月と左手と切なる願い





 ぱきん、と。

 ありえない程、軽い音。
 ぱきん、が駄目ならぽきんとかこきんとか、そんな感じで。
 笑えるぐらいの、薄っぺらい音をたてて。

 その腕は、欠けてしまった。
 壊れて、しまったのだ。


 何が起こったのか分からなくて。
 バカみたいに、目を見開いて突っ立ったままでいた。
 ゆっくり、一度二度、瞬きをする。
 先に口を開いたのは、無感動な目のままのアイツの方だった。


「ああ、壊れちまったな」


 呟かれた声は、変わらないままの表情と同じにいつもと同じで。
 耳の奥に囁きかけられるような、低い音。
 憎らしいぐらい、いつもと同じ。

 だから、何が起こったのか分からなかった。
 理解出来なかった。
 呆然としている俺の目の前で、ソイツが左腕をぐしゃりと踏み潰すまで。


「あ、ば、バカヤロッ! 何してんだよっ!!」


 放っておいたら、きっと左腕が跡形もなく粉々になるまで破壊したに違いない。
 慌ててしゃがみ込んで、左腕を庇った俺に。
 ソイツは不思議そうな顔で、首を傾げる。
 不思議そうな、じゃない。実際分かっていないんだろう。
 何故俺が、こんなにも必死に左腕を庇うのか。


「何って……壊れただろう、それは」

「壊れたかも、しんねーけど! これは……この腕は……」


 答えあぐねる俺に、ソイツは更に言う。
 その目を、まっすぐに俺に向けながら。
 無感動な顔で、淡々と。


「使えなくなったもんなんて、いらねーだろ」


 違う。
 違う違う違う違う。
 ダメだ。
 この腕は、そうじゃない。
 いらなくなんてない。

 大事なものなんだ。
 他に代えようがないくらい。
 使えなくなったからいらないなんて。
 そんなこと、簡単に言うな。
 諦めるな。

 誰が何と言おうと、お前の左腕の価値は。
 俺が、知ってる。


「諦めんなよ、犬飼……!!」





 自分の声で、目が覚めた。
 厭な汗をかいている。
 天国はふー、と長く息を吐きながらパジャマの襟元を掴んでぱたぱたと空気を送った。
 額に手をやりながらふと時計に目をやると、どうにも中途半端な時間だった。

 もう一眠りしようかとも思ったが、一度覚醒した意識は眠りに沈み込んでくれそうにはなく。
 仕方ないから、シャワーでも浴びるかと布団から出た。

 なるべく音を立てないように気遣いながら、廊下に出る。
 素足に触れるフローリングはひやりと冷たくて、それが余計に意識をハッキリさせていくようだった。
 ぺたりぺたりと、ゆっくり歩く。
 歩きながら、明かりも点けていないのにやけに廊下が明るいことに気付いた。
 光源は、窓の外からだ。


「あ、月」


 そっと隙間を開けた窓の外、その中空に浮かぶ月。
 満月も過ぎて大分痩せてしまった月が、淋しげに光を放っていた。
 細い月の光は、満月の時に比べれば随分弱い。
 誇らしげな白金の光ではなく、冴えるような白銀だ。
 そこに、ふと。
 面影が重なるのは。
 つい今しがた夢で見て来たばかりだからだろうか。

 夢の中で感じた、張り裂けんばかりの想い。
 失えない。
 諦めるな。


「諦めんな」


 ぽつり、月を見上げながら呟いた。
 まるで犬飼自身に語りかけるかのような思いを抱いて。
 夢の中から引きずり出された本音は。
 それでも、決して不快なものではなかった。

 だって本当は、そんなもん認めてるから。


「諦めんなよ、犬飼」


 月に向かって、再度言う。
 願いのように、祈りのように。

 名残惜しげに月を眺めていた天国は、やがて静かに息を吐くと窓を閉めた。
 目を逸らしても逸らしきれない想いが身の内にあるのを感じながら。
 欠けた月は、それでも空に浮かんでいる。
 何故だか分からないけれど、泣きたいような気分だった。




END



 

 

左手を故障した犬飼と、
犬飼に声をかけあぐねている天国。
何だか珍しく犬←猿的な。
多分片想い。


UPDATE 2006/2/26(日)

 

 

 

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