世間で流行ってるのは、 安っぽい愛のうたばかりだ。 掃いて捨てるほど溢れるそれは、 否が応にも耳に入り込んでくる。 中身のない、ラヴ・ソング。 ぬくもりの在る場所(傍らに在る唄と) 海開きよりも、まだ少し早い時季の海は。 「思ったより冷たいのなー」 ばしゃばしゃと水を蹴りながら、天国がどこか感心したように言う。 水を蹴り上げるそのたびに、水滴がぱらぱらと散った。 日の光を受けて、それはきらきらと輝いている。 けれど、その光景を見て。 犬飼は眉根を寄せた。 基本が仏頂面の犬飼は、それだけで相当不機嫌そうに見える。 まぁこの時の犬飼は少し不機嫌ではあったのだから、あながちその見解は間違っていないのだろうが。 「おい猿、あんま服濡らすな。帰りも電車だろーが」 「分ーかってるってー」 犬飼の、少しばかり不機嫌そうな声音に動じた様子も見せずに。 天国は足首辺りまで海水に浸かりながら、ひらひらと手を振る。 楽しげな天国は、けれど制服のままだ。 半袖のワイシャツに、ズボンの裾を折り曲げて。 靴と靴下は、波の届かない位置に放り投げられるような形で置かれている。 対する犬飼も天国と同じような格好だが。 こちらは水には浸からず、波打ち際に立っているだけだった。 大きめの波が寄せれば足が濡れるぐらいの位置。 裸足の足の下、砂はひんやり湿っている。 海開きはまだ先だが、夏のものとそう大差ない陽射しの下では、その冷たさも心地良いものだった。 「勿体ねぇの。ここまで来たのに」 ぽつり、呟く天国はけれどその口調もどこか楽しげだ。 犬飼に向けての言葉、というよりは独り言に近いのだろう。 横目で見た犬飼は、やはり波打ち際に突っ立ったまま。 最初こそ水に足を浸けはしたものの、天国が飛沫をあげ出すと同時に離れてしまった。 朝練も学校もサボって、逃げ出すようにここへ来た。 犬飼を連れてきたのは不可抗力だ。 それでも、一人きりでいるよりかは遥かに気が楽だった。 そんな自分に気付き、思わず苦笑する。 握っていた手は、離れてしまったけれど。 手のひらにぬくもりが残っているような気がするのは、気のせいだろうか。 そう、望んでいるせいだろうか。 「今何時なんだろ……」 呟いて、天国は空を見上げる。 太陽は、中空に浮かんでギラギラとした光を放っていた。 見上げたそれが思っていたより目に眩しくて、天国は目を細める。 それだけでは足りなくて、光を遮るように手を顔の前にかざした。 強すぎる光から逃れられた目は、けれどまだその光の残像を残していて。 思わず伏せてしまった瞼の裏でも、まだチカチカと光が散った。 「猿?」 「目が、チカチカしてら」 「……阿呆か」 「ひどい、犬飼きゅんてば。心配もしてくれないなんて!」 「とりあえず、きしょい」 うーん、やっぱこの格好で明美ぶりっ子は無理があるか。 呆れたように溜め息を吐く犬飼を見ながら内心で呟く天国は、それでも何か楽しいような気がして。 「……へへっ」 「何笑ってやがる。とうとうネジが飛んだか」 「犬飼、今何時か分かるか?」 小馬鹿にしたような犬飼の口調。 それに対して天国が返したのは、いつも通りの喧嘩口調ではなく。 天国はさらりとそれをかわし、何もなかったかのように別の話題を振った。 犬飼の眉間に皺が寄る。 それを見た天国は、犬飼にそれと悟られないように唇を歪めた。 嘲笑とも自嘲ともとれる、そんな笑い方。 自分の浮かべた表情がそのどちらかなのかなんて、天国本人にも分かりはしなかった。 分かろうという気も、微塵もなかったのだけれど。 今日は、挑発には乗らないことにしてんだよ。 面倒だし。悪いな。 お前がいつも通りの俺だけを見てれば、そんな居心地の悪さを感じずに済んだのに。 