「その手のひらを渇望する」(副題:熱帯魚の憂鬱)




 逃げてもいい、なんて無責任な言葉かもしれない。一人の人間としてならともかく、自身の立場からすれば決して言うべきではない言葉だった。
 言いながら、心のどこかでは分かっていたのだ。
 ルークが逃げるという選択肢を選ぶ事などないと。
 哀しさと優しさを含んだ眼差しは、いっそ痛々しいまでに頑なに前を見据え続ける。
 まるでそうしなければ自身が消えてしまうのだとでも言いたげに。

 去り行く背中を見送るのは、これで何度目だろうか。
 ルークだけじゃない。いつだって自分は、見送るだけだ。
 今までだってそうで、これからもそうなのだろう。
 身の内をどれだけの激情が荒れ狂っていようと、哀しみが満たし溢れそうになっていても、ただ見送るだけ。
 それが自分の立場で、選んだ道だ。
 後悔はない。

 けれど、時折たまらなくなる。
 見送り、待つだけの自身の立ち位置に、何とも言えない苦い気分になることがある。
 背負うものの重さを理解していながら、それでも思わずにはいられない時があるのだ。
 皇帝なんてのは、祭り上げられ飾りつけられた熱帯魚のようではないか、と。
 雨の滴も火の粉もふりかからない安全な場所で、ひらひらと泳いでいるだけ。

「俺の方、か……」

 自身の手のひらを見下ろしながらぽつり、呟く。
 主語のない言葉。勿論そうしたのはワザとだ。
 誰が聞いているか分からないから。
 周囲の目を、耳を気にするのは当然で、最早それを意識することもない。
 苦笑しながら、手のひらをぐっと握り込んだ。

 逃げてもいい、ではなかった。
 逃がしてやりたい、そう思ったのだ。
 出来ることなら、叶うことなら、自分がその手を取ってでも逃がしてやりたかったのだ。
 世界など背負わなくていい、そう告げたかった。決して言えない言葉だと分かっていながら。

 何もかも捨て去りたった一人の手のひらを選ぶには、この背にも肩にも色々なものが絡み付き過ぎている。
 告げても告げずとも苦い思いをするならば、胸の内に止どめておくべきだと判断したのだ。叶わない望みを彼にまで押し付けたくはない。
 それでなくとも互いに様々なものを背負っているのだら。

 逃がしたかったのか、共に逃げたかったのか。
 口に出さなかった言葉の真意は、もう自身にさえ分からなかった。
 ただ、あの手のひらを掴みたかった。

「ルーク、帰ってこい」

 聞こえないと知りながら、呟く。ルークの姿はとうにこの場になかった。
 むしろ聞かせるつもりはなかったからこそ、言えたのかもしれない。
 それがどれだけ自分勝手な言葉なのか、知っているから。
 告げない代わりに、祈ることぐらいは赦されてもいいだろう。
 いわば熱帯魚の戯言だ。

「……帰ってこい」

 誰に届く宛もない言葉が、ゆらりと泡のように消える音が、聞こえたような気がした。


END

 

 

100題48・熱帯魚をお届けしました。

ピオルクと言い張る。卒業みたいにさらって逃げればいいよ!
ロイヤルカポーは癒しです(真顔)


UPDATE 2009/2/26

 

 

 

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