拝啓 あの日の俺たち
安心してください、未来の俺たちは、とっても元気です。
みんな、いっぱいいっぱい傷ついたけど。全部が解決できたわけじゃないけど。
でも、今はもう、俺たちは、心から笑うことができているから。
Alea Jacta Est ―Post
Ruviconem ―
「暑い。」
セミダブルのベッドの上、険悪に目を細めた猿野は、不機嫌さを隠さずに吐き捨てた。
「暑い。」
繰り返し、もう一度。
突き刺さるような視線を、自分のすぐ隣りに向けて。
「とりあえず、うるせえ。」
返ってきた、自分に負けないほど不機嫌そうな声に、猿野は余計に眉を上げた。
「うるせえじゃねえよ、このクソ犬!
テメーがくっついてこなきゃ、こんなに暑苦しくねーんだよ、アホ!」
うだるような暑さの、熱帯夜。
クーラーもつけていない犬飼の部屋のベッドに、猿野と犬飼は並んで寝転がっていた。
それも、猿野はそんなこと、これっぽっちも望んでいないのに。
「とりあえず、これは俺のベッドだ。テメーにとやかく言われる筋合いはねえ。」
薄い唇がしれっと吐き出す科白に、猿野の機嫌は悪くなる一方。
「じゃあ、俺、ベッドから降りる!今すぐ帰ってやる!」
「それは却下。」
激昂してベッドから滑り降りようとすると、犬飼の大きな手が、それを阻んだ。
「とりあえず、してーから。」
「っ!テメーってば、ここんとこそればっかじゃん!
今日はヤダ、暑いから、ぜってーにヤダ!!」
イヤイヤと子供が駄々をこねるように首を横に振る猿野だったが、
その頬は、言葉や行動とは裏腹に、僅かに上気していた。
そんな猿野の本心を見抜いているのだろうか。
犬飼はそうっと、猿野を背中から優しく抱いて、唇を耳元に寄せて。
「天国…、してえ。」
フッと吐息のような言葉を囁きかける。
「!!」
途端にびくり、と震える体。
もう、回数を忘れてしまうくらい抱き合ったというのに、
それでもどうしても、猿野は未だ、こういう犬飼のモーションに慣れなくて。
結局、ずるずるとなし崩しに、彼に抱かれることになる。
今日もまた、その例に漏れず。
となるはずだったのだけれど。
「あ、メールっ!」
いきなり、ベッドサイドに置いてあった猿野の携帯が、低い振動音を上げた。
カラダを包み込む太い腕からひょいと逃れて、メールをチェックすると。
「あー。」
少し困ったような顔をして、犬飼の顔をちらりと見る。
ディスプレイに表示された名前は、友達の名前。
それは同時に、このワガママな恋人の、ライバルでもあって。
「あのさぁ、犬ぅ。」
少し甘えたような、ご機嫌を伺うような声色に、
猿野が何を言い出すのか大体悟ったらしい犬飼が、きゅっと眉根を寄せた。
それでも猿野は微かに躊躇するような態度をしてみせたものの、素直に両手を合わせて。
「ダチがさ、アイスおごってくれるっつってるから、ちょっと行ってきていい?」
上目遣いで、ワガママなお願いを。
ダチ、と名前を伏せるのは、やっぱり少しだけ、後ろめたさがあるからで。
ハァ、と犬飼は大きく吐息をついた。
そして、ぱちぱちと瞬きをしてご機嫌伺いをしている恋人の髪を、
ぐしゃぐしゃと乱暴にかき混ぜた。
「ダメか?」
「…タダでお願い聞いてもらおうなんて、思ってるのか?」
「うー…、じゃ、じゃあさ、帰ってきたら、してもいいよ〜ってのは?」
「………。」
髪をかき混ぜる手を止めて、もう一度犬飼は深いため息。
けれど、結局は。
「分かった、行ってこい。遅くなるんじゃねーぞ。」
ついっと視線を逸らしながら、至極不機嫌そうな顔をしながらだけれど、
オッケーの返事を出してくれた。
「サンキュな、犬!」
パッと笑顔になった猿野は、携帯と財布だけを持って、
バタバタと駆け足で、犬飼の部屋から飛び出した。
その背中を見送る犬飼が、微苦笑を浮かべたことなど、無論、気づかずに。
◆
「へへー、ホント、暑くてたまんなかったから、めっちゃ嬉しい!
