「一緒に来い」と。


 顔のない鬼が言う。


 突き出された手を眺めたままでいると、鬼は少し笑った。
 顔がないのに、どうしてだかそれがハッキリと分かった。





      
鬼の顔





「ありがとうございます、よろしくお願いします」


 可愛がってもらうんだよ、言いながら猫の喉元を指先でそっと撫でた。
 猫は、目を細めてにあ、と一声鳴く。
 それが返事のようで、アルフォンスはよかったね、とまた優しい声で呟いた。


「もう遅いから、気をつけて帰りなよ」


 猫の里親探し。
 朝から奔走していたそれも、ようやく終わりを告げた。
 最後の猫の貰い手は、初老の男性だった。
 彼はアルフォンスを上から下まで眺めて、まあお兄さんなら心配はいらないか、と笑う。
 大男、に分類される、しかも全身鎧に襲いかかるような物好きな夜盗もいないだろう、と。


「はい。失礼します」


 ぺこ、と頭を下げるとアルフォンスはガシャガシャ音を立てながら帰路につく。
 予想外に遅くなってしまったから、兄が宿でやきもきしているに違いない。
 宿を出る前に読んでいた本の残りページは、あと僅かだったから。

 今頃苛々してるかなあ。
 もう少し落ち着いてくれてもいいのに。
 性格もあるんだろうけど。
 カルシウムが足りないのかな。

 やっぱり牛乳は毎朝飲ませるべきだろうか、兄が聞いたら眉間に皺を寄せて厭〜な顔をしそうなことを真剣に考えてしまう。
 かしゃかしゃかしゃ。
 夜の街、その静けさの中ではアルフォンスの足音はひどく際立つ。
 どれだけ慎重に歩いても、どれだけオイルで関節部分をきちんと磨いていようとも、この音を完全に消し去ることは出来ない。


 その時に。
 何故空を見上げる気になったのか。
 多分、他愛もない理由だったように思う。
 歩く先に伸びる影が随分長いな、とか。
 街灯の頼りない灯りだけにしちゃ随分明るいな、とか。

 動機は何にせよ、ともかく。
 アルフォンスは、ふっと空を見上げた。
 濃紺の空、今夜は雲がない。
 星と、明る過ぎるくらいの光を放つ月。
 空に在るのはそれだけだった。

 ちかちか、きらきらと。
 瞬く光は優しい色だ。
 けれどその光は、今この瞬間にではなくもっとずっと、自分が生まれるその以前に放たれた光なのだと言う。
 彼方から届いた優しい色は、今こうしている瞬間にはもう存在していないのかもしれないと言う。

 不思議だなあ、と。
 子供のようにそんなことを考えた。
 この光が何なのか、その知識はある。
 恐らくそこいらにいる大人が説明つかないようなことまで、きっと知っている。
 けれど。
 それでも、この光は綺麗だと思う。
 そう思える心が、不思議だと。そう思う。

 たとえば見上げる光の大半が、今は消滅して塵になっているのだとしても。
 それは今の自分たちには届かない。見えない。
 塵になってしまっているのだと気付かされるのは、もっとずっと後のことだ。
 おそらく、今こうして星を見上げることが出来る人たちが死に絶えた、ずっと先の未来の話だ。

 だけど、綺麗だ。
 掛け値なしのその光は、瞬きは。
 一瞬後にそれが消えていても、綺麗であり続けるのだろうと思う。


 今この瞬間には、もういないかもしれない光。
 その存在。
 確かに見えるのに、曖昧な。
 それは少し、アルフォンスに憧憬にも似た感情を呼び起こさせた。
 違うのだと分かっていながら、それでも思うこと。
 ほんの少しだけの、同族意識にも似た何か。

 星をぼんやり見上げていると、吸い込まれるような突き落とされるような、そんな心地になる。
 その無限にも見える広がりを見上げていると、決まって。
 考えるのは、己の存在のことだ。



 片脚を失ったのも、全身を失ったのも、同じことだった。
 同じ対価だった。そこに差異はない。
 言ってしまえば兄は否定するかもしれないが、差異はない。なかった、少なくともアルフォンスはそう考えている。
 持っていかれたもの、その大きさに多少の違いはあるにせよ。
 何かを失った、その事実に変わりはないから。
 罪を犯したものには罰が与えられる、それだけのことだ。
 それを気に病む必要も、まして罪を重ねる必要もありはしなかったのに。

