ぬくもりに触れたいから










 それは、練習試合の帰りだった。



 今日も今日とて天国は野球素人の名に相応しく凡ミスを出したり、かと思えばいつ見ても見事としか言い様のないホームランを叩き出したりと。
 まったくもって、いつも通りだった。
 帰宅の時にも、いつもと同じように子津や兎丸と何が楽しいのか大声で話しながら笑ったり驚いたりしている。





 だから、犬飼が「それ」を見たのは全くの偶然だったのだ。


 ふっと。エアポケットか何かのように会話がぷつりと途切れた、その時。
 窓の外に目を向けた天国が、何かに耐えるようにきゅっと唇を噛んだのを。
 その目に、黄昏のようななんとも表現のし難い、おおよそ普段の天国が見せているのとはかけ離れた色が浮かんだのを。
 その手が、誰にも悟られないようにだが確かに、悔しげに握り締められたのを。
 犬飼が、目にしたのは。


 全くの、偶然でしかなかったのだ。




 その一瞬後には、天国はいつもと同じ表情で笑っていたから。






 見間違いかとも、思った。
 バカ面を晒して、何も考えていないような奴が。
 底無しの闇を見据えるかのような、あんな目を。
 手を伸ばせば届く場所にあるものを、けれど触れかねているかのような仕草を。
 するはずない、と。
 そう思っていたから。


 現に、天国は既に何もなかったかのような、あんな目をしたことが幻であったかのようないつも通りの顔で笑っている。
 けれど。
 何故だか目を逸らすことができずに、犬飼は天国を凝視していた。
 あの一瞬が夢か現か、それを見定めようとしているかのように。




 犬飼の不躾なまでの視線に気付いたのか、天国が視線を犬飼に向ける。
 その目には、さっき見たような色はなかったが。
 変わりに、どんな感情も見当たらなかった。
 明るい茶色の虹彩が、無色透明に見えた。
 そんなことありえるはずないのに、確かに犬飼の目にはそう写った。
 怒りも、悲しみも、喜びもない。
 いつもは何かしらの感情で満たされている天国の目が、どんな色も湛えてない。


 それが何故だか、とても恐ろしいことのように感じられて。
 犬飼は自分ではそうと意識せず、眉間に皺を寄せた。



 視線が絡まっていたのは、時間にすれば5秒にも満たなかったに違いない。
 その視線を外したのは、天国からだった。
 いつもなら。
 目が合っただけで何のかんのと言ってくるのは、天国からだ。
 それが、その時に限って何も言わずに目を逸らした。




 それだけのことが、何故だかひどく引っ掛かった。
 指先に刺さった小さな棘のように。
 見た目は大したことないのに、間断することなく訴え続け、その存在を必要以上に大きく感じる。
 そんな、感覚。
 犬飼はその後も暫く、天国を見つめていたが。
 天国は意図してか犬飼へ視線を向けることはなかった。


 笑うその横顔を見ていた犬飼の眉間の皺が、普段に比べて二割ほど、増した。






「どうかしましたか、犬飼くん?」
 犬飼の様子に気付いた辰羅川が、話しかけてくる。
「別に」
 けれど犬飼は切り捨てるかのように短くそう答えただけで、視線を窓の外へ向けた。


 辰羅川が苦笑している気配が伝わってきたが、それに構ってやるほどの余裕はなかった。
 犬飼のそっけない反応にはもう慣れているのだろう、辰羅川もそれ以上は何も言ってこない。
 人付き合いの苦手な犬飼だが、こういう時ばかりは気心の知れた人間は助かると思う。
 今は、ヘタに構われる方が鬱陶しかったから。



 視界の端に写る天国が、自分の方を見ているような気もしたが。
 今の犬飼には、もうどうでもよかった。
 きっと、今見ても同じだろうから。
 天国はもう、さきほど見せたような目は見せないだろう。


 天国は相変わらず、喋り続けている。
 その笑い声を耳にした犬飼は。


 不快な音を耳にした時のような表情になり、そのまま目を伏せた。





 訪れた、瞼の裏の暗闇に。
 どこか安堵にも似た気持ちを抱いた。
 そんなどこか子供じみた心地に、自嘲しながらも。
 犬飼は、目を伏せたままだった。














 翌日。
 朝練がある野球部は、朝が早い。
 ひどくはないが低血圧ぎみの犬飼にとって、朝の電車は面倒なことの一つだ。
 何も考えずに野球だけやっていられれば。
 そんなことを考えもするが、どうしようもないことなのは充分承知していて。
 今日も犬飼は、欠伸を噛み殺しながら電車の到着を待っていた。
 犬飼の様子に、辰羅川が苦笑する。