ありがとなー、芭唐っ。」
「こんなモン一個で、テメーを呼び出せるんだったら、安いモンっしょ?」
「やだぁ、芭唐キュンったら、アタイのこと、口説いてんのー?」
「だから、いつも言ってるっしょ?
俺はテメーのこと、本気で口説いてるってよ。」
「…………。」
メールが届いてから、数十分後。
白い明かりの電燈がぽつりぽつりと点いた児童公園のベンチに、猿野は腰を下ろしていた。
そして、その隣りに並んで座っているのは、メールの送り主である、御柳だった。
「あの日」から、既に、1ヶ月以上経った。
甲子園の季節も過ぎ、夏休みももう、残すところあと僅か。
犬飼と御柳の仲は、結局、あれ以上好転することはなかったが、
(仕方がないことだろう。猿野とて、期待はしていなかったし、無理にどうこうしようとも思わない。)
一方、猿野と御柳は、甲子園が終わってからは、ちょくちょく一緒に遊ぶようになっていた。
勿論、犬飼はあまりいい顔をしないが、それでも猿野が誰と会っているか分かっていても、
無理やりには止めようとはしなかったし、一応オッケーは出してくれた。
だから、こうして、二人きりで会うこともたびたびあるのだけれど。
でも、猿野の中で、友達と恋人の線引きは、しっかりしていて。
甘い色を含んだ御柳の言葉をさらりと聞き流して、
猿野はコンビニの袋の中からカップの氷を取り出して、御柳に渡した。
そして、自分も自分の氷を出して、おもむろに食べ始める。
「しっかし、テメーもリッチだよなぁ〜。
俺、別にガリガリ君でもよかったのにさあ。」
二人で寄ったコンビニのアイス売り場で、猿野は迷わずガリガリ君を選んだのだけれど。
隣りに立っていた御柳は、すっと猿野の手からその袋を奪って、
代わりに少し大きめの、カップに入ったソーダ味の氷を手渡したのだ。
曰く、「ガリガリ君だったら、すぐに食い終わっちまって、一緒にいれる時間が短くなるから」。
「だから、俺は少しでも長く、天国と一緒にいてーって言ってるじゃねーか。」
「はいはい、バカなこと言ってると、溶けるぞ。」
いつもよりもずっと真剣な眼差しで御柳が迫っても、
猿野は全く無視をして、氷をスプーンで砕いている。
シャク、シャク、シャク、という音が、涼しげで耳に心地よくって、
スプーンで掬って口の中に入れると、ひんやりとした食感がして。
「うめー!」
上機嫌の笑顔を、猿野は御柳に向けた。
その瞬間、あの御柳芭唐が、一瞬軽く目を見開いて頬を上気させたことに、
如何せん鈍感な猿野は全く気づいてなかった。
反則っしょ、と小さく呟いた言葉さえ、よどんだ熱気に遮られて、耳に届く前に消えていく。
「芭唐、ホント、サンキュな!
あの駄犬、このクソ暑いのに、クーラーもつけずにべったりくっついてきやがってさ!
