君が僕を呼んだ日 -A Day For You Called Me-





 弟が生まれた時に言われた言葉を、俺は今でもハッキリ覚えている。


『面倒見てあげてね、お兄ちゃん』


 小さな小さな弟は、覗き込んだ俺を不思議そうに見上げていた。
 泣きもせず、大きな目でただじっと。

 握り締められた手を指先でそうっと突付くと、その指が握られた。応えるように。
 細くて小さな指のくせして、握る力は驚くほどに強かった。
 小枝のような細さのどこにこんな力があるのだろうと、思わず驚くほどの力だった。

 握り締められた指と、見上げてくる黒い目と。
 縋るように必死に向けられるそれらは、何だか俺に頼りきっているように感じられた。


『うん、俺が守ってやるからな』


 今にして思えば、そう言った時の俺だってたかだか2歳のチビだっただろうに。
 けど、握られた指は暖かくて、小さくて。
 俺はひどく満ち足りた気分になっていた。


 天国、と名付けられた弟は。
 甘えたがりで泣き虫で、けど泣いたのと同じくらいよく笑いもした。
 天国の笑い方は安心したような、心の底から頼りきっているような、そんな笑顔で。

 今はどうだか知らないが、俺の知る限りの弟は大人を少し怖がるフシがあった。
 その原因は紛れもなく親父にあったのだろう。
 碌に働きもせず、気まぐれに酒を飲んでは暴力を奮うことすらあった。
 天国は自分が殴られては勿論のこと、俺や母が殴られても泣いた。
 顔をくしゃくしゃに歪めて泣く天国を宥めるのは、大概が俺だった。

 ロクデナシの親父に代わって、母は働きに出ていることが多かった。
 そうなれば、必然的に弟の面倒を見るのが多くなるのは俺で。
 保育園やらに預けられることがなかったのは、天国が大人が苦手だったからなのか、経済的に余裕がなかったからか理由は分からない。
 どちらにせよ、俺は弟が生まれてから殆どの時間を弟のために費やしていた。

 それは不思議と苦ではなく。
 むしろ天国が笑うその度に、俺は嬉しくて誇らしくて仕方なかった。
 大人相手に緊張して固くなる天国が、俺にだけは安心しきって頼ってくる。
 それは無条件に心地良かった。

 天国は知っているのだろうか。
 自分が一番最初に覚えて、喋った言葉が俺を呼ぶものだったことを。
 母でも、まして父でもなく。
 舌足らずな、甘えるような声で『にーた』と俺を呼んだ。
 呼んで、笑った。

 朝目が覚めて、寝ぼけ眼で。
 出かける為に靴を履かせている玄関先で。
 夕方、公園から家へ帰る途中の道で。
 弟は幾度となく俺を呼んだ。


 天国は、別に野球が最初からキライだったわけではないだろう。
 親父の態度が変わり出したのは、俺がある程度自在にボールを扱えるようになってからだった。

 簡単なキャッチボールでさえ、何がしかの失敗をすれば容赦なく殴られた。
 天国はそれを見ては泣いていた。
 殴られる俺を見て泣いて、それを止めようとして殴られて泣く。
 そんな日々が繰り返された。

 泣きながら親父も野球も嫌いだと言う天国の頭を、俺はただ撫でることしか出来なかった。
 キャッチボールが出来るくらいになっても、天国は決してしようとはしなかったし、俺もまた。
 苦しげに泣く天国の顔を知っていただけに、誘うことはなかった。

 親父は確かに厳しかったが、投げることが楽しくなるまでにそう時間は掛からなかったように思う。
 構えられたミット目掛けて、渾身の力でボールを投げる。
 空気を切り裂くように飛ぶ音が、ただ楽しいと思えたからだ。

 野球に誘うことはなかったが、相変わらず天国の面倒をみるのは俺の役割だった。
 段々と外に友人も作っていたが、それでも俺が迎えに行けば何をしていても嬉しそうに駆け寄ってきた。
 泣く回数は減っても、変わらない笑顔を俺に向けて。


 そのまま。
 毎日が続き、過ぎ去って行くのだと思っていた。
 何の根拠もなく漠然と。
 だがそれは砂上の楼閣でしかなかった。
 そう思い知らされたのは、親父が突然アメリカに行くのだと言い出した時だった。

 有無を言わさぬ語調で、ただ支度をしろと言われた。
 お前の才能なら世界に通用する球を投げられるようになる、と。
 仕事もせずに何をしているのか分からない親父だったが、ひっそりと奔走していたらしかった。
 アメリカへ、メジャーへ行く為に。

 もっと早い球が投げられる。
 その誘いは俺の心を動かした。
 誰にも打つことの出来ないような球を投げられれば、どれだけ気分が良いだろうか。
 渡米することでそんな球が投げられるなら。
 そう思った。

 弟と離れることになる、と聞かされたのは出発直前のことだった。
 渡米するのが親父と自分だけだとは、夢にも思っていなかった。
 今までも一緒だったのだから、これからも一緒だろうと。
 安穏と考えていた。
 家族とはそういうものだろうと。

 だが親父は違った。
 メジャーで成功する為には、役に立たないもの全てを切り捨てるつもりだった。
 それが、家族であろうと何だろうと。
 きっと、俺自身でさえ。
 役に立たない、と。そう判断されれば捨てられるだろうと。
 予感などという生易しいものではなく、確信した。

 強くならなければ。
 誰よりも、何よりも。
 それがつまりは、生きることに繋がるのだから。

 親父に手を引かれながら、俺は自身を奮い立たせるようにそう胸の内で誓った。
 誓わざるをえなかった。
 俺と、親父の背中を見送りながら泣く、弟と母を見ながら。

 二人の、特に弟の泣き声は俺の耳に、心に突き刺さるように響いた。
 守ってやると決めた弟。
 誰を置いても泣かせたくないと思った弟。
 それを泣かせているのが他でもない自分であることが、どうにもいたたまれない気分だった。


『やだ、いやだ、いやだよ。にいちゃん』


 離れることを告げた時からずっと、天国は何度も何度も同じ事を繰りかえし言っていた。
 泣きながら、俺の腕を掴んで。
 行かないで、置いて行かないで、と。
 悲痛な声で繰り返していた。

 出発の時、何度も後ろを振り返りながら歩いた。
 二人の姿が見えなくなるまで。
 最後に見た、弟は。


 俺が見るのが何より辛いと思っていた、泣き顔だった。





END

 

 

黄泉兄さん天国溺愛希望。

ということで書いてみました黄泉兄さんの話です。
兄さんはまあキライじゃないんですが、あの言葉がね……
カタカナ混じりって辛いんだYo!
(変換めんどいねん)(動揺の理由で虎鉄先輩もねぇ…)

てわけで、昔を回想するお兄ちゃんでした。
こんなに日本語流暢なのかは知りません。
ついでに妄想捏造ですいません。
こっそりWaiveお題2に続きます。


UPDATE 2005/12/09(土)

 

 

 

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