「眠そうですね、犬飼くん」
「……少しな」


 言いながら、また欠伸を一つ。
 犬飼の少し、という言葉の裏側には大分、とか結構、とかいう意味が含まれている。
 それを知っている辰羅川は、相変わらずですね、と肩を竦めた。
 けれどそれ以上何かを言い募ろうとはせずに。
 流石に付き合いが長いだけあって、ここで小言を言っても無駄だと悟っているのだ。
 どうせ今は何を言った所で、右から左へ抜けて行くだけに決まっているのだから。




 普段が仏頂面の犬飼は、ぼんやりしていると余計に機嫌が悪そうに見える。
 本人にそういう気がなくとも、周囲にそうと誤解や勘違いをされることが多いのだ。
 さりとて、犬飼はそれを微塵も気にしてはいないのだが。
 向かいのホームにいた女子高生が、犬飼をちらちら見ながら何事かを囁きかわしている。
 なんとなく目をやった、それだけのことで。
 彼女たちが歓声にも近い声で笑い合った。
 それがどうにも不快で、犬飼は別方向へ視線を飛ばす。
 起き抜けで上手く働かない頭に、黄色い声は些かうるさ過ぎる。


「…………?」


 いつもと変わらない、風景。
 通勤電車を待つサラリーマンやOL。その中に、ちらほらと学生服も見て取れる。
 もう少し遅い時間ならば学生服の割合も高くなるのだろうが、今はそんなには見当たらない。
 けれど、そのいつも通りの風景の中に。
 何か違和感を感じて、犬飼は目を細めた。
 何だろう。
 その違和感が一体何なのかまでは分からないが、確かに何かが、いつもと違う。


 それが何なのか見極めようと、犬飼は不機嫌そうな顔のまま視線を凝らす。
 サラリーマンの背広、灰色と紺の入り混じった群れの中に。
 何か。
 何かが、在る。




 人の群れの中、それを見つける事が出来たのは。
 偶然だったのか、それとも必然だったのか。
 灰色の群れの中に、見慣れた茶の色がある。


「ッ、アイツ……?」


 口の中で呟いた言葉は、隣りに立っていた辰羅川には聞こえなかったらしい。
 けれど。
 その呟きは、向かいのホームの「アイツ」に届いたらしかった。
 物理的に考えて、これだけ距離があるのだから聞こえるはずなどないのに。
 振り向いたそのタイミングは、まるで犬飼の言葉が届いたかのようだった。
 明るい茶色が、振り向いたその拍子にふわりと揺れる。
 その目に、驚いたような色が浮かぶ。


「あの、バカ猿……ッ」


 学校へ向かうには、犬飼たちがいるホームから出る電車に乗らなければならない。
 それを、反対のホームにいるということは。
 一瞬にして導き出された答えに、犬飼は舌打ちする。


 と。


 瞠目したまま犬飼を見つめていた天国が、不意に踵を返して走り出した。
 それが、自分から逃れる為なのだと解した犬飼は。


「辰、悪い」


「は?! 犬飼くん、どうされたのですか?!」


 一言、静かな声音で辰羅川に告げると、天国を追うべく走り出した。
 流石に驚いたらしい辰羅川が何事かを言っているのが聞こえたが、犬飼は止まらなかった。
 止まれなかった。
 後から小言を聞かされるであろうことは必須だろうけれど。
 それでも、追わないわけにはいかなかった。







 放っておけばいい。


 自分には関係ないことだと。


 見なかったフリをしておけばいい。


 何も知らなかったと。


 それだけで、面倒なことに関わらずに済むのに。


 追わずに、いられなかったのだ。
 その理由など分からない。
 分からないままで、いい。




 朝の駅は、人が多い。
 その中を疾走すれば、嫌な顔をされても仕方がないと思う。
 おまけに人を避けながら走らなければならない所為で、全力疾走はできない。


 新聞片手の中年サラリーマンや、缶コーヒーを手にしたOLに迷惑そうに顔を顰められたりしながら。
 犬飼は、走っていた。
 自分の先を走る、背中を追って。


 そう広くもない駅構内だ。
 追いかけっこはそう長く続くはずもない。
 けれど、天国は階段を上がった。
 上がるその途中で、その目がちらりと、自分へ寄越された。





 ……笑いやがった。


 その目がふっと笑んだのを、犬飼が見逃すはずもなく。
 からかわれているのだろうか。
 いっそ追うのをやめようかとも思うが、ここまで来たら何がなんでも追いついて捕まえてやろうと思い直す。
 時間は分からないが、おそらくいつも乗っている電車は出発してしまっただろう。
 次に来る電車にでも乗る事が出来ればいいが、状況的にそれは難しいことに思えた。
 朝練には遅刻決定らしい。
 辰羅川が上手く言っておいてくれるとは思うが。




