世界でいちばん高い場所

　高く高い、あの場所に。

　きっと、手は、届かない。

　　　世界でいちばん高い場所

　部活終了後のトンボかけは、なかなかに重労働だ。
　疲れて重い体に、トンボの重さが更に追い討ちをかける。

「くそぅ……荒野かここは、広過ぎるっつの」

　ざりざりと土を馴らしながら、天国は呟く。
　それでも、入部当初に比べれば大分この作業にも慣れてきた。
　最初はトンボの使い方すら良く分からずにいたのだから。

　大方終わったところで、ふと上げた目線に。
　視界にあの場所が映ったのは、偶然だった。
　思わず手を休めて、天国はぼんやりそこに目を向けてしまう。

　その時、何故そんな気持ちが胸の内に湧き起こったのか。
　それは、分からない。
　けれどただ、唐突に浮かんだのだ。

　あの場所に、手は届かないと。

　そんな言葉が、想いが。
　去来したのは漠然とした孤独感にも似た何かで。

　トンボの柄を握り締めたまま、天国はその場所に目を向けていた。
　夕闇に包まれたグラウンドは、それだけで寂しい場所に見える。
　今のように、人が一人減り二人減り、していく状況下では尚更だ。

　額を伝う汗をユニフォームの袖口に押しつける。
　そうした時、鼻腔に漂ったのは土の匂いで。
　今日も大概転がったしなあ、などと微苦笑しつつ、それでも天国はその場所から目を逸らさなかった。

　今は誰もいない、ピッチャーマウンドから。

　他の場所よりも一段高い、ただ一人が立つ場所から。
　天国の居場所…サードから見えるのは、投手の横顔だ。
　ホームを見据えるその表情が、天国はひっそりと好きだった。

　子津も鹿目も一宮も……悔しいながら、あの犬飼でさえ。
　ピッチャーマウンドに立った時の横顔は、どうしても目を引く。
　まっすぐに、他のものなど目に入らないような顔で、彼らは前を向く。
　他の何をも考えずに、ただ捕手のミットにボールを収めることだけに意識を向けて。

　どこよりも高い場所で、見据えるのはミットだけで。
　グラウンドの真ん中、どこよりも開けた場所なのに、何よりも閉じた場所に見えるのは自分だけだろうか。
　そんな閉じた場所で球を放る彼らが、一様に同じような孤独を背負っているように思えるのは、気のせいなのだろうか。

　捕手がいても、バッターボックスに相手がいても、内野も外野も。
　そのどれもが、あの場所には届いていないんじゃないかと。
　誰にも言ったことはないが、天国は密かにそんな事を思っていた。

　野球は一人では出来ないけれど。
　投手だけではゲームは成り立たないのだけれど。
　あの、どこよりも高い場所に立った時、そのどれもが意味を為さないのではないかと。
　そんなことを、考えたことがある。

「だって、高いじゃんよ」

　誰にいうでもなく、口は言葉を呟いていた。
　あの場所は、高い。
　自分は投手ではないから、その心境など想像するしかないのだけれど。

　孤独、というのは語弊があるのかもしれない。
　それでも、他に当て嵌まる言葉を知らない天国にとっては、彼らが背負っているその何かを孤独と称するしかなかった。

　……だけど。

　あの場所に立っているひとの横顔は、好きだと。
　そう、思う。

　まっすぐに何かに意識を向ける、その双眸は何より綺麗だ。
　届かないのが切なくて、それでも目を向けずにいられない、そんなものだけれど。
　綺麗なものは、どうして少し切ないのだろう。

　不意に、夏らしくない風が吹きつけた。
　風が髪を揺らし、前髪が視界を妨げる。
　それに目を細めて、天国は軽く頭を振った。

　この場所が、荒野なら。
　どこよりも高いあの場所に、手が届かないと言うのなら。
　それはそれで、いいと思う。

　事実を否定して現実から目を背けることが出来るほどの幼さもひたむきさも、天国にはない。
　少なくともこの件に関しては、ということになるが。

　荒野なら、駆け抜けてしまえばいい。
　手が届かないなら、声だけでも届ければいい。

　それが正しいことなのか何て、分からないけれど。
　正しさも間違いも、本当はひどく曖昧な世界だから、自分はこれでいいとそう思う。
　踏みしめた足の下には地面がある。
　伸ばした手の先に触れる、何かがある。
　たったそれだけのことで、曖昧な世界の輪郭が明確になるから。

「……上等」

　今は、握り締めた手の中にあるトンボを片付けてこようと。

　ぽつりと呟いて笑った天国は、くるりと踵を返した。
　ピッチャーマウンドに目を向けることは、もうしなかった。

ＥＮＤ

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