 片脚に次いで片腕を失い、何故あのひとはそうまでして。

 肉親だからだ。
 兄弟だからだ。

 この世に二人とない、残された唯一無二の存在だったからだ。そう、お互いにとって。


 問えるはずもない問いに、どこか意識の奥から答えが返される。
 それが本当かどうかは分からないけれど。
 肉体があって、そこに流れる血があるのなら。
 流れる血の底から湧き上がって来る本能のようなものだとでも言えたのだろうけれど。
 生憎アルフォンスには、血液は流れていなかった。
 無機質な鎧に、存在の証の魂。
 アルフォンスが持っているのは、それだけだったから。

 片腕と引き換えに生かされた意識は、本当は罪の象徴なのだろうと思う。
 誰も面と向かっては言ってくれないけれど。
 餓えも乾きもない、眠ることも疲れることも。
 与えられた鎧を動かすことはできるが、触感はない。

 だから何かに触れる時、アルフォンスは細心の注意を払わなければならない。
 力加減を間違わないように。
 壊れ物に触るように、それでいて不自然に思われないように。
 気を遣わなければならないと分かっていながら、それでも猫を連れ込んでしまうのは生きている存在に触れたいと、無意識に望んでしまっているのかもしれなかった。
 生きているものに触れることで、自分も生きていると。
 そう無意識下の底の底で、示唆したいのかもしれないと何度となく考えた。

 考えながら、それでも猫を拾う。
 触れて、拾って、寄り添ってしまう。
 猫には孤独な魂をぬくもらせる役割があるのだと、そんな話を聞いたのはどこでだったか。
 元々生き物が好きだった所為も、勿論あるのだろうけれど。
 だって猫は可愛い。

 アルフォンスにとって、世界はひどく遠く、それでいて全てだった。
 ややこしいな、と自分でも思うけれど。
 ガラス越しのような、レンズの向こうを覗いているような。
 水の中をふわふわ歩くような頼りない心地。
 それでも、世界は。
 アルフォンスにとって、愛しい全てだった。


 全てが遠いその代償のように、アルフォンスに与えられたのは思考を巡らせることだった。
 永劫にも感じられるだけの時間を、ただただ色々な事を考えて過ごす。
 それは他愛ないことから世界の仕組みまで、実に多岐に渡った。
 眠る事も疲れる事も知らない体、いや意識で許されるのは考えること。
 それは多分、贖いと許しであるのと同時に罰でもあるのだろうけれど。

 幸いだったのは、アルフォンスが持ちうる知識はまだまだ世界の一端でしかなく、考えることが山積みにされていることだった。
 考えることがあればあるほど、そこへ没頭していけるから。
 あの兄に比べれば多少なりとも落ち着いて見られる自分だが、本質的な部分はそう変わらないと思っていた。
 知識に対する貪欲なまでの姿勢と、一途さは。

 考えて考えて考えて。
 そうしているうちに時折、思考の奥にある闇が頭をもたげる時がある。
 どんなに見ないようにしても、どれだけ封じ込めようとしても、それを消し去る事は出来ない。
 けれど、その闇はひどく暖かかった。
 幼い頃に抱かれた、母の腕の中のように。
 理由もないのに無条件で安堵し、目を閉じてしまうような。

 闇は囁く。甘く、優しい声で。
 長く苦しい旅になど疲れただろう。
 全てを諦め、手放してしまえばいい、と。
 肉体を取り戻す事など、所詮夢物語。
 信賞必罰、それは不変の理だ。
 罪に与えられるのは、罰。
 けれど、与えられる罰に支払うものさえ持っていないのに。
 一体、如何する気なのだ、と。

 諦めろ。
 諦めてしまえ。
 簡単だ、血印をほんの少し、削ってしまえばいい。
 それだけのこと。
 そうすれば、たったそれだけのことで、全てから自由になれる。
 自由にしてやれる。


 繰り返し繰り返し、囁かれる冷たい、それでいて甘美な誘い。
 けれどアルフォンスが、それに首を縦に振ることはなかった。
 それが、事実でも。
 自分の存在が兄にとって重荷で、苦しめているのだとしても。