別に、俺もクーラーってあんまり好きじゃねーからいいんだけど、
でも、離れてりゃ暑くねーってのに、なんであんなにくっついてくるかねぇ。
って、あ。」
調子に乗ってペラペラと喋っていた猿野だったが、
すぐに、自分が御柳に対して酷いことをしていると気づいて、ごめん、と謝った。
御柳は、まだ、自分のこと、好きでいてくれるから。
それなのに、考えなしに、恋人の話なんかして。
けれど、御柳は全く気にする風もなく、あの独特の猫のような笑みを浮かべて、
猿野との距離をぐいっと狭めた。
「なるほどなぁ、そんな鬱陶しい恋人なんて捨てちまって、俺に乗り換えねー?」
「はあ!?テメーってば、ホント…!」
ばっ、とベンチから立ち上がる猿野。
ニヤニヤと笑う御柳。
「だってよぉ、そんなに不満たらたらなら、別れりゃいーじゃねーか。
俺だったら、テメーの思い通りになんでもしてやるぜ?」
「うっわ、ウソくせー。」
「そんなこと言わずに、信じろよ、俺を。」
冗談めかした、本気。
戯言のような口説き文句は、誰も傷つかなくてすむように、
いや、自分が…猿野天国が傷つかなくてすむように、という、彼なりの不器用な心遣い。
でも、その優しさに応える術を、自分は持ち合わせていない。
だって、自分が心から愛しているのは。
自分の、たった一人の恋人は。
「べーっ、だっ。テメーのそーゆー言葉は信じません!」
ぺろり、と舌を出してひらひらと手を振って見せると、やれやれと御柳は肩を竦めた。
本心はどうなのか分からないけれど、全く何も気にしていないような顔をして。
そして、今度はニッと唇の端を上げて。
「テメーのベロ、真っ青。」
「うえっ!」
確かに色鮮やかなブルーの氷には、着色料がたくさん入っているのだろう。
サイアク、とぼやく猿野に、御柳がぐいっと近づいて。
手にしていた氷は、ベンチの上に置いて。
「キスして、舐めとってやろうか?」
本気とも戯言ともつかない科白を、甘く甘く囁いた。
途端。
べちゃ―。
「あー!!!!!!!」
悲鳴に近い猿野の叫び声は、手にしていた氷のカップを、思わず落としてしまったからで。
色気もムードも何もない猿野の反応に、プッと御柳が噴き出した。
誘惑よりも、氷の方に気が行くなんて、テメーらしいよな、と言って。
「だってよぉ、まだ食いかけだったのに、勿体ねー!」
猿野の舌を染めた青い色は、今度は公園の地面を青く染めていく。
恨めしそうにその青を見つめている猿野だったが、
不意に手にひやりとした冷たさを覚えて、顔を上げた。
「やるよ、テメーに。俺はもう十分だからよ。」
手渡されたのは、御柳が食べていた氷だった。
「え、いいのかよ?」
「ああ、いいぜ。たーんと食え。」
「わーい、ありがとな!」
さっきまでの落胆っぷりは何処へやら。
破顔一笑して氷を口に運ぶ猿野。
けれど、御柳がなんの打算もなしに、そんな慈善事業をするはずもなく。
「へへっ、間接キッスだよなぁ、天国?」
「ぶっ!ば、ば、バカか、テメーっ!!」
「ハハハっ、相変わらず可愛いよなぁ、テメーってば!
