「お、約束3分前〜」

 至極呑気な台詞を口にしながら、天国の待ち合わせ相手「俺様」はひらひらと手を振った。

 そのまま回れ右をしてやろうかと思ったのは、内緒の話。







   
最強最大ミステイク・2 〜サイキョウの効力〜







 駅前は、人が多い。
 けれど天国は待ち合わせをした人物を難なく見つけ出す事ができた。
 理由は簡単、相手が目立つから。
 外見もさることながら、醸し出す雰囲気が人目を引くのだ。
 待ち合わせ場所に辿りついてすぐ、相手を見つけ出した天国は。
 さながら品定めするかのように、上から下まで視線を巡らせた。



 灰色のTシャツに、大きめサイズのメッシュ地のタンクトップを重ね着し。
 下は、至極シンプルなジーンズ。おそらく履き重ねているのだろう、いい具合に色落ちしていた。
 本日のアクセサリーは、右腕にはめてある紺色のリストバンドと、大き目の鎖タイプのウォレットチェーン。
 別に珍しい格好でもないのだが、それがよく似合って見えるのは整った顔のせいなのだろう。
 それと、均整の取れた体つきと。

 対する天国の格好はと言えば、上はTシャツ(色は紺で前面にRealized Meという英字が白でプリントされている)、下は上と同じく紺のジーンズ。そこに白い太めのベルトを巻き、アクセントにして。
 首元には沢松からお下がりで貰ったクロス。アクセにはあまり興味がない天国が珍しく気に入ったそれは、至ってシンプルに銀の細い棒を組み合わせただけのデザインで。
 それと、頭には紺のキャスケット帽を被っていた。
 キャスケット、とはいえクラウン部分にそんなにボリュームがないタイプなので一見するとキャップに見えるデザインのものだ。それを少し斜めぎみに被っているのが、ちょっとした拘りらしい。


 着々と縮まりつつある相手と自分の距離をぼけっと眺めながら、ああアイツの隣りに行くのちょっとヤだな、などと思ってみたりする。
 何がイヤかって、何より身長差が。
 厚底靴でも履いてくりゃ良かったか、と半ば本気で考えてしまうのは、相手との身長差が10cmもあるからだ。

 今日び身長差如き、と思われるかもしれないが本人にしてみればそれは切実且つ至極真剣な問題だった。
 見下ろされる、というのはやはりあまり気分が良いものではないからだ。
 それが、態度からして威圧感満々の「俺様」相手だとすれば、尚更の事。

 ただでさえ圧されるというのに、身長差のせいで見下ろされることによりその威圧感は当社比2.5倍!
 いや、別にそんなんどーでもいいんだけど。
 ただ無性に悔しいだけでさ。
 いやでも、俺だってまだ背は伸びる!
 ……よな? 多分。
 10cmの差だって、そうすりゃきっと縮まる。
 あれこれ考えながら歩いていると、相手が天国に気付き。


 そうして物語は、冒頭へと繋がるのだ。





 呑気に手なんぞを振っている「俺様」に、顔面に一発ぶちこんでそのまま帰ってやろうかコノヤロウ、と物騒な考えが頭をよぎった。
 それを実行しなかったのは、相手が自分と同じくらい、もしくは(悔しい事に)自分以上に喧嘩慣れしているからだ。
 第一、こんな人目に付く場所で殴り合いを始めようと思えるほど、天国は愚かではなかった。

 いつものようにガムを噛みながらにやにや笑いを浮かべている「俺様」とは対称的に、天国は憮然とした表情だ。
 目の前に立つと、悔しいながら身長差のせいで見下ろされることになる。
 相手に見下ろされるということは、必然的に自分は見上げなければならないということで。
 それがどうにも、腹立たしかった。

 それでも、言いたいこと、言うべきことはちゃんと相手の目を見て言わなければならない。
 破天荒で無茶苦茶に見えても、天国は常識を知らない愚か者ではなかったから。
 すう、と息を吸ってから、天国は自分より幾分か背の高い「俺様」を睨み上げた。

「ざっけんなよ、御柳ッ。いつもいつもいつもいつも言ってんだろ、人の話をちゃんと聞けって!」

 まくし立てるような天国の言葉に、けれど「俺様」……もとい御柳は何を言うでもなくガムを膨らませてみたりして。
 その目がほんの僅かに眇められたことに、天国は気付かない。
 気付かないまま、天国はずいっと御柳に詰め寄った。