 つーか、お前。
 何してんだよ、バカ猿。


 見た所、いつもつるんでいる報道部(名前は忘れた)が一緒にいるわけでもなさそうだった。
 聞きたいことが、山積みになっていた。


 何故一人で学校へ向かうわけでもないホームに居たのか。
 目が合った瞬間にああまで驚いたのは何故か。
 その後、逃げたのは。
 逃げるその時に、どこか泣き出しそうな顔をしていたのは。


 昨日の帰り道の、あの表情の理由も。


 今、追われながら。
 笑ったその理由も。



 聞き出してやる、全部。






 階段を上がったホームには、電車が止まっていた。
 急行らしく、ドアの数が少ない。
 発射を示すベルが鳴っている。
 天国はその電車沿いに、まだ走っていた。
 犬飼はまた一つ舌打ちし、その背中を追う。


 電車のドアが閉まるべく動いた瞬間、天国はパッとその中に飛び込んだ。

「あんの、猿ッ」

 忌々しげに呟き、犬飼は速度を上げる。
 閉まり出したドアの隙間から、滑り込むように電車の中に転がり込んだ。
 そのままの勢いで、入ってすぐの通路部分に立っていた天国にどん、とぶつかる。


「わ、って、ちょっ」


 ぶつかった勢いでよろけた天国の腕を、犬飼は支える意味と逃がさない意味とで掴んだ。
 思いがけず強い力になったせいで、天国は犬飼に引き寄せられる形になる。
 触れた肩は、疾走したせいで僅かに上下していた。



 ガタン、と音を立てて電車が揺れ、ゆっくりと外の景色が動き出す。
 どこまで行くのかは見なかったが、朝練には間に合いそうもない。
 朝練どころか、授業に間に合うのかどうかすら疑わしい。
 けれど、今はそんなことはどうでもよかった。


 その時になって、腕を掴まれたままだった天国が居心地悪そうにみじろぎだす。
 身長差のせいで見上げざるをえないらしい天国の表情を伺えば、どうにも困惑しているようだった。


「犬、腕、離し……」


「逃げんだろ」


「……逃げねえって」


「なんだよ今の間は」



 憮然としながら問えば、天国は曖昧に笑う。
 犬飼は、掴んだ手にわずかに力をこめた。
 ここまで来て逃げられるなんて、冗談じゃない。
 列車の中だ、どちらにしろ袋小路になるのは目に見えているのだが。
 この期に及んで目立つのは面倒だった。
 目線の向こう、通路と座席とを分けるドアの向こう側は混みもせず空きもせず、といった具合だったが。



 掴まれた腕を離してもらうことは諦めたらしく、天国は外の景色に目を向けている。
 犬飼が俯けば、その髪に顔が触れる。
 それ程までに、近い位置。
 こんな至近距離で天国の顔を見るのは初めてで。
 疾走した名残か、わずかに頬が上気している。
 黙ったままのその横顔に、昨日の昏い色を見た気がして。


 犬飼は掴んだままの天国の腕を些か乱暴な仕草で引いて、自分の方を向かせた。
 痛かったのか、天国は一瞬眉を寄せたが。
 それ以上何を言うでもなく、黙ったまま犬飼を見上げてくる。


「何で逃げた」


「……うるさく言われるのが嫌だったからだよ」


 今みたいに、と付け加えて天国は口をヘの字に曲げる。
 どこか子供っぽく見える表情。
 見慣れたそれに、犬飼は内心で毒づく。


 そんなの、仮面だろ。
 騙されるとは思っちゃいないくせして、まだそんな顔してんのかよ。


 真実をひた隠しにされると、突き放されているかのような錯覚を覚える。
 是が非でも、知りたいと好奇心が疼く。
 苛立ちにも似た感情が胸のうちに湧き上がり、犬飼は不機嫌そうに目を細めた。
 意識せず、天国の腕を掴む手に力が入る。




