE/2003.12.22 |
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