「大体お前、なんで俺に電話した後電源切ってんだよ、つながんねーじゃんか!」

 言いながら天国は御柳の鼻先にピッと指を突きつける。
 人を指差しちゃいけません、なんて常識はちゃんと理解しているのだが、それでもそんなことは今の天国にとっては忘却の彼方だ。
 家を出た後、駅へ向かう道すがら天国は電話をしたのだ。
 御柳こと天国の携帯メモリーでは「俺様」になっている、目の前の人物に。
 けれど呼び出し音の代わりに聞こえてきたのは「只今この電話は〜」という無情なアナウンスで。
 それを聞いた瞬間持っていた携帯を折るか投げるか叩きつけるかをしなかったのは、ある意味奇跡的だと言えた。

 元々天国を呼び出したのは「俺様」もとい御柳で。
 しかもその呼び出しは携帯からで。
 駅前で待っている、との言葉で切れたのだ。
 それがいきなり電波が切れることなどありえない。
 それの示す所、それは。御柳が天国に連絡をした直後に自らの意思で携帯の電源をオフにした、という事実に他ならない。

 人を一方的に呼び出すだけ呼び出しておいて連絡不可にするなんて何考えてんだ、というのが天国の弁だ。
 けれど御柳はと言えば。
 不機嫌を通り越してすっかりご立腹中の天国を前にしても、相変わらずニヤニヤしているのだ。
 それがまた天国の機嫌の悪さを煽るのだけれども。



「だってよ、そーすりゃ来るしかねーっしょ、お前」

「んなっ……」

 絶句、だ。
 御柳の言葉は天国の怒りどころか思考まで凍りつかせてしまうのに充分過ぎるほどの威力を持っていて。
 思わず金魚のようにくちをぱくぱくとさせた天国を見て、御柳は満足そうに笑った。
 おそらくその笑みは、何も知らない人から見ればとてもカッコイイ、けれど天国から言わせてもらえば悪魔の、そんな笑みだった。

「現に来てっし? 俺の作戦勝ちっしょー」

「お、おま…っ」

「まあまあ、つまんねーことはいっから。遊び行こうぜ」

 言語障害に陥ってしまったかの如き天国に言うと。
 御柳は顔の前に突き付けられたままだった天国の手を、がしりと掴んだ。
 呆けていた天国は反応が遅れる。
 目を細めて笑う御柳、それが何かしらをやらかす兆候なのだということぐらい、今までの経験上嫌というほど分かっていたのに。

「今日部活休みなんだろ? 一日一緒にいられんじゃん」

「何でそのこと知って……」

「俺の情報網甘く見んなよ?」


 言いながら、さも楽しげに笑って。
 天国は呆れたような顔のまま御柳を見やりながら、どうせ情報源は常に顔文字付きモバイル大好き小僧辺りからなのだろう、と思う。
 実際それは外れてはいないのだけれど。
 口に出されなかったその言葉に、御柳が言葉を返すはずもなく。
 御柳がす、とわずかに頭を下げたのに、天国は眉間に皺を寄せた。
 何しやがる気だコイツ、と。

 そこで気付くべきだったのだ。
 御柳はいつも、とんでもないことをしでかす。
 おそらく御柳に言わせれば天国に比べればまだマシだ、という答えが返って来るのだろうが。
 それはともかく、天国からしてみれば御柳の行動は突拍子がない。
 心臓に悪いのだ。
 だから、できれば嫌な予感のする前に、嫌な予感を覚えたらすぐさま御柳と距離を置かなければならない。
 それを、もう何度となく実感しているはずなのに。
 やっぱりいつもいつも同じ思いをしている辺り、天国に学習能力がないのか、御柳の手腕が巧みなのか。
 天国の矜持の為にも、その両方だとしておくが。

 ともかく、その時に御柳の動向を何もせずに見送ってしまったのは、天国の落ち度だった。
 それで後悔することなんて、もう珍しくないことだというのに。
 そうして今回もまた、御柳から安全だと思われる距離を保つのを忘れた自分に、天国は盛大に後悔をするのだ。


