失くしたくない。



 なくすのはイヤだ。



 ……失くすのが、コワイ。







   
「だから、一緒にいようよ。」










 伸ばした手は、届かなかった。


 空を切ったその手に驚いたのは、他ならぬ手を伸ばした御柳自身で。
 何故なら、今までそんなことはなかったから。
 この手を離れてしまったものがない、とは言わない。
 全てを縛りつけておけるほど、人は強くない。
 御柳にだって、失ったものはいくつもある。

 けれど、それは。
 それを失ったこと、届かなかったことは、今までとは比較にならないほどの虚無感と絶望感を御柳の心にもたらした。
 掠めることもしなかった。
 そんなことは初めてで、思わず伸ばした手をまじまじと見つめてしまった。

 掴みたいものが掴めない手なら、一体何の為に在るというのだろう。
 他の何をも犠牲にしても、それを掴んでいなければいけなかったのに。
 失ってはいけないものだったのに。
 何故、バカみたいにいつまでも手を伸ばしたままでいるんだろう。
 何もない、虚空に向けて。


 どれだけ後悔しようと、切望しようと。
 失ったものは、還らない。

 御柳はそれを理解できないほど、幼くはなかった。
 それなのに、伸ばした手を引くことができない。
 失ったものが還らないことを知ってはいても。それを簡単に諦められるほど、聞き分けが良いわけではなかったから。


 この手は、何の為に在る?

 何故いつまでも、未練たらしく求め続ける?


 胸のうちを駆け巡る、嵐のように激しい感情。
 苛立ち、絶望、焦燥、全てが入り混じって、ひどく重苦しい。
 御柳は激情に促されるまま、喉の奥から叫び声を上げた。
 己の鼓膜を揺らすその声は、慟哭にも似て。

 拳を握り締めたその瞬間。


 視界に、白い光が広がった。










 目の前には、白い天井。


 それが自室の天井なのだと気付くまでに、相当な時間がかかった。
 自分が横になっている、それに気付くにも同じくらいの時間を要した。
 背中や、握り締めた掌にじっとりと汗をかいている。
 嫌な、汗だった。
 寝汗と言うには、少しばかり多い。


「夢、かよ……」


 夢、だなんて生易しいものではない。
 悪夢、そのものだ。
 浮かんだ汗が、御柳の精神にどれだけの負荷を与えたのかを物語っている。

 声に出してそう言ったことで、ようやく夢から解き放たれたような気がして安堵した。
 息を吐いて、そこでようやく強張っていた体の力が抜けて行くのが分かる。
 本来体力と気力の回復をはかるはずの睡眠でこれほどまでに疲れていたのでは本末転倒だろうに。
 皮肉げに口元を歪めて、今はきっとひどい顔をしているのだろうと思った。


「っくしょ……マジ、冗談じゃねーっての」


 呟く声にも、覇気がない。
 普段の御柳を知る人間がその声を聞いたなら、何が起こったのかと驚くに違いない。

 白い天井が、やけに眩しい。
 手で目元を覆うようにすると、汗に濡れた額に指先が触れた。
 前髪が、汗で額に張り付いていた。
 そのままの体勢で、御柳はしばらく己の心音を聞いていた。
 悪夢の余韻か、脈がいつもより早めに刻まれている。

 しばらくそのまま、何を考えるでもなく目を伏せていた御柳だが。
 突然がばりと起き上がると、今まで自分が寝ていた場所の右隣りを手で探り始めた。
 シーツがぐしゃりと乱れるが、そんなものはお構いなしに。

 ぬくもりを伝えてこない、いっそ冷たくも思えるシーツは、御柳が目覚めるよりもずっと早くに隣りで寝ていたはずの人物がベッドを抜け出したことを示している。
 それは、別にいい。
 いつものことだから、珍しくもない。
 そのことで相手を責める気などさらさらない。

 ない、のだけれど。


 甦るのは、悪夢の中での喪失感。
 求めるものを目の前から浚われた、その虚無感と絶望の苦い味。
 目覚めたばかりで思考が安定しないせいか、不安ばかりが募ってくる。
 まるで、その喪失感が現実のものであるかのように。




「……くそっ」


 舌打ちを一つ。

 それから、御柳は飛び降りるようにベッドを抜け出すと、部屋を出た。
 微かに聞こえてくる物音、そして人の気配。
 それは、リビングとキッチンのある方向からだった。
 最も、それを確認せずとも相手がこの時間帯に居る場所、その行動くらい御柳はしっかりと把握しているのだが。

 ずかずかと大股で廊下を横切り、乱暴なほどの勢いでリビングに続くドアを開ける。
 御柳が渇望するその人物は、キッチンにいた。
 廊下を歩いてくるその音に気付いていたのだろう、彼はフライ返し片手にドアの方へ顔を向けていた。

 何が起こったんだろう、そう言いたげな瞳が御柳を見つめてくる。
 いつもと変わらない、その佇まい。
 それに泣きたいぐらいの安堵感を覚える自分を、御柳は自覚していた。


「何、めっずらしーのな。休みの日に自分から起きてくるなんてさ。雨降っちまうじゃ……」


 おどけたような言葉が途中で切れたのは、御柳が歩み寄り、その体を抱き寄せたからだ。
 抱き寄せた、というよりも御柳がしがみついた、と表現した方が正しいかもしれない。
 身長差があるせいで、御柳の腕の中にその体を閉じ込めたような体勢になる。
 抱き寄せた体は、当たり前のことだが温かくて。
 その体温に、ぬくもりに、言葉が出てこなかった。