「ゲームオーバーだろ」


「何だよ、いきなり」


「お前は俺に捕まった。それでゲームオーバーだろ。負けたんだから、俺の質問に答えろよ」


 怪訝そうに眉を寄せる天国に、けれど犬飼は畳み掛けるように言葉を紡ぐ。
 自分は知っている、と。
 暗に告げるかの如く。


 ふと。


 困惑しているかのような表情で犬飼を見上げていた天国が。
 ふっと、笑んだ。
 いや、正確には唇を歪めただけだ。
 その目に感情の波は見てとれなかったから。


「ゲームオーバーは認めるけどさ」


 告げた天国の声は、囁くような小さな声で。
 言葉の端が掠れたのが、どうにもどきりとした。
 聞いた事のない声音。
 見た事のない表情。


「捕まったのはお前じゃねぇの?」


 心臓が、跳ねた、気がした。



 口の中に溜まった唾を飲み込む音が、やけに大きく響いたような。
 相対する角度の所為だけではない、口角が上がった唇。
 そんなはずないのに、その唇がいつもより紅く濡れているように見えて。


「何言ってやがる?」


「分かってたから逃げたんだよ」


 クッと、喉を鳴らすように天国は笑う。
 どこか自嘲するようにも見える、その顔。
 その顔が近づいてきて、けれど犬飼は瞬きもせずに天国の顔を凝視していた。
 吐息が触れる。
 キスをする寸前のような体勢。
 一瞬そこで止まってから、天国は顔を逸らして。
 犬飼の耳元に、唇を寄せた。


「俺が逃げれば、お前、追ってくるってさ」


 分かってた、と。
 耳元に囁かれる言葉は、今まで聞いた事がないほど、甘く響いて。
 犬飼は空いた片手で、天国の髪に触れた。
 その髪に触れてからようやく、自分が手を動かしていたことに気付く。
 天国はその手を振り払う素振りも見せずに、近づけていた顔をゆっくりとした動作で遠ざけた。
 しかし遠ざけたのは顔だけで、その体は未だ犬飼と密着状態にある。
 伝わってくる体温が、暖かかった。




 犬飼の指先は、ゆっくりと天国の髪を撫でて。
 それが心地いいらしく、天国はふっと目を細めた。
 その時の顔が、微笑っているようだと。
 犬飼はぼんやりそんなことを思った。


「負けたのがどっちかなんて、どうでもいいだろ」


 表情はそのままに、天国が呟く。
 その声音は、ひどく穏やかに聞こえた。


「ここまで来たんなら、付き合えよ……犬飼」


「……ああ」


 天国の口調には断るはずなんてない、と。
 そう思っているのがありありと伝わってくるような響きがあって。
 考えるまでもなく、犬飼は頷いていた。
 犬飼が頷いたのを見て、天国はどこか安堵したように笑った。
 断るはずない、と確信しておきながら。
 それでいて安堵するその様が。
 なんだかひどく、淋しげに見えた。


 犬飼は天国の髪を撫でていた手をするりと滑らせ、その首の後ろに手のひらを置いた。
 天国の首は、やけに細くて。
 このまま腕を回したら折れてしまいそうだと思った。
 細くて、暖かくて、切ない。
 その手をそこから離せなくなった犬飼に、天国は何を言うでもなく。
 目の前にある犬飼の肩に、なにげない仕草で額を乗せた。
 そこからもじわりとぬくもりが伝わってきて。
 犬飼は天国の腕を掴む手を、もう一度握り直した。






 抱き合うこともできずに、


 けれど離れることもできずに、


 どこへ行くんだろう。




 胸のうちに生じた疑問は、けれど言葉にする事も叶わず。
 故に、答えが返ってくることもなく。
 犬飼はぬくもりに縋るように、目を伏せた。









 ああ、そういえば。


 さっきコイツ、俺の名前初めてマトモに呼んだな……




 とりとめもなくそんなことを考えながら。


 犬飼は、鼻先にある天国の頭を、


 日向の匂いのするその髪を、


 己の腕で抱き寄せたら何かが変わるのだろうか、と。


 そんなことを考えていた。









 
◆END◆


 

 

 

100題・課題78「鬼ごっこ」をお送り致しました。

犬猿…っつか犬+猿ですな。
どっちかってーと犬→猿みたいな?
や、書いた本人が疑問系でどうすんねんっちう話で。

目指せ切ない系で。
犬飼氏の焦燥感を感じとっていただければいいなぁ、と。
でもそしたらCPが分からなくなりましたが(笑)

この話、続きます。
これだけでも読めるようには書きましたけれども。

UPDATE/2003.5.13

 

 

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