「ホントは掻っ攫いたいぐれーなの、分かんねーかなー?」

「……っ、ぎゃ!!」

 思わず、息を呑んだ。
 掴まれた手、その指先を。
 御柳の舌が、這うように舐めたから。

 駅前という場所柄、少なからず人の往来はある。
 少なからず、どころか休日しかも前日の雨天も手伝ってお世辞にも人並みは少ないとは言い難かった。有体に述べてしまえば、多かった。
 おまけに(天国にしてみれば非常に悔しいことながら)御柳の整った顔立ちは人目を引くのだ。
 ……主に女性から。

 唐突に指先に触れた、濡れた感触に驚いて肩を竦め声を上げた天国だったのだが。
 自分が何をされたのか、という事象に気付くとぱーっと頬を染めた。
 見る間に赤くなっていく頬を見ながら、御柳がおもしれー、と呟いたのは天国にとっては知らなくて良かった事実。

「な、な、何しやが……」

 何しやがるテメーここどこだか分かってんのか、と声の限りに叫ぼうとした天国だったのだが。
 御柳が人差し指を唇の前に立てて、それを制した。
 元々叫ぶようなことをした元凶は御柳なのだが、そのジェスチャーについ黙ってしまう辺り、素直というか流されやすいというか。
 天国は赤い顔のまま、御柳を睨みつけている。

「ここで叫んだりしたら、ますます注目浴びんじゃねーの?」

「それはお前が最初に……っ」

「しょーがねーじゃん。俺お前に触ってたいし」

 ぬけぬけと何を言ってやがるんだテメーはぁぁぁぁぁっ!!
 まるで何でもない事、のような表情でとんでもないことをさらりと言ってのける。
 今までの経験上、御柳がそんな性格、人間だということは重々承知していたというのに。
 それでも感情を逆撫でされてしまった自分に、天国はいい加減学べよ、と叱咤せずにいられなかった。
 けれどそれより何より、今度こそ御柳に右ストレートの一発でも喰らわせてしまいたかった。
 そうでなければ、その耳元で形振り構わず絶叫してしまいたかった。



 しかし、そのどれをも実行するより早く、御柳は天国の手を引いて歩き出していた。
 ふつふつたぎる怒りにどうしてくれようかこのヤロウ、などと呟き出していた天国は出鼻をくじかれ、連れられるまま歩き出してしまう。


「ちょ、何、どこ行く気だよ」

「飯。腹減ってんだよ」

 あくまでも強引、かつマイペース。
 放られた言葉に天国はつい今しがたまで感じていたマグマのような怒りが、急速冷凍されたかのように威力をなくしていくのを感じていた。
 天国も、いい加減分かっているのだ。
 いや、何度か強引に付き合わされているうちに分からされた、というべきかもしれないが。
 この「俺様」の言う事に、いちいち腹を立てたり動揺したりしていたのでは身が保たないということぐらい。

「俺はそんなに減ってねーけど」

 無駄だろうな、と思いつつ呟いてみる。
 と、御柳は天国を振り返り。

「奢ってやるのに?」

「行きます、勿論!」

 奢り、という音が鼓膜を穿ったその瞬間に、天国は一も二もなく返事をしていた。
 尻尾があったのなら間違いなくぱたぱたと嬉しげに振られていたのだろう、そんな表情。
 それを目の当たりにした御柳は、思わず吹き出した。

「やぁっぱお前、おもしれーわ」

 くっくっと楽しげに笑う御柳を見ながら、何を笑われているのか分からない天国は自然御柳を観察する形になる。
 御柳は、喉の奥で笑うような笑い方をよくする。
 最初のうちは、それがあまり好きではなかった。
 何だかバカにされてるようにも見えるし、笑うならもっとちゃんと笑え、と言いたくなるからだ。
 けれど見慣れてしまった今では、気にならなくなった。
 見慣れてしまうほど一緒にいたんだろうか、と考えると薄ら寒い気がするが、それはこの際考えないようにする。

 気にならない、どころか最近では御柳の笑顔を見られるのが嬉しい、とまで思うようになっていた。
 ただし、この場合の笑顔というのが示すのは、よく御柳が見せているそれではない。
 何せ「俺様」なものだから、御柳の笑い方と言えば皮肉めいたものや人を小馬鹿にしたようなものが圧倒的に多く。
 そんな御柳が時折、本当に思い出したかのような頻度でだが、年相応の子供っぽい笑い方をすることがある。