 自分がいなくなればきっと、兄は泣くのだろう。
 優しいあの人は、どうしてと呟きながら、きっと泣く。
 泣いて泣いて、自分を探すのだ。
 泣いて、探して、世界の涯へだって歩を進めて行くのだろう。
 辿りついた涯でそれでも自分が見つからなければ、きっとまた罪にその身を浸すのだろう。
 唯一の弟、その為に。

 二人と居ない兄弟なのだ、今までずっと一緒だったのだ、それくらいは分かる。
 自惚れではなく、そうするだろうと。
 どこから湧き上がるのか分からない強い思いで、アルフォンスはそれを確信していた。
 逆の立場になった時に。
 同じような事をしてしまうのではないかと、そんな思いがあるから。


 アルフォンスにとって、自分を取り巻く世界はひどく不安定だった。
 脆く優しく、鋭く冷たい。
 感覚のない指先で、アルフォンスは世界に細心の注意を払わなければならなかった。
 肉体がある時よりもずっと深く多く、世界の事を見据えるようになった。それは少しだけ、皮肉めいているなと思ったけれども。
 悪いことばかりをもたらしたわけでもないから、これはこれで良かったのだろう。

 アルフォンスから見る世界は、殻か膜にでも包まれているようで。
 見ることも触れる事もできるのに、それでも尚世界はリアルではなかった。
 理解するには至らない。何かが足りない。
 その何かが分かれば、それが旅の終わりになるのだろうか。
 何一つ、欠片も見えないそれを探して、これからも行くのだろうか。
 気の遠くなりそうなそれに、眩暈がしそうだ。
 けれど、それでも。捨てることができない、のは。


「アル!」


 呼ばれた。
 夜の闇の中を、エドワードが駆けてくる。
 金糸のような髪が揺れていた。
 闇を切り裂いて、いる。
 そんなことを思って、アルフォンスが思わず笑っていた。鎧に表情は浮かばないけれど、それでも確かに笑っていた。
 消え入りそうに微かなそれは、走るエドワードには気付かれなかったけれども。


「おっ前な〜、こんな時間まで里親探ししてんなよ。見つかるもんも見つかんねーぞ、そんなんじゃ」


 くしゃくしゃ、と髪をかき乱しながら、渋い顔で言う。
 髪がぐしゃぐしゃになってるよ、兄さん。
 思いはしたが、口には出さずにおいた。
 この、見た目だけは充分観賞に値する容姿の兄が、自分の外見を欠片も意識していないことなど重々承知していたからだ。
 まあ、鑑賞用になるとは言っても多少背丈はミニマムなのだけれど。(まかり間違っても口には出さずにおく。近所迷惑になるだろうから)
 代わりにアルフォンスは、ゆるゆると首を振った。


「違うよ、里親探しはもう終わったんだ。帰ろうとしてたんだけど、月がキレイだったから」


 だから見てたんだ。
 言って、空を示す。
 あながち嘘でもなかったから。
 月は二人の頭上、丁度天頂に差しかかる位置で煌煌と輝いてた。
 白金の、優しくも冷たくも見える光。

 示されるまま興味なさげに空を見上げたエドワードが、それでも少し表情を和らげた。
 月は不思議だ。
 太陽のように何かを育むわけでもぬくもりを与えるわけでもないないのに、それでも人の心を和らげる術を持っている。


「月ぃ? あー……満月か」

「そうだね、満月だ」

「何か、デカク見えんな」

「うん。キレイだよね」


 綺麗、その音の響きが好きだった。
 歌のような響きは、どうしようもなく心を暖かくさせる。
 美しいものを見て、綺麗だと思える、言える。
 その当たり前の事の、どれだけ貴重で大切なことか。

