日々徒然ときどきSS、のち散文
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2004/08/03(火)
SS・ミスフルパラレル]天国の涯【ヘヴンズエンド】12


【ノックしたその先に】



 カフェに比べると、天国の涯【ヘヴンズエンド】の廊下はひどく薄暗い。
 いい加減その明暗の差に慣れはしたとは言え、やはり視界がおぼつかないのは不安になる。
 指先で階段の手摺りをなぞりながら、ゆったりとした足取りで上がっていく。

 築何年なのかは知らないし分からないが、そこそこ古めかしい階段は体重をかけると軋んだ音を立てる。
 慣れ親しんだ音、けれどそれが天国はあまり好きではなかった。
 きしきしという歪んだ音は、誰かの悲鳴か泣き声のようで。

 何より、音がすると……


 考えかけたところで、頭上でがちゃりと扉が開く音がした。
 思考を破るその音に、天国は弾かれたように音源に顔を向ける。
 反射的に握られた拳と、緊張する体。

 一拍置いてから、天国は己の行動に目を丸くする。
 無意識とは言え、自分は何故敵地に居る斥候のように警戒をしているのか。
 ここにいるのは寂しいだけの人たちばかりなのに。

 俺は今、何を考えた?
 何を、しようとした?
 握った拳は、如何しようと言うんだ?



 呆然とする天国の前で、音を立てた扉が開いた。
 動いたのは1号室の扉だった。
 中から顔を覗かせたのは、青みがかった髪の青年だ。
 濃い色のサングラスをかけていて、その表情を窺い知ることは出来ない。


「レント」


 ぽつり、呼びかけるというよりも反射的に口から言葉が零れていた。
 天国の言葉に、青年が階段を覗き込む。
 瞬間的に、天国はそれまで感じていた全てを封じ込んでいた。

 愕然とした心地も、まとまらない己の思考も、全て。
 不穏な気配など、感じなかった。
 そんなもの、始めから存在しなかった。
 そう言い出しそうな風で、天国はレントと呼んだ青年に笑いかける。


「丁度よかった。飯だから呼びに来たんだ」


 擬音をつけるなら、にっこり、としかないだろう。
 そんな笑顔で天国はレントに告げる。

 レントはその言葉に、暫くジッと天国を凝視していた。
 隠されたグラスの下、その表情は分からない。
 何を考えているのかも。

 背中にひとすじ、厭な汗が伝ったところでようやくレントがこくりと頷いた。
 そのまま踵を返し部屋へと戻っていく。
 ルームメイトに夕食の事を知らせに行ったのだろう。

 彼が何か言ってくることはないと分かってはいたものの、それでも緊張が背を走った。
 扉の閉まる音に息を吐き、天国はくしゃくしゃと髪をかき乱した。
 手のひらにまで厭な汗をかいていることに、そうしてからようやく気付く。


「……バカ」


 自嘲気味に呟き、握り締めた拳で手摺りを叩いた。
 けれどその手に力はなく、手摺りを滑っただけで。
 天国の手は、手摺りの向こう側にぶらんと投げ出された。

 厭な、気分だった。
 嫌いなものを無理矢理口の中に押し込まれたような。

 苦く、暗く、重いものが胸の内に渦巻いている。
 見えないフリをしてしまいたいのに、その苦さに意識が引き寄せられるのだ。
 逆らえない引力が、どうしてだかそれにはあるのだ。

 生きているのだから、暗い気持ちも落ち込む気分もあって当然だろう。
 だが、これは。
 この感覚はそんなものじゃない、確固たる理由付けもないのに、何故かそう思う。
 本能が、そう警鐘を鳴らしているようだった。


 これは、多分――
 ハッキリとは言えない、けれど。



「今更、だ」


 掠れた声で天国は呟く。
 ぎり、と唇を噛み締めて。

 そう、今更だ。
 今更のこと、なんだ。
 過去も後悔も、全て今更。
 何になる、何故、今になって。

 自分の思考に言い聞かせるように、そんな言葉を繰り返す。
 少しの不安も、苛立ちも、その言葉で埋め尽くしてしまえとばかりに。

 軽く首を振って、天国は再び階段を上り出した。
 その顔に、すっかり"いつも通り"を張り付けて。




 階段を上りきった天国は1号室の前を通り過ぎ、2号室のドアの前に立った。
 手を伸ばし、2度ほどドアをノックする。

 が、中からの返事はない。
 出かけた様子はないから、中に居るのは確実なのだけれど。
 寝てるのかな、などと考えながら天国は再度ドアを叩いた。


「ヴィシャスー?」


 ついでに部屋の主の名前も呼んでみる。
 開けてしまおうか、などと思い出したところで、ようやくドアが開けられた。

 キイ、と軋んだ音が耳を穿つ。
 その音が何故か天国の肩を震わせた。
 一瞬だけ、天国の顔から"いつも通り"が消える。

 何故こんなにも昏い予感が付き纏うのか。
 天国自身にさえ、その答えは分からなかった。







住人紹介失敗!(泪)
いつになったら1号室のひとがちゃんと紹介できるのかしら。

UPDATE/2004.9.3