じゃあ、俺はそろそろ帰るわ。
次こそは俺の恋人になっちまえよ?」
思いもかけない科白に慌てる猿野に手を振って、歩き出す。
予想外のあっさりとした引き方に、猿野は小首をかしげる。
「え、もう帰っちまうのかよ。」
「おっ、それは寂しいっつーことか?嬉しいこと言うじゃねーか。」
「違うわ、ボケぇ!テメーにしちゃあ、しつこさが足りねーって思っただけだよ!」
「『とりあえず』、帰らねーといろいろ面倒なシチュエーションなんだよ。」
「は?」
まだ分からんねーのか、と流石の御柳も呆れ顔をして、
そして、猿野の背後を指差した。
ゆっくりと振り向く猿野。
その視界に入る、長身の人影。
「うげ、犬…。」
腕を組んで立っていたのは、紛れもなく、犬飼だった。
刹那に犬飼と御柳の視線が合った。
一瞬の、沈黙。
だが、二人は一言も交わすことなく、御柳は猿野に「じゃあな」と言って歩き出し、
犬飼は御柳の代わりに、猿野の目の前に歩み寄った。
「ったく、心配させんな、バカ猿。」
ふう、と今日何度目かの吐息をついて、犬飼は猿野の体をそっと抱きしめた。
途端に猿野は眉を顰め、その腕から逃れようとする。
「暑い、うざい、ハズイ。」
「とりあえず、心配だったんだから、これくらいさせろ。」
「心配っつっても、たかだか1時間のことじゃねーか。」
「でも、心配なモンは心配だ。」
今度は猿野の方が、ため息をつく番だった。
「…やっぱ、アイツと会ってると、心配か?気分悪いか?」
だが、予想外に、問いかけに対する犬飼の答えはノーだった。
「別に、アイツだからってワケじゃねえ。
…むしろ、アイツの方が、手の内がまだ読めてるから、マシかもな。」
それはどちらかといえば強がりに近い科白だったけれど。
それでも、ただ憎むだけだったあの頃に比べれば、少しは前に進んでいるから。
クス、と猿野は笑った。
そして。
「安心しろ、俺が愛してるのは、テメー一人だから!」
そう言って、犬飼の首に腕を回して、キスをした。
着色料の青い色が移ってしまうくらいの、深い深いキスを。
犬飼の家へと向かう道すがら、夜空に煌々と輝くのは満月。
誰も通らないのをいいことに、二人はぎゅっと手を繋いで、
少し気温の下がった夜道を、ぶらぶらと歩いていた。
猿野は、満面の笑みで。
犬飼は、微かに唇に笑みを漂わせて。
そして、今は自分のマンションに帰っているであろう御柳もまた、
さっきのやりとりを思い出して、あの独特の笑みを浮かべているに違いない。
全てがうまくいったわけではないけれど、それでも自分たちは今、笑っていられるから。
それが、とても、とても、幸せ。
「犬。」
「なんだ、猿。」
「帰ったらさ、ホントに、しても、いーよ。」
そうっと犬飼の耳元に囁いて、照れたような笑いを浮かべて、
猿野はまだ青い舌を、ぺろっと出して見せた。
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≪Comments≫
5万Hitsお礼SS、最後の一つは、『Alea
Jacta Est』の後日談でした。
5万打アンケートで『Alea―』が一番になった時点で、
後日談をお礼に書こう、というのは決めていました、実は。
少しだけ前に進んだ、少しだけ成長した彼らの姿に、
何かしら感じていただけたら嬉しいなあ、と思っています。
ちなみに、タイトルの「Post Ruviconem」は、「ルビコン川以後」。
つまり、カエサルが「Alea jacta est」と言って川を越えた後、ということです。
「??」という方は、ローマ史の本を見てくださいねv(笑)
それにしても、このシリーズの犬ってば、ホントにヘタレですね(笑)
こんなことをしていると、芭唐に猿をとられてしまうぞ〜。
でも、猿がしっかりしているので、なかなかそういうことにはなりそうにもないですが。
犬飼と御柳の関係は、やはり『あの人』のこともあるわけですし、
そう簡単には改善されていないようですが、
でも、アイコンタクトで互いの意思を図りあえるほどの仲だったりして、
本当は仲がいいのか悪いのか…(笑)
とりあえず、猿野は今の三人の関係を思い切り楽しんでいるようです。
一応、フリーとなっておりますので、
もし万が一、欲しいと思ってくださった方がみえたら、どうぞお持ち帰りください。
ものすごく需要は低いとは思っていますが(笑)
最後になりましたが、5万打企画にお付き合いいただき、ありがとうございました!
これからも、皆さんの温かいお言葉を胸に、頑張っていきますので、
またお時間があるときに覗いていただけると幸いですvv