日々徒然ときどきSS、のち散文
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2003/12/15(月)
散文]硝子玉に映るさかさまの景色に焦がれる



其れが哀しいことなのか
残念だけれど僕には分からないのです。

きっとそんなことを言っていれば
僕を可哀想なひとだと思うひともいるのでしょう。

だけれどそれすら
僕にとっては他の世界の出来事に等しいのです。


他人から見た不幸と
その渦中にいる人間にとっての不幸というものは
きっと別物なのだろうと思うのです。

僕のことを不憫だと泣いたひとがいました。
でも僕はどうして泣かれるのかが分かりませんでした。

それは、
僕にとっては僕のおかれた環境や状況、
そしてそれによって生ずる感情や考えといったものが、
僕には当たり前の事象だったからです。


ひとはどんな環境にでも、
適応して生きていくものです。
生きていけるのです。

ひどい痛みだろうと
いつしか治ってしまうように。
慣れてしまうように。

たとえばそれが、
他人から見れば驚くようなことであっても。
その渦中にいる人間には
それを感じる暇(いとま)などないのです。


他のひとが
幸せそうに嬉しそうに語るのを見て、
何も感じないわけではありません。

僕も人間ですから、
それを羨ましく思う感情も
時には湧き起こります。

けれどそれは他人のもの。
どう足掻いても僕には手に入れられないもの。
求めても無駄だと分かっているものを
泣いて駄々をこねることができるほど
僕は子供でも純粋でもないのです。


他人が僕を不幸だと
可哀想だと嘆くその
事の顛末を語りましょうか。

簡単なことです。
些細で
きっとありふれた。

探せば僕よりも苛酷な状況にいるひとなんて
きっともっと山ほどいるだろうことです。

僕には父親がいません
母はいいひとです。
尊敬もしています。
たったそれだけの話です。

笑ってしまえるほど
ありふれた話でしょう。
僕もそう思います。

それでも
僕を不幸だと可哀想だと
そういう声は消えないのだとも分かっています。

僕自身はそう思ったことなどないのですけれどね。
そう言うその声こそが
その言葉こそが
僕を不幸たらしめているのだと
いい加減気付いてほしいものです。


そうそう、さいごに一つ、
関係のない話をしましょう。
びい玉に景色を映すと
さかさまに見えるでしょう。

僕はあの景色がひどく好きです。