月と影と世界の涯の話 何かがおかしい、と。 そう気付いた時には、大抵が手遅れになっているのだ。 下手に手を出せば余計に捻じれ拗れ絡まって、解けなくなる。 嵐が来たなら屋内で通り過ぎるのを待てばいい。 道に迷ったなら動き回らずその場で留まっているのが得策。 分かっているのに、知っているのに、全てが終わるのをただ待つことなんて、出来なかった。 周囲に不穏な気配が漂い始めたのを感じたのは、一月ほど前だっただろうか。 銀時が怪我をして帰って来た時は、心配はしたものの半ばいつもの事なのでそう大して気にも留めなかった。 だが、それを皮切りに新八の周りが騒がしくなっていった。 絡まれたり事故だったりと、理由は様々だが怪我をする人間が増えた。 元々新八の周囲には雇用主の銀時を筆頭に、物騒な世界に片足を突っ込んだ人間が多い。 腹に一物背中に荷物抱えた人間は一様に厄介事に巻き込まれる頻度も高い。 そんな中で一連の件の違和感に気付けたのは、他でもない新八へ向けられた“何か”があったからだ。 残り香のようなそれは、感情と呼ぶには弱く、知らないふりで目をそらすには強いもので。 何より、心にきりりと爪を立てるようなやり方を気付かぬままでやり過ごすことなど、新八には出来ない相談だった。 日の沈んだ街を歩く。 探し求める人物がどこにいるかは分からない。 だが、きっと近くにいる。 新八に気付かせる為に回りくどい手段を選んだのだ、顔を合わせることの出来る場所にいるはずだと確信していた。 そうして、思い至った場所の一つ。 新八が(殺しはしなかったものの)人を斬った、場所。 その橋の欄干にもたれて、男は佇んでいた。 指名手配されている自覚があるのないのか、顔を隠しもせずに堂々と。 左目を覆う包帯、人目を引くような柄の着流し、ゆらりと紫煙を上げる煙管。 「……お久しぶりです、高杉さん」 「よォ。元気そうじゃねェか」 返される、どこか皮肉めいた言葉と、笑いを含んだ声音。 実際に皮肉なのかもしれない。周囲の人間が次々と怪我をしている現状を顧みればそうとも取れる。 けれど高杉が本当に笑っているのかどうかは、分からなかった。 彼の背後に月が輝いている所為で、逆行になったその表情を窺い知ることは出来なかったからだ。 そのくせして、あちらからはこちらの一挙手一投足が見透かされている。動きも、表情も、ともすれば心の内までも覗かれているのではないかという気になる。 良い気分では決してないものだったが、いちいち指摘していては話が進まない。 それに例え言った所で、体よくかわされてしまうのは目に見えていた。 「僕に、何か用ですか」 「何でそう思う?」 「……貴方は、意味もなくああいう事をする人じゃない」 「そりゃ、俺もまた随分と評価されたもんだ」 嬉しいぜ、などと嘯きながら、高杉は紫煙を吐いたようだった。 ゆるり、煙が立ち上る。 会話をしながらも相変わらず高杉の表情は窺えないままだ。 まるで影と話しているような気分になってくる。 得体の知れないものと、相対しているような。 考えて、すこしだけ背筋が冷えた。 元々何を考えているのかよく分からない人ではあったけれど、今日の高杉が醸し出す雰囲気は今までで一番危ういものだった。 空気が尖っているような。 それでいて苛立っているのかと言えば、どうやらそうでもないらしい。 「何か、あったんですか」 踏み込むべきじゃない、そう思っているのに。 聞かずにいられなかった。 甘いと言われても、馬鹿だと罵られようとも、少なからず関わった人を放置しておけなかった。 放っておけない、それだけの気持ちではない事は、どこかで分かっていたけれど。 「……いや?」 僅かな間の後、高杉は緩く首を振って答えた。 そうしてゆっくりと、歩み寄ってくる。 一歩ずつ縮まる距離に、無意識に息を呑んでいた。 何故だろう、指先がちりちりと痺れるような気がする。まるで追い詰められてでもいるかのように。 元々遠くなかった距離は、すぐに詰められた。 目の前に立たれれば、流石に表情は分かる。 高杉はまっすぐに、新八を見ていた。 「ただ、決めただけだ」 何を、とは問えなかった。 口を開くより早く、高杉の手が頬に触れていた。 まるでそうする事が当然であるかのように、ふわりと。 指先がゆるゆると輪郭をなぞる。 狂気じみた破壊行動に勤しむ人物のものとは思えない程優しく、穏やかな触れ方だった。 そうしている間も、射抜くような目は逸らされないまま。 「分かってるから、俺に会いに来たんだろう?」 主語のない言葉。 だが新八には高杉の言わんとする事は伝わっていた。 いや、違う。きっと自分はそれを知っていたから、理解したから、高杉を捜した。 「……はい」 頷く。 他の誰でもない、自分の意思で。 ゆっくりと、だが確りと覚悟をしながら。 決めた、と高杉は言った。 けれど。 決めたのは、高杉さんじゃない。 きっと、僕だ。 だけど言えない。 大切なことには変わりないのに、それでも選べなかった人たちに、どう言えばいいのか分からないから。 選んだのは自分なのに、言い訳がましくそんなことを考える。 抱く罪悪感でさえ、他でもない自身の選択の結果なのに。 謝るために、後悔するために選んだわけじゃないのに。 「パチ」 「え?」 「……イイコだな」 囁くように告げた高杉の手は、言葉と同様に柔らかに新八の頭を撫でていた。 その顔には、穏やかにも見える微笑が浮かんでいて。有体に言えば、高杉は嬉しそうだった。 新八が頷いたことを、ただ喜んでいるように、見えた。 いつも見せている、皮肉めいた嘲笑とは違うそれを目にした時、胸の内が音を立てたのを聞いた気がした。 ……たとえば、このひとの手を選んだことで、一生陽の当たる場所を歩けなくなるのだとしても。 それでも、いい。 皮肉屋で分かりにくくていつだって世界を斜めに見ているようなひとだけど。 僕は、知ってる。高杉さんの優しさも、繊細さも……淋しさも。 太陽が見えないのなら、月を仰いで歩けばいい。 長く伸びる影を背に、どこまでだって行く。 僕はこのひとを、この人の心を守りたいって。そう思ったんだ。 「……行きましょうか」 頬に触れている手に、そっと自分の手を重ねた。 笑って告げれば、高杉に一度軽く口づけられた。 羽が触れるようにそっと、らしくなくただただ優しいだけのキスだった。 貴方となら、そう、世界の涯までだって。 密やかな誓いを知るのは、煌々と輝く月ぐらいのものだったけれど。 構わないと思った。 重なる手が、唇が、ぬくもりが在るのなら。それだけが真実だと。 願うように祈るように、感じていた。 |
100題76「影法師」をお送りしました。 君を浚いに来ました。 貴方と歩くことを決めました。 と、いう話。 UPDATE 2010/05/24(月) |