 無防備で綺麗な、見ている方の心臓が跳ねるような笑い方をする時が。
 初めてそれを目にした時は、あまりの驚きに御柳の顔を思わず掴んでしまったほどだ。
 ちなみにその後問答無用で口を塞がれたのは、天国にとって消去してしまいたい記憶ベスト3以内にランクインするものだったりする。(どういう方法で口を塞がれたのかは、勿論のこと黙秘権を行使だ)

 笑った顔は結構、カワイイんだよなー……

「って、何だよそりゃ?!」

 己のありえない思考に気付いた瞬間、思わずノリツッコミをしてしまった。
 突然素っ頓狂な声を上げた天国に、御柳は不審げな目を向ける。当然と言えば当然の反応かもしれない。
 しかし御柳といるのに天国が慣れてしまっているのと同様、御柳もまた天国の性格やら言動には慣れているのだ。
 一人青くなった天国を見て、御柳はふー、とわざとらしく息を吐く。


「……今度はなーに妄想したんだか」

「しっ、してねーよ失敬な!」

「どーだかな〜」

 にやにやにや。
 そんな擬音語が聞こえてきそうな笑い方。
 悪魔っぽい。ていうか、悪魔なんだろうけどコイツは。
 言い返した所で口では勝てないことは実証済みだったので、天国は黙りこくったまま口をヘの字に曲げた。
 屈辱を感じないわけではないが、言い返した時の方がこれ以上の屈辱を味わうことになるのは知っていたからここは黙るのが得策なのだ。
 そんな天国の心情など分かり切っている御柳は、天国の表情を見てまたくつくつと笑うのだ。


「……てーか、意外」

「あー? 何が?」

 ムッとした表情で御柳を見ていた天国だが、もう放っておこう、と決意する。
 溜め息の如く息を吐きながらぽつっと洩らした天国の言葉に、御柳は律儀に聞き返した。
 そーゆー案外律儀なトコとかもな。
 内心で呟き、わずかに肩を竦める。

「御柳が笑い上戸だとは思わなかったからさ」

「笑い上戸ぉ? 俺が?」

「うん、お前が」

 この場に二人しかいないのに、他の誰だと言うんだろう。
 口にしたのなら屁理屈こねんな、と一蹴されてしまいそうなことを考えつつ、頷く。
 御柳は天国の言葉に、珍しく驚いた顔を見せていた。
 ついぞ見ることのない表情に、天国も驚き目を丸くする。
 そんなに驚くようなことを口にしただろうか、と。


「ってか普通に間違いだから、それ」

「はー? 何言ってんだよ、今更」

「いや、だっておかしいし。考えてみ? 俺のキャラ的にありえねえっしょ」

 天国の顔の前でぱたぱたと手を振りつつ、御柳が言う。
 目の前で動くその手に顔を顰めて、天国は首を傾げた。

「や、別に……個性なんて人それぞれだと思うし……」

「あーりーえーねーえっつの」

 一刀両断、とばかりに否定されては、天国も面白くない。
 と言うより、何故否定されるのかが分からなかった。
 あれだけ人の前で笑い倒しておいて、今更否定はないよなぁ。
 というのが、天国の考えだ。
 むー…と考え込む顔の天国を見て、御柳は苦笑した。

「何、俺んなに笑ってる?」

「おう」

「……即答かよ」

「だって事実だし」


 天国の返答に、御柳は渋面を作りがしがしと頭をかいた。
 そうして思い返してみる。
 今までの自分の行動や言葉を。
 天国の様子に嘘はなかったし、そうなるとその言葉も事実なのだろうから。
 考えながら、ガムを膨らませる。
 ぷう、と膨らんだそれを破裂する前に呑み込み、口の中で噛み潰すようにして音をたてた。
 くぐもった、ぱちんという音。

「あー……そっか」

「? 何だよ?」

「いや、うん。俺、笑ってんだろ?」

「……そだけど」

 苦虫を噛み潰したかのような表情で考え込んでいたかと思えば、今度はいきなり一人納得したように頷き出した御柳に。
 天国は大丈夫かコイツ、という目を隠そうともせずに向ける。
 その視線にこめられた意味に気付かないはずもない御柳は、けれどふっと口元を緩めた。