不器用で、無愛想で、要領の悪い、でも優しいわんこ。 お前が俺の中の夕闇に気付いたのは、 気付いて、それを見据えようとしたのは、 …一体、どうしてなんだよ。 気付かないフリして、放っておきゃ良かったのに。 そうすりゃ、朝練も授業もサボらずに済んだだろーに。 「分かるわけないだろ、時計もないのに」 「お前、携帯は?」 「置いてきた。ロッカーの中だ」 「……ふーん」 どうでもいい、とでも言いたげな口調の犬飼に、天国はどこか納得のいかないような視線を投げた。 実際、納得いかなかった。 態度も目つきも良いとは言い難い犬飼だが、割合真面目なことぐらい短い付き合いの天国でも分かる。 今朝の朝練をサボることも、今こうして授業をサボっていることも、犬飼にしてみればどこかしら落ち着かないに違いない。 口にされずとも、態度の端々にそんな心情が見て取れた。 それなのに。 何故時計の一つも持ってきていないのだろうか、と。 「別に、必要ねーだろ」 「必要ねーって……なんで」 「お前だって時計なんざ持って来ちゃいねーんだろうが」 「そうだけどさ」 「じゃ、それでいいだろ」 「…………ん」 何でもないことのように言われて。 天国は、頷くしかなかった。 どうやら犬飼の行動は、理屈じゃないらしい。 深い考えがあっての行動ではないのだろう。 それぐらい、天国にも分かった。 分かった…けれど。 嬉しかった。 正直に、ただそれだけを思った。 誰かが隣りにいるのが嬉しい、だなんて。 そんなことを思うのは久し振りだったし、それがよもや犬飼相手に感じているだなんて自分でも驚きだったのだけれど。 それが厭だとは、感じなかった。 「……猿?」 天国が、何かを呟いたのが聞こえて。 波音で簡単にかき消されるほどの、小さな声。 聞き取り損ねて名前を呼べば、天国は犬飼に視線を向けて。 その目を細めて、ふっと笑った。 天国が小声で歌っているのだと気付いたのは、その時だ。 音楽には別段興味のない犬飼でも耳にした事がある、今流行りの歌。 途切れ途切れに聞こえるその歌詞は、愛しい人へ向けた恋の唄だ。 今時珍しくもない、ラヴソング。 天国はそれを元の曲よりもゆっくり、バラードのように歌っていた。 音楽の事など分からない犬飼だが、天国のその歌はただ素直に綺麗な音だと思えた。 畳みかけるようなその声音が、まるでゆっくり胸の内を撫で上げるような。 こんな声も、出せるのか。 心にそのまま触れてくるような、そんな声だった。 きっと、野球部内では誰も聞いた事がないだろう、天国のこんな声は。 波音にかき消されそうになりながら、それでもその歌声は確かに犬飼の耳を穿っていた。 ぽつりぽつりと歌いながら、天国は犬飼に背を向けるように沖へと顔を向ける。 見やった彼方、相変わらず空と海とは溶け合いそうな色で。 それが訳もなく寂しいと、天国はそう感じていた。 寄せては返す、波。 少し足に力をこめれば、指先が砂に潜る。 けれどそれはすぐに、さらさらと波に攫われていく。 足の下の砂が、さらさらと。 聞こえるはずもないその音が、耳に届くような気がした。 「……溶けちゃえばいいのにな」 水平線の彼方。 曖昧なその色が、まるで互いを溶かし合いたいかのようで。 掠れた声で呟いた天国は、吹きつける風に目を眇めた。 湿った風が、ぱさぱさと髪を揺らす。 唄の続きを歌いながら、天国は沖に向かって足を踏み出した。 水音がする。 足の下、流されていく砂。 太陽に灼かれる、水。 どれもこれも、天国の好きな夏の色だ。 好きで、そうして少し、切ない。 何かを想う感情は、単純なばかりじゃ、ない。 