 吐息のように、ようやく紡ぐことができたのはその名を呼ぶことだけ。


「天国……」


「み、みゃあ? どしたんだよ?」


 ぺしぺし、と御柳の背を叩きながら、驚いたらしい天国が聞いてくる。
 抱き締めているせいで表情を伺うことは出来ないが、おそらくはその声音と同様の途惑ったような困ったような顔をしているのだろう。
 天国だけしか使わない、猫の鳴き真似のような呼び方。
 聞き慣れたはずのその呼び方が、心に優しく当たる。

 御柳は天国の問いに答えるだけの言葉が見つからず、ただただ腕の中の天国を抱き締めていた。
 頬を寄せた天国の髪からは、御柳が使っている物と同じシャンプーの香りがした。
 昨夜シャワーを浴びた時に使ったのだろう。

 同じ匂いがする、それがどうにも嬉しくて。
 子供じみた独占欲だとは分かっていた。
 けれど、天国の髪から自分と同じ香りが漂うのを確認する度に、御柳は安堵にも似た心地になるのを抑えられなかった。
 今も。


「天国……いー匂いがすんな、お前」


「どうせなら明美の時に言ってくれ。サービスしてやっから」


「それはいらねぇ」


「何、失敬な!」


 絶望感や、焦燥感。
 夢とは言え、多大な影響力を持つそれのせいで固くなっていた心が、ゆるゆると解けていくのが分かる。
 天国の声、言葉、存在が。
 御柳の心に、どうしようもないほどの安堵感を与えていた。

 長く暗い冬が明けて、暖かな陽射しの降り注ぐ春が訪れたかのように。
 どうにも暖かく、理由も分からずに嬉しい。




「って、こんな悠長にしてらんねんだよ! 飯作ってる途中だっての、離せよ」


 唐突に今まで何をしていたのかを思い出したらしい天国が、握っていたフライ返しの柄で御柳の背を突ついた。
 本当は離したくなかったけれど、ここで機嫌を損ねると面倒だと判断した御柳は、しぶしぶながら腕を解いた。
 するりと、ぬくもりの余韻だけ残して天国が腕の中から抜け出して行く。
 名残惜しげにその背を目で追いながら、御柳はすぐ横にあった冷蔵庫にもたれかかった。

 今朝は洋食らしい。
 サラダを皿に盛り付けて行く天国は、機嫌がいいらしく鼻歌混じりだ。
 家事が嫌いではないらしい天国だが、中でも料理が一番好きな作業のようだった。
 作ったものの出来映えや感想を聞かれることは珍しくないし、御柳の好みなどを言えばそれを反映させてくれる。
 最近ではすっかり御柳の好みを覚えた天国の出す料理は、正直楽しみだった。
 楽しげな横顔に、聞いてみる。


「俺の分は?」


「いっつも作ってんだろー? 心配しなくてもあるって」


 それが心配で起きてきたのかお前、と呆れたように天国が言う。
 言われれば空腹を感じてきて、我ながら現金だなと思った。


「顔洗って来いよ。もーすぐできっから」


「んー」


 欠伸をしながら、頷く。
 まだ少し、眠い気もするけれど。
 このまま一緒に朝食を食べようと、一緒にいたいと、そう思えた。



 洗面所へ向かって歩きながら、ふと己の掌を見やる。
 失って、届かなくて、無力感に苛まれた、その手を。
 ほんの一瞬前に、天国を抱き寄せた手を。

 この手は、そのどちらもできるのだと思う。
 失うことも、抱き寄せることも。
 それだけでなく、色々なことが。
 それとは逆に出来ないことも多々あって、それに悔しさを覚えることもある。


 それでも、ただ。


 できることなら、愛しい人に優しくありたい。


 恥ずかしげもなく、そんなことを思った。
 未だにぬくもりが残っているような気がする、その掌をゆっくり握り締めた。
 触れたい。
 抱き締めたい。
 ……一緒に、いたい。
 単純なようで、きっと何より大切なことだ。

 朝食の時、きっと天国に今日の予定を聞かれるだろう。
 今日はどうする、どこへ行く、と。
 それに対する答えは、もう決まっていた。





「お前と一緒なら、どこでも何してもいいけど」



 だから、一緒にいよう。


 1分でも1秒でも、できるだけ長く。




 そう答えた時の天国の顔が早く見たいと。
 そんな風に考えながら、御柳は小さく笑った。






END


 

 

 

100題・課題10「トランキライザー」をお送りしました。

11811を踏んでリクしていただきました、柚木猫様に謹んで捧げます。
えらい長いことお待たせして申し訳ありませんです……
相変わらずのアホ丸出しな話ではありますが、よければお納めくださいませ。

御柳氏にとっての安定剤は、天国さん。
という、ありきたりと言えばありきたりな内容に(苦笑)
ラブな話は好きな上に書きやすいのでものごっつ楽しかったです。

これは自分的設定になるんですが。(↓以下反転)
冒頭で御柳氏が見ていた悪夢っていうのが、実はASP部屋の「声の彼方、慟哭の涯」だったりします。
あの話はあの話で完結してるんですけども。
やはり幸せな話が好きなんですよね。
…というか、あの話で金沢的芭猿が一つの完結を迎えてしまったようで(苦笑)、
しばらく芭猿の話が出てこなかったんです(日記ではざかざか書いてますけど)
自分の書いた話にそこまで入れ込むなよって話なんですけどね〜…

ああ、書いた書いた。すっきりしたっ♪(笑)


UPDATE/2004.3.25

 

 

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