 大丈夫、大丈夫。
 まだ、大丈夫。
 世界との糸は、切れていない。

 美しいものを綺麗だと、可愛いものを可愛いと、そう言えているから。
 そんな感覚をまだ、自分は抱くことが出来るから。
 だから、大丈夫。
 そんなことを、考えた。


「まあいいや、帰んぞ」

「うん。ごめんね、心配かけて」

「……里親、見つかってよかったな」


 歩き出したエドワードが、早口でぼそりと言った。
 アルフォンスはそれにこく、と頷く。

 優しい兄さん。
 曖昧な世界の中で、ただその姿だけが光明だった。
 世界と自分をつなぐ糸、それは間違いようもなくエドワードが握っていて。
 一見すると頼りないそれが、どれだけの強度を誇っているか。それを理解しているのはアルフォンスとエドワード、二人だけだった。
 互いが互いの、唯一。
 元より中の良かった兄弟だが、代価を支払ってからの二人の絆はいっそ怖いほどとも言えた。

 けれど。
 そう、それでも思う。
 いつか、この先で。
 自分と世界をつなぐ糸、それを握ることに飽いたなら、疲れたなら。放しても構わない、と。
 寂しいことだけれどそれも仕方ないと、そう思う。
 心の奥の奥で、誰にも知られることのない、静かな覚悟。

 僕はきっと、罪と罰、その両方を形にしたものだから。

 口にしたら殴られるどころじゃ済まないだろうから、決して言葉にはしない。何よりそれは、自分にとっても絶対であるとは言い切れないから。
 全てを諦めることが出来るほど、物分かりが良いわけじゃない。
 もう一度、世界をこの指に感じたい。
 優しい人が引いてくれる指先を、自分の意思で感触で握り返したい。

 告げることはきっと、これから先もないだろうけれど。
 僕と世界をつなぐのは、いつだって兄さんなんだ。

 全てが空っぽになってしまった中で、残ったのは心。
 波間に漂い浮き沈みを繰り返す、ひどく不安定なそれ。
 消えてしまいそうになり、何より鋭い刃になり。それに翻弄されるのは、誰より自分自身だ。

 けれど。






 自分に向かって、鬼は手を突き出している。
 突き出されたままの手に、アルフォンスはゆっくりと首を振った。ゆっくりと、それでも確かな拒否。


「今は、だめだよ」


 自分でも驚くような柔らかな声が出た。
 拒絶の言葉を口にしたその瞬間、それまで見えなかった鬼の顔が、見えた。
 霧が晴れるように、ハッキリとその表情が伺えた。

 鬼は、アルフォンスの顔をしていた。
 持って行かれた体、それが目の前に在った。

 けれどアルフォンスはそれに驚くこともなく、鬼を見据える。
 何故だか分からないけれど、突きつけられた己の姿に動揺することはなかった。
 鬼はしばらくアルフォンスを見ていたが。やがて、何の前触れもなくその姿が消えた。


 前を向く強さも、内に巣食う鬼も、全て自分自身。
 絶対的な自信なんてない。
 何かを絶対だと言い切れるほど、この心は強くも純粋でもない。
 だけど。

 周りには優しいひとがいる。
 厳しくも優しい人たちが、いつでもいる。
 その声の届かない場所へ行くのは嫌だと思った。
 その声を振り切ることは哀しいと思った。
 だから、今日もただ歩くのだ。

 曖昧な世界を、それでもしっかりと足を踏みしめて。





 END












「ところで兄さん……お風呂、入ってないね?」

「おっ、お前を探しに出て来たんだろ?」

「ちゃんと入れる時には入ってよ。臭かったりしたら困るんだから」

「臭くねーよ!!」

「匂いって結構、自覚出来ないもんなんだよ?」

「くそー……」



 

 

 

100題・課題11「柔らかい殻」をお送りしました。

2004年の12月頃に鋼マイブームがひそりと巻き起こっておりまして。
その際にぼんやりと考えていた話です。
ちなみにコミックス派、しかも借り読みなので微妙な部分ありかもです。
スルーしてくださいお願いします勢いだけで書いたもので。
(名前を覚えていないひとが実はたくさんいます←……)

弟の持つ闇の方が、深くて暗くて怖い。
そんなことを考えてしまって、思わずざかざかと。
ぐるぐるするアルが書きたかったのです、よ。

鋼は謎が多いわそれぞれ抱えてるものが多いわなので、手を出しにくいなあと。
書きながらそんなことを思ってしまったのは内緒の話です。
多分、最初で最後になる可能性の高い鋼二次創作。


UPDATE/2005.2.18

 

 

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