水遊びをするように足で海水を蹴る天国の背中を見ながら、犬飼はふと溜め息を吐いた。 裾を折ってあるとはいっても、あれでは意味がない。 そんな犬飼の心境を余所に、天国はまだ歌い続けている。 「……オイ、猿」 その背中がどこか消えそうにも見えて。 ああ、そういえば。 最初にコイツが海へ行こうとした時も、似たような感覚に陥ったんだ。 揺れて、漂って、そのまま消えてしまいそうな。 そんな風に見えたから。 「聞いてんのか」 呼び掛けに答えない天国に、焦れて。 犬飼はもう一度、先程よりも苛立ちの混じった声で呼ぶ。 けれど天国は振り向かず、返事の一つもしなかった。 なんなんだ一体、と思いながらふと視線を下にずらし。 一瞬、犬飼はギョッとした。 天国が、知らないうちに沖へ行っていたから。 ついさっきまでは足首くらいまでしかなかった水が、今は天国のふくらはぎ辺りまでを覆っている。 それは天国が移動したからに他ならないのだが。 犬飼にはまるで、海が天国を攫っていくかのように思えた。 「お前、何してんだよ」 「何って……水遊びか?」 犬飼は、気付いたら天国の腕を掴んでいた。 自分が水に入ったことすら、意識になかった。 己の行動に驚く暇もなく、ようやく振り向いた天国がきょとんと首を傾げながら言う。 その子供っぽいとしか形容できない仕草に、犬飼は力が抜けるのを感じて。 そんな犬飼の様子を見ながら、天国は飽きもせずに水平線に目を向ける。 混ざって、 溶けて、 そうしたら。 一体、どうなるのだろう。 「平気だって。ここ、遠浅だから。溺れたりしねーよ」 そう口にした声音は。 天国が自分で思っていたよりかはずっと穏やかで。 そうしてどこか、壊れているようにひび割れた音だった。 天国のそんな声を耳にした犬飼は、眉間に皺を寄せて。 掴んだままの腕に力をこめた。 離したら、消えてしまう。 それは予感とも言えないような、曖昧な感覚だったのだけれど。 今は、この手を離してはいけないと。 それだけがただ確固としてあった。 何故そう思ったのか、なんて。犬飼本人にも分からなかったのだけれど。 「そういう問題じゃねーだろ」 「じゃ、どういうんだよ?」 「お前、ここに何しに来た」 「何って……海見に」 詰問されているようで、落ち着かない。 掴まれた腕は、少し身じろいだだけでは外れなかった。 それどころか、余計に力が込められる。 いっそ痛みを感じるほどに。 「逃げてきたんだろ」 「何、言って」 瞬間、天国の目が揺らいだのを。 犬飼が見逃すはずもなかった。 それは多分、自分を見ているのと同じだったから。 「家も、日常も、……野球も。全部から」 「勝手に決め」 「分かる。俺も、同じだからだ」 犬飼がそう言い切ったその時に。 天国は、くしゃりと表情を歪めた。 泣き出しそうな、涙が、感情が零れ落ちそうなその寸前の顔。 天国は基本的に、己の感情に正直だ。 思ったことがすぐ表情になって現れる。 「…ふ、っく……」 溢れ出した涙は、そのまま天国の感情そのものだ。 はらはらと頬を伝い落ちるそれに、けれど天国は見られたくなくて俯く。 そのまま、天国はずるずるとしゃがみ込んでしまった。 ぴしゃ、と音がして海水が膝を濡らす。 制服にじわりと水が染み込んで行くのが分かったが、もうどうしようもなかった。 犬飼に掴まれたままの腕だけが、おかしいぐらいに熱い。 けれどそれを振り払おうとは、少しも思い浮かばなかった。 「猿、歌え」 「……に、言って」 「さっきの。もう一回、聞かせろ」 唐突な言葉に、天国は思わず顔を上げる。 何をいきなり言い出すんだこの犬は。 人が泣いてるのが分からんのか、ちくしょう。 そう、文句の一つでも言ってやろうと思って。 