「俺、自分でんなに笑ってんの自覚なかったんだけど」

「マジで?」

 御柳の言葉に、天国はきょとりと目を丸くする。
 同時に、少し不安になった。
 マジに大丈夫なんだろうかこの男は、と。

「いやでも、今分かった。言ってくれたから」

「……で、何が」

「俺、お前といると楽しいんだわ、すっごくな」

「まあ楽しくもないのにあんだけ笑えてたってんなら、俺はある意味尊敬したと思うけどな」


 至極冷静な顔で冷静に返した天国に、御柳は一瞬口をつぐみ。
 それからうるせえよ、と言う代わりに天国の前髪を軽く引いた。
 本当は髪の毛をぐしゃぐしゃとかき乱してやろうかと思ったのだが、今日の天国は帽子を被っているのでそれができなかった。
 大して力の込められていなかったそれは、痛くはなかったのだけれど。
 天国は引っ張られた箇所を手で押さえて、御柳に抗議の目を向けた。
 それを軽く流し、御柳は言葉を続ける。

「で、楽しいから自然と表情にも出てたっつーわけだ。単純っしょ?」

「……はぁ?」

 ワケが分からない、と言わずとも伺い知れる天国の表情に、御柳はまた笑う。
 喉の奥から響くようなその笑い声は、鼓膜をくすぐるかのようで。
 それにふっと心を撫で上げられたような気になって、天国は何とはなしに微かに肩を揺らしていた。

「だーから。そやって自然に笑えるぐらい、好きってことっしょ。分かれよな」

「す……」

「好きだって。めちゃくちゃ」



 二度目の好き、は耳元で。
 低く響く十低音のような、囁く声。
 ぞわり、と立った鳥肌に、天国は今度こそはっきりと肩を震わせた。

「お、前ぇっ!」

 おそらく、もしかしなくても、確信犯。
 耳の弱い天国に対しての。
 自分の弱点が露呈されることを喜ぶ人というのは、滅多にいない。
 例にもれず天国も、むやみやたらに耳を弄られたり触れられたりするのを酷く嫌っていた。
 バッと耳を押さえてキツク睨みつければ、御柳が笑った。
 楽しげに、声を上げて。

 ああ、ちくしょう。

 上がったボルテージが、一瞬で下がる。
 気持ちがゆるゆると溶けていくのが分かった。
 駅前から強引に歩き出された時なんて、比じゃないほど。
 嬉しそうな嬉しそうな、笑顔。
 とん、と心に緩やかに優しく、けれど確かに触れられたような。
 天国が好きでやまない、その表情。

 切り札を突き付けられてしまっては、黙るしかなくて。
 怒りどころか、思わず口元が綻ぶ。
 それでもポーズだけは、溜め息を吐いてみたりなんかして。



「ホンット、お前って御柳バカ、な」

「違ぇよ」

「あん? 何が」

「どっちかってーと俺、天国バカ、のが相応しくね?」

 ぬけぬけとそんなことを、笑いながら言うものだから。
 天国は堪え切れず、笑ってしまって。

「あーもー、マジお前って奴は……」

「俺が何?」

 言いながら見つめてくる目は、まっすぐだ。
 ひたりと見つめられて、天国は笑うのをやめる。
 覗き込んだその目は、深い水底を思わせた。
 清廉な強さを思わせる。
 天国はそれに、にやりと口角を上げて。



「……最高だよ、ばーか」

「知ってるっつーの」





 空は晴天。
 台風一過も手伝って、眩しいほどに太陽が輝いている。
 その下を歩く人々の表情も、心なしか晴れやかだ。

 けれど、心模様は。
 曇天から雷雨、快晴へとくるくる変わる。めまぐるしく。
 一時として同じ色のままでなんていられない。
 だから、面白い。

 ともかく今は、出掛けることにする。
 間違いも後悔も、それを遥かに凌駕する喜びも。
 全て受け容れて。
 隣りを歩けるその事実だけは、どうしようもない幸せだから。





 ▼END▼




 

 

 

100題・課題100「貴方というひと」をお送りしました。

やっとこ「俺様」の登場です。
大した内容でもないのに微妙に長めです。
100題13本目にして最長を誇ります。
一本ごとに完結させてはいますが、このシリーズもう一本続きます。
その話とこの話が元々一つの話だったのは内緒です。

UPDATE/2003.11.24

 

 

 

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