けれど顔を上げた先にあったのは、予想だにしなかった柔らかな表情で。 「聞きたい」 懇願、というのが一番近いだろう犬飼の言葉に。 天国は涙を拭うこともせずに、口を開いた。 零れ落ちる、旋律。 それは、天国の頬を伝う涙も同様に。 止まらない。 ただ、零れる。溢れる。 逃げてきた。 そう、それが正しかった。 何から、とは言えない。 何から逃げ出したかったのかなんて、自分でも分からないから。 こじつけようとすれば、理由なんていくらでも作れるのだろう。 不安だとか、不満だとか。 そういうものは、いくらでも転がっている。 それでも、それはここへ来た絶対的な理由にはなりえなかった。 ただ、強いて言うなら。 泣いてしまいたかった。 それが一番、近い理由なのかもしれない。 ただ、声を上げて泣きたかった。 くしゃり、と。 耳元で音がした。 犬飼の指が、髪を撫でたのだと。 そう気付いたのは、数瞬遅れてから。 優しいばかりじゃない、柔らかくもない指。 それでも、キライじゃない。 「歌、上手いな」 愛想もなく呟かれた言葉に、天国は思わず笑っていた。 慰めの言葉の一つも言わない、いやきっと言えない犬飼に。 こんな時に、こんな状況下で言う言葉がそれなのか、と。 それでも、ヘタな慰めの言葉よりよっぽど良かった。 零れた笑みに、犬飼は何故笑っているのか分からない、とでも言いたげに眉を寄せ。 その表情が可笑しくて、天国はますます笑う。 「お前、おもしろい」 「何がだ」 「なんとなく、かな」 言えば、犬飼は不可思議な顔を見せたが。 それでも、それ以上を問おうとはしなかった。 面倒だったのか、興味がないのか。 おそらくはその両方なのだと思う。 やっぱり、器用じゃねーの。 内心で呟いて、けれどそれがいいのかもしれない、なんて思ってみたりする。 不安も、不満も、多分抱えきれないほどそこらじゅうに転がっていて。 投げ出したくも、逃げ出したくもなることだって、きっと珍しい事じゃなくて。 きっと、世界は遠浅なのだと思う。 あの水平線の彼方、海と空とが混じり合う場所に辿りつければ、何かが変わるかもしれない。 そう思って足を進めても。 足を濡らす水は、深くなってはくれない。 結局は戻るしかない。 それでも、こうやって誰かがいるのなら。 手を掴んでくれる誰かがいるのなら、それも悪くないかもしれない。 泣いても迷っても、また笑えるから。 人は思ったよりずっと強かで、しぶとい。 泣いたすぐ後に、また笑えるほどには。 でも、それでいい。 それが、いい。 「あーあー、乾かさなきゃ帰れねーな、こりゃ」 「最初に言っただろ」 「いーじゃん、少しくらい満喫したって」 「悪いとは言ってねえ」 立ち上がって、ぽたぽたと制服から零れる水滴に天国が苦笑すれば。 返ってくるのは、やっぱり愛想の欠片もない言葉。 いつも通りのそれに、安心する。 それに笑った天国に。 犬飼も、珍しく口元を緩めた。 輝く水面に、背を向けて。 軽口を叩き合いながら、日常へ帰ろう。 帰ったら、怒られるかもしれないけれど。 それも日常だから、それでいい。 End. |
100題・課題43「遠浅」をお送りしました。 犬+猿シリーズ三連作完結編です。 結局犬+猿で落ち着きました。 というか二作目に比べて犬猿要素減ってます(汗) 結局煮え切らないシリーズは煮え切らないまま、って感じで。 言い知れぬ不安なんてのは、誰もが感じるもので。 それは天国だけじゃなくて、犬飼もそうで。 それでも結局はなんとかなるよ、と。 多分、そんな話。 UPDATE